安倍貞任

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安倍 貞任(あべ の さだとう、1019年? - 1062年10月22日)とは、平安時代後期に東北で暴れまくり、平和の微温湯に浸かっていた貴族達を仰天させた戦闘民族安倍軍団の親玉である。源義家のライバルとしても知られている。

安倍氏[編集]

安倍貞任の肖像画

京都から遠く離れた陸奥の地には、朝廷の干渉を受けずに領土を支配する、自立傾向の強い豪族が多かった。彼らの中には勢力を拡大して南進し、中央政権を脅かすものもおり、朝廷は坂上田村麻呂などを派遣してこれを鎮圧させた。肥沃な大地に恵まれ、山海から採れる豊富な資源と貿易を利用して版図を拡大した安倍氏は、出先機関である陸奥守と遂には対立するに至り、これが引き金となって中央政権との全面戦争に勃発したのである。

人物[編集]

貞任は、中央政権と反目した際の安倍氏の当主、安倍頼時の次男であった。文献によれば、貞任は大層恰幅の広い巨漢だったようで、『陸奥話記』は彼の容貌について「身長210cm、胸囲180cmの大男」と伝えている。

どう見てもハート様です。本当にありがとうございました。

かくして、貞任は陸奥話記における言及から「アベ・ハート」と呼ばれるようになった。

貞任は怪力自慢の大男のみならず、頭の回転も鋭敏で、軍略に長じていた。貞任はじめ、安倍一族を討伐するべく、朝廷は源頼義という老いぼれ武士を派遣した。源氏は武家の名門だが、頼義のような老いぼれを派遣する辺り、中央政権は安倍氏など本気を出すまでもなく、赤子の手を捻るように潰せると見込んでいたのだろう。そしてその見通しはあまりにも甘すぎた。

頼義は手練手管を用いて、頼時の跡を継いで当主になった貞任の首を獲ろうとしたが、逆に翻弄され、氷が張った湖上をほうほうの体で遁走しているところ、貞任に氷を割られて水中に真っ逆様、軍勢は壊滅し、頼義もあわや溺死しかけた。老いぼれの源氏武者では、到底勝ち目はなかったのである。

しかし、頼義の側にも秘密兵器があった。自慢の息子、源義家である。義家は元服したての十代であったが、若い頃から勇猛、聡明であり、彼が前線に立って指揮を取ったことで劣勢は挽回され、なし崩しに貞任らは苦境に立たされた。

そして、粘り強く戦った貞任も、ついには拠点としていた衣川柵が陥落した。脱出する貞任に義家が追いかけて、何か素晴らしい和歌でも詠んで自分の株を上げようとしたが、 五七五七七が上手に思い浮かばず、「衣のたては ほころびにけり」という最後の七七しか思い浮かばなかった。貞任は、敵ながら義家の歌の才能の低さを憐れんで、「年を経し 糸の乱れの 苦しさに」と五七五を補ってあげて、敵の義家に歌の指導・添削を戦場でしてあげるという微笑ましい伝説を残した。貞任は結局、厨川柵に追い詰められ、全身に矢を射られて討死にした。戦後、貞任は頼義を裏切り安倍氏の側についた藤原経清と共に、首を五寸釘で打ちつけられて晒されたが、その際、首を切断するのに生半可な刀を使っては逆に刀が折れてしまったので、巨大な鋸を使ったという。その鋸は、今尚平泉中尊寺に奉納されているらしい。

アンワル・貞任[編集]

安倍貞任の生誕からおよそ900年後、エジプトに出現した豪族。安倍サダトは朝廷に制圧されたが、アンワル・貞任は大英帝国による植民地支配に抵抗した。逃亡中はカイロの日本庭園で過ごしたそうだが、安倍サダト並みの和歌の才能があったかは不明。1952年のエジプト革命に参加後、共和国政権でお大尽となる。1970年にはナセル大統領の跡を継いで二代目大統領に就任。エジプトとイスラエルは源氏と平家ばりの抗争を続けたが、アンワル・貞任はイスラエルとの和平を推進。しかしこれは国民の反発を招く。さらに1979年のイラン革命後、落ち武者となったモハンマド・レザー・シャー皇帝を助けてやったが、これも庶民のやっかみを買う。このためか1981年に暗殺される。ウィキペディアには「アンワル・アッ=サーダート」と書かれているが、イスラム教では同性愛は禁止なので「アッー!」な趣味があったかは不明。