学校がなくなってしまえばいいのに

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学校がなくなってしまえばいいのに(がっこう-)とは、世界中の多くの学生たちが何度となく願いつづける祈り言葉である。

概要[編集]

学校。それは、勉学の場であり、社会生活の場であり、人間関係を刻み込む場であり、うれしい楽しい給食カレーライスの場でもある。

しかし、世の中にはカレーライスが嫌いな子供だっている。

それはごく少数として、勉強嫌いの小学生、人間関係のストレスに悩む中学生試験の結果に一喜一憂する高校生、そして生徒指導に悩む教師など世界中どこにでもいる。そんな彼らが常日ごろ頭の中に思い描く祈り、もしくは呪詛が「学校がなくなってしまえばいいのに」である。

大変に分かりやすい話である。しかしながら、多くの子供たち、もしくは元子供たちに言っておかなければいけないこととして、この祈りを行う際に、学校がなくなってしまう「日時」、なくなってしまう学校のある「場所」、その「方法」についてを、絶対に忘れてはいけないということである。

絶対に。

呪詛[編集]

そもそも、神に対する祈りでも、悪魔に対する祈りでもなんでもいいけれど、本人の願いなんてものはえてして勝手でありアホであり、そもそも叶うわけがないレベルの類のものが多い。けれども、叶うわけがないなんてレベルの話が叶ったとき、なぜか、祈った側にダメージが来る場合がある。なぜなら、こういった類の祈りは、えてしてまじない、呪詛といった一種の呪いのような要素が含まれているため、かなってしまったとき、必ず、精神的な対価が求められるためである。

その、いわゆる呪詛返しに当たるダメージは、いっちゃあなんだが、重い。シャレにならない。

学校がなくなった[編集]

もう一度言う。「学校がなくなってしまえばいいのに」という願いは、絶対に「日時」、「場所」、「方法」をしっかりと明記しておけ。それが叶わないように。絶対に。ついでに、高校でも、大学でもいいから、卒業の際にそれを取り消しておけ。そうしないと、本当に学校がなくなった場合、自分の愚かさを身にしみて実感することになる。

そもそも、学校なんてものはなくなる。本当になくなる。えてして、祈った人間とは関係のない場所、日時、方法でなくなる

そのため、高校、大学を卒業して何年もたって、いきなり願いがかなってしまう、もしくは、祈りが届いてしまう。しかも、自分とはまったく関係のない場所に。しかも、自分が思いもよらない方法で。このような話は無数に存在し、多くの人間に自分の愚かさを実感させている。とりあえず、アホな願い事はするな。するんなら、「いつ」「どこで」「誰が」「なんのために」願うのかちゃんと取り決めておけ。冗談でもなんでもなく。アホな願いというものは、神様でも悪魔でもなんでも叶えてしまった場合の精神的ダメージを考慮して願わないと、いつまでも自分の心に自分で爆弾を仕掛けたような状況になる。

別の祈り[編集]

子供という存在は、日ごろのストレスや嫌な気持ちが大きくなれば大きくなるほど、ひどい結果も丸ごと含んで祈りにささげてしまう傾向が強い。むしろ、「学校がなくなってしまえばいいのに」なんて祈りは単純で分かりやすいほうである。ひどいのになると「学校が火事で燃えてしまえばいいのに」「○○先生なんて死んでしまえばいいのに」「○○君の一家全員不幸になればいいのに」といった、実に明確な言葉で祈りがささげられることも多々あり、そういった場合でも、えてして、自分が思ってもみないときに叶ってしまって、心にダメージを負うことが多い。

子供のときの願いというものは、実にバカなものである。

・・・叶った後のことなんてまったく考えもしないでさ。

学校は復活する[編集]

しかし、世の中は面白いもので、アホな祈りが変な方法で叶えられ、学校がなくなってしまった後はだいたい、学校を元通りにするという、とてつもない強固な意志の塊が、現実の世界に現れる。願いでも祈りでもなく、ましてや呪詛でもなんでもない、明確な意思と計画と、決意の塊が現れる。しかも、無数に。あれだけ学校にいきたくなかった子供たちも、子供たちに死んじゃえと言われた先生も、本当に不幸になった○○君も、一緒になって歯を食いしばって学校を元通りにしようとする。

だいたいは、元通りにはならないのだけれど。

それでも、なくなった学校復活することを祈り、学校に通えることを全員が喜ぶ。自分が勉強できることの有難さを実感し、残った人間関係を大切にして、あれだけ気が重かった試験にすら必死になって取り組む。もちろん、カレーライスに大喜びして。

・・・世の中は皮肉だけれども、生きてるってえのは、つまり、そういうことである。

似たような話[編集]

こういった呪いや祈りといった類の話は、実はどこにでも存在している。

有名な話として、保元の乱で破れ、讃岐国(香川県)に流されて1164年に憤死した崇徳上皇が死の間際に残したといわれる、日本国に対する呪詛や、もしくは承平天慶の乱で敗死した平将門の呪いなど、こういった「いずれ叶うのが当たり前の呪い」は、世界中どこにでも散見される。対象が大きく、期間が永遠で、しかも人々の心に残っていれば絶対にいつかかなう呪いなんてものは、でかい事件や事故、災害などの後に必ず飛び出てくるようになっている。

クソじゃかましいわボケ

そういった、伝説を利用した後出しジャンケンに対しての予防法は、上記の一言に限る。しかしながら、自分の祈りに関してはそうはいかない。そして大体「子供の頃の祈りはなし、取り消し」と思うときは、遅すぎる場合が多い。そんな場合、精神的ダメージにクラクラしつつ、粛々と「学校と地域の復興」や「日本全体の幸福」を祈るか、もしくは祈るだけでなく実際に動くかしたほうが精神的にも楽。非常に。ついでに、自分の子孫に「アホな願いをするな」と言っておく。そうしないと、似たような爆弾はいつまでも後世に残り続けることになる。

もっとも、この爆弾が無くなる日はないと断言できる。

子供とはそーゆーものである。困っちまう話だけれどもさ。

関連項目[編集]