姉小路頼綱

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姉小路 頼綱(あねがこうじ よりつな、天文9年(1540年) - 天正15年4月25日(1587年6月1日))は、元の姓を三木氏という戦国時代のニセ飛騨国司である。

生涯[編集]

飛騨の有様[編集]

飛騨国は元々、国司姉小路家に支配されつつも守護として京極氏が統治するという混沌とした地であり、しかも領内の土地は山また山で、平地はその谷間くらい、だのに冬場は雪が深くてロクに動かれず、特産品も材木くらいしかない上に、白川郷の内ヶ島氏は飛騨国人なのに金を産出するからと朝廷支配下なので別格扱いとされるような国であった。

そんなであるから姉小路家もフラストレーションがたまってか古川姉小路・小島姉小路・向姉小路の三つに分裂、それぞれが正統な国司を主張し、京極氏をも交えて相争うようになった。狭くて雪深い谷間でひしめき合い、さぞ窮屈であったのだろう。

・・・と思いきや、姉小路の三家も京極氏も基本的に京都住まいであり、寒い飛騨には殆ど戻らず京都でヌクヌクと言い争いをしていたのが実情である。
まぁ戦国時代の飛騨は、周辺を越後国長尾氏(後の上杉氏)越前国朝倉氏甲斐国信濃国武田氏美濃国斎藤氏と強烈な連中に囲まれており、しかも飛騨の兵は白川郷を除いた全国人の兵を足し合わせてもたった2,000人以下というおそらく全国最下位の総勢であり、飛騨に戻りたくなかったのは必ずしも寒いからだけでは無かったろうことは否めない。

三木氏の乗っ取り[編集]

ただ、このようであるから、頼綱の祖父で京極氏の被官であった三木直頼が鬼の居ぬ間に力を蓄えるのは容易であり、姉小路家と飛騨国司の立場を乗っ取るなど雑作も無かった。

まず直頼は姉小路家の内紛の調停役を買って出て、古川姉小路を自らの傀儡とする。更に息子で頼綱の父にあたる三木良頼に向姉小路家の娘を娶らせた(小島姉小路家はいつの間にか自滅し、京極氏は没落)。ついでに浄土真宗に入信して一向宗の力を利用しようとまでしている。これにより朝倉宗滴に目を付けられるが、時に武田氏、時に長尾氏に近付いて虎の威を借ること盤石であったので毛ほども思ってなかった。

直頼の野心は良頼にも受け継がれる。良頼は古川姉小路の家督を無理矢理に頼綱へ継がせて姉小路氏を名乗らせて、朝廷にも図って頼綱を飛騨国司だと認めさせた。そのついでに、自らも姉小路氏をちゃっかり名乗る。良頼は更に中納言まで名乗ろうとしたが流石にこれは朝廷に怒られる。しかし良頼は、ならばと勝手に名乗り始める始末であり、とんでもないツラの皮であった。

そして、その厚顔無恥っぷりはしっかりと頼綱にも受け継がれており、頼綱は近衛前久をワイロを用いて使役し、従三位・参議の位を獲得、佐々木京極氏の分家である多賀氏を先祖と言い放っていた何処の馬の骨かもわらかない輩が公家成りを果たしたのでおじゃる。更に、父の果たせなかった中納言の名乗りを認めさせようと謀り、また朝廷に素気無くされると、父と同様に中納言を自称した――と思いきやいつの間にやら大納言を自称し始めたでおじゃる。あなおぞましき…。

ついでに言えば、頼綱の正妻は斎藤道三の娘と系図にあるが、これもかなり疑わしくおじゃる。

ライバル江馬氏[編集]

さて、良頼・頼綱親子が公家気取りで浮かれている間に、飛騨は越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄の板挟み状態に陥っていた。しかも頼綱は上杉に属していたのだが、もう一方の飛騨の有力国人である江馬時盛は厚顔無恥親子を嫌って、わざわざ上杉派である嫡子江馬輝盛を追放してまで武田氏に属したのである。

時盛のアンチっぷりはハンパなく、永禄7年(1564年)江馬氏の案内で武田家臣山県昌景が飛騨に攻め入り頼綱は武田への臣従を余儀なくされたのであるが、それより間も無く「第5次 川中島の戦い」が起こり山県勢が去ると、時盛はあっさりと上杉方に転じるほどであった。たぶん時盛が上杉に寝返るための工作だったのだろう・・・しかし、時盛も大概であり、翌年に山県昌景が越中椎名氏へ侵攻するために再び飛騨入りすると、あっさり武田従属に戻る変わり身の早さであった。

しかし頼綱は伊達に公家成りしていなかった。織田信長が上洛を果たすと、京都から評判を聞き付け、元亀元年(1570年)早々に誼を通じるのだった。ただし江馬時盛は、御蔭で武田と上杉の間を軽々と往ったり来たりできるようになったと逆に大喜びであった。しかし、すぐに武田信玄が死亡、これを好機と見た時盛の子の輝盛は父を暗殺して家督を奪い、江馬氏を上杉一辺倒とするのである。まぁ以降の武田の没落を思えばラッキーだったと言えよう。

飛騨統一[編集]

小粋なアメリカンジョークをとばす頼綱

天正6年(1578年)、上杉謙信が死去し「御館の乱」が発生する。頼綱は、織田への忠節の証しに上杉方であった飛騨国人の併合を進める――との名目で飛騨統一を画策、次々と攻め滅ぼしていく。結果、反姉小路派が台頭する・・・つっても全兵数は相変わらず2,000人以下であるから、よそから見たら可愛いものであるが。

ともあれ頼綱は信長の威を借り、上杉方を見境なく攻撃する。上杉に通じる塩屋氏はもちろん、嫡子の姉小路宣綱が上杉方であったのでこれを殺害している。しかし本能寺の変が発生し信長が死去するや、反姉小路派は息を吹き返すのだった。

遂にライバル江馬氏と雌雄を決する時が来る。
飛騨の関ヶ原と呼ばれる「八日町の戦い」であるが、関ヶ原とはまた大袈裟で、姉小路勢は1,000江馬勢は300しか動員していない。後の軍記物では姉小路勢は2,000江馬勢は3,000とあるが、飛騨の関ヶ原とか大風呂敷を広げてる手前、大幅に捏造しないとこっ恥ずかしかったのであろう。

ともあれ、この戦いで頼綱は江馬氏を倒し、遂に飛騨統一を成し遂げたのである・・・と史書にはあるが、同じ飛騨であるはずの白川郷は統一範囲に含まれていない。まったく都合のいいことである。

没落[編集]

頼綱は更に地位を盤石とすべく実弟の鍋山顕綱を暗殺、更に自らに従属していた広瀬氏も討って城を奪った。

しかし、飛騨統一(白川郷を除く)に有頂天になっていた上に、公家成りで自尊心が高まり過ぎたか、百姓上がりの羽柴秀吉が台頭してくると佐々成政についた。秀吉が金森長近勢を飛騨に派すると、頼綱はこれを迎え撃とうとする。が、総勢は相変わらず2,000人以下であるので敵う筈も無く、あっさりと城を開いて降伏するのだった。

以降は京都に幽閉される。大納言を自称するくらいだから逆にラッキーだったのでは、と思いきや、当人はほぼ飛騨から出たことがないため、慣れなかったのか2年後に死去するのだった。