太平記

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太平記(たいへいき)とは、14世紀、数十年間に渡って書かれた壮大なリレー小説である。立場も思想も異なる複数の人間が執筆に携わった為、文体に一貫性がなく、話に辻褄の合わない部分も散見されるが、今日ネット上に氾濫しているようなリレー小説とは比べ物にならないほど優れた構成で、今なおリレー小説の白眉と称賛されている。

端緒[編集]

時は14世紀、鎌倉幕府が滅びて建武の新政が行われていた頃、公家の万里小路藤房が酒の席で同僚らを前に「暇だからリレー小説でも作らね?」と言った。この藤房の素っ気無い一言が、数十年に渡るリレー小説の開闢となった。皆軽い気持ちで執筆していたため雑把で易な文章で書かれていたことから「大平記」と呼ばれていた(「平記」という呼称になるのはまだ先の話となる)。

人から人の手へ[編集]

朝廷による倒幕運動、それに与した者達の活躍を活写する英雄譚をテーマとして、執筆初期は言いだしっぺの藤房を初め公家達の間を盥回しにされていたが、時を経るにつれ皆のモチベーションも下がり、さらに藤房が後醍醐天皇との間に軋轢を生じて出家、逐電してしまったため執筆は殆ど停滞してしまう。しかし、このままリレー小説が途絶える事を憂いだ一人の公家が知己の僧侶にリレー小説を渡した所から新たな転機が訪れる。それまで公家達の間でのみ回されていたこのリレー小説は、僧侶や武家の手にも渡るようになり、多くの人々を通じて連綿と書き連ねられていった。俄然、リレー小説大平記の知名度も上昇してゆき、既にこの頃から多くの写本や贋作が生まれた。

この時大平記は既に鎌倉幕府の滅亡寸前まで書かれており、後は新田義貞の蜂起、鎌倉炎上、天皇親政の復興を描くくらいで完結するかと思われていたが、完結を惜しむ声が強かった。また後醍醐天皇の親政は不満も大きく、大平記に仮託してこれを批判しようとする者も多かったことから、「もうちょっとだけ」と言いながらこの先何十年も続くことになった。形式的に鎌倉幕府の滅亡で「第一部」完結とし、この後、南北朝の騒乱を描いた「第二部」以降が書かれてゆく。

改訂[編集]

やがてリレー小説は北朝の僧侶である円観の手に渡り、そこから足利直義に渡された。これまで大平記の執筆に携わってきた人物の多くは南朝方の人物であったため、自然と南朝寄りの内容となっており、直義ら足利氏、北朝にとって不都合な真実も多く含まれていた。これに難色を示した直義は手直しと言う名の改竄を行った。最初の執筆者である万里小路藤房は、他者の書いた節を改竄してはいけないというリレー小説を執筆する際の鉄則を設け、大平記の初頭に注意書きを記載していた。公家達の手を離れた後もこの掟は遵守されてきたが、直義はその鉄則を犯し、注意書きを破り捨てた。ただ改竄といっても完全に別色に塗り替えてしまったわけではなく、骨格を崩さないよう最低限に留めておいた。しかし、直義の改訂後も大平記は南朝と北朝の間を行き来し、改訂と言う名のリバート合戦が度々行われた。この頃から、大平記は政治的な側面を帯びてくる。

大平記はリレー小説の名の通り様々な人の手に渡り、その度に加筆されていった。執筆者の多くは上流階級の人間で、教養は高いが説教臭く偏屈な連中が多かったという。その為内容も説教臭くなり、中には一々持論を述べるのも面倒だったのか、中国の故事などをそのままコピペして記述するような輩もいた。(ウィキペディアアンサイクロペディアでは御法度である。)また執筆者の中にはオカルトマニアもいたようで、魑魅魍魎や亡霊、天狗が暗躍する話なども挿入された。

児島高徳の宣伝[編集]

そんな折、大平記を使って自分の名を高めようと悪巧みするものが現れた。名を児島高徳という。「高徳」という諱が示すとおり、元々は北条高時の廷臣(高徳の「高」は高時の偏諱)であったが、旗色が悪くなると討幕軍に寝返りした男である。狡知が働き、功名心の強いこの男は、大平記に自分の武勇伝を捏造して記述することで名を挙げようとした。高徳が自身が後醍醐天皇を助けたというエピソードを捏造したのを皮切りに、我も我もと自身の武勇伝を誇張、潤色、捏造して大平記に記述宣伝する武士が続出した。公家達が暇つぶしに書いていたリレー小説は、いつしか売名行為の道具と化していた。最終的に大平記を手にした細川頼之は、「最初に大平記に自身の捏造逸話を盛り込むというアイデアを考えた児島は見事だが、それ以降は二番煎じ」と弾じてこれらをバッサリと削除した。しかし、楠木正儀が記載した楠木正成に関する逸話や武勇伝に関しては、虚実を織り交ぜ完成度が高いことと、記述量が多く読み応えがありバッサリ削ってしまうのはもったいないという頼之の判断によって存続した。

打ち切り[編集]

この壮大なリレー小説は様々な人の手に渡り50年以上も続いたが、時の政治情勢や権力者を批判、諷刺する記述も多く含んでいたため、これを手にした細川頼之は大平記がこの後も続く事を危惧し、政治的判断から打ち切りにさせた。頼之は「細川頼之が管領に就任し、この国は平和になりました、おしまい」とかなり強引な終わらせ方で長きに渡る物語に幕を引いた。最後に、この世が太平になった証として表題の「大平記」に点を加え、「太平記」とした。