太平天国

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毛同志認可
造反有理!! 革命無罪!!!

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「私達といっしょに天国を創立しましょう!」
太平天国 について、太平天国政府
天父天兄のもとで、共に社会主義の調和社会を創立しましょう!」
太平天国 について、太平天国政府
太平天国
太平天国の国旗 太平天国の国章
国旗 国章

国の標語 : 信天王者得永生
天王を信ずる者は永遠の生を得る)
太平天国の位置

公用語 北京語(官話)
首都 天京(現:南京市)
政治 共産主義を基本とする独自の政治体制
スローガン 「打倒清妖」
(清なんか殺っちまえ!)
天王 洪秀全
建国 1851年
中央銀行 天国銀行
通貨 銀兩、銅板
国歌 天王陛下万歳、万歳、万万歳
宗教 天王即是神
天王はこれ即ち神である)

太平天国(たいへいてんごく)とは、中国の歴史の上で初めて理想的な共産主義社会を実現した国家である。

共産主義国家であるため、太平天国の国民は私有財産を持たず、婚姻などという封建的な制度も存在しなかった。従って、太平天国では誰とセクロスするのも自由であった。

歴史[編集]

太平天国の蜂起[編集]

19世紀、代の中国では切捨徒教が広く布教されていた。

あるとき、それまで秀才を自称していた洪秀全という男が、科挙を3回受験したがすべて不合格となり、周囲に自らの本当の姿を露呈してしまった。彼は失意に沈んだが、偶然宣教師と出会い、切捨徒教の教えに触れた。そして、聖書を読んだことがきっかけで、自分が神の子であるという妄想を抱くようになってしまった。やがて彼は、その思想を世間に広めるべく旅に出た。

旅先で彼は、「皆が神の子である自分に従えば世界は救われる」という、自らの素晴らしい思想を人々に説いた。当然多少なりとも学問を身につけたものは彼の言うことなど信じなかったが、当時の中国民衆の多くは文字の読み書きすらできず、純粋な心を持ったものが多かったため、無学な農民層を中心に次第に洪秀全の妄想を信じ始める信者が増加していった。当の洪秀全も、彼の妄想を信じる人が徐々に増えてきたことに満足し、ますます自分が神であるとの確信を強めた。

そして西暦1851年、洪秀全は脳足らずの信者たちを組織して気違い沙汰武装蜂起に及んだ。彼にホイホイついていってしまった信者たちは、勢いの余り太平天国という国家を樹立してしまった。そして洪秀全は自らを天王であると宣言したのである。

建国初期[編集]

建国当初の太平天国は、人民に、共に共産主義社会の天国を建設するよう呼びかけた。彼らは、平等を達成するため、人民はみんなで一緒に食事をともにとり、みんなで一緒にセックスするべきだと考えていた。すなわち、太平天国の国民には私有財産というものがないのである。(但し、洪秀全と彼の官吏達を除いて。)

その当時の中国はまさに混乱期にあり、かつ中国の総人口の大多数は貧しいプロレタリアであったため、多くのものは罪のない金持ちの財産を強奪するため、つまり単なる強盗目的でに太平天国の陣営に参加した。本気で洪秀全の電波を信じていたものは、ほとんどいなかった。まったく信心深くもない彼らの加入によって太平天国はますます強大化し、太平天国の大軍は当初破竹の勢いで進撃し、中国のほとんど半分を占領、ついには南京を、天京と改称して首都とした。

内乱[編集]

太平天国はもともと何の計画もなく勢いだけで建設されたものであったので、国家の青写真などというものは全くなく、正式に建国してからも、太平天国の諸王と官吏達はすべてわれを忘れて権力争いに必死になっており、内政は全くなされない状況であった。肝心の洪秀全さえも、自分がの子であることを忘れ、後宮に入れるための美女獲得に血眼になるありさまだった。

また、太平天国の諸王達も、を打倒するという当初の偉大な志もそっちのけで権力争いに血道をあげ、内紛を頻発させた。そのため、中国の半分を占領解放していた太平天国も、やがて国力を消耗し、間もなく清に討伐されてしまったのである。ちなみに、清王朝による太平天国討伐の主力部隊となったのは、湖南省の人民が組織した湘軍と呼ばれる民兵団である。

滅亡[編集]

太平天国の諸王はその多くが戦死したり逃亡したりしたため、ただでさえ人材のいなかった太平天国は人材が枯渇し、残された王と将校のほとんどは戦争の仕方さえもわからないありさまであった。そこに湘軍と、新しく創立された淮軍が太平天国に襲いかかり、たちまち太平天国は破れ去ってしまった。

西暦1864年、湘軍の猛烈な攻撃の下で天京城は攻め落とされ、太平天国は完全に滅亡した。僅か13年間の栄華であった。

再建計画[編集]

90年代、太平天国を愛する志士たちは、再び太平天国を創立することを誓い、台湾に拠点を建設した。その位置は今日の台中県の太平市の近くであると伝えられている。だが、それからどうなったのかは誰も気にしない

政治体制[編集]

天王洪秀全と彼の護衛隊

太平天国の国家元首は皇帝を称せず、天王と称したが、その権力は皇帝よりはるかに大きいものであった。例えば、皇帝といえども好き勝手に女性や少女に中出しすることはできなかったが、天王は自由に中出しすることができた。なぜなら、天王天父の息子を自称していたため、天王中出しされるのは天父中出しされるのと等しい名誉なことだということにされていたからである。

もともと太平天国では、建国初期には、東王西王南王北王翼王と呼ばれる五衛王が存在していた。その後、天王洪秀全は共産主義の雛型を研究するためと称して暴走し、無節操に王爵の位をばらまいてしまった。その結果、太平天国が滅びる直前には、なんと2785人もの王がいたという。当然のことながら、頭の弱い洪秀全は、彼らすべての名を覚えてなどいなかった。

中国の伝統的な官職制度では、原則的に丞相は一国に一人だけであり、いくら多いときでも左丞相と右丞相の二人だけであった。しかし太平天国にはなんと天地春夏秋冬正副又正副などなどの24人もの丞相がいたのである。しかもこれだけ丞相がいたのに太平天国の滅亡は防ぐことはできなかった。24人もの丞相がいても支えきれないほど洪秀全は頭が弱かったのか、それとも24人もの丞相の中に誰もまともな人材がいないほど太平天国馬鹿の集団だったのかのかは意見が分かれるところだが、実際はおそらくその両方だろう。

経済[編集]

太平天国中国の歴史上で最初に誕生した共産主義体制の国家であるので、太平天国には私有財産が存在せず、(もちろん天王洪秀全と諸王、官吏は例外)みんなで食事を一緒にとり、セックスもみんなで一緒にしていたのである。そのため、太平天国は国民の財産を自らの手で搾取管理していたという点で、のちに中華人民共和国で大成功を収めることとなる人民公社の先駆的な存在であったといえよう。

太平天国の収入の出所は大きく五つに分類することができる;

  1. 建国初期の馬鹿な信者の寄贈。
  2. 戦争での戦利品。
  3. 金持ちから搾取した借りた金。(結局、太平天国は滅亡するまで、金持ちから搾取した借りた金は、まったく返していないという。)
  4. 国内の税金。
  5. 人民の生産した品を搾取徴収したもの。

宗教[編集]

太平天国で唯一合法的な宗教は切捨徒教だけであり、切捨徒教信仰は絶対的な正義とされた。そのため、非切捨徒教徒は、“正義を実現するため”と称して、切捨徒教に改宗するまで殴られ続けた。

軍事[編集]

湘軍と戦う太平天国の陸軍部隊

正規軍[編集]

反逆武装蜂起した当初、太平天国中国各省のプロレタリアの参加を促すために、共産主義天国を共同建設することを呼びかけた。その結果、前述のように略奪目的の貧民が大量に参加して兵力は迅速に拡大し、全盛時期の総兵力は約百万人に達した。

だが、太平天国軍は他の時代の中国の軍隊と同じで、内紛は得意だが、外敵との争いが苦手であった。そのため、内戦およびとの戦争の時には、すべての兵士が非常に勇猛であったが、イギリス軍とアメリカ軍との戦いの際には、イタリア軍も驚きの腰抜けぶりをさらした。

女性兵士[編集]

太平天国男女平等の主張を掲げ、中国の歴史上初めて正式に女性兵士を採用した。そして建国初期には、女性兵士も戦闘に参加した。だが、正式に南京に首都を創立した後には、女性兵士は洪秀全の宮廷の警備部隊となった。(そのほうが、洪秀全が女性兵士の中から側室の妃を選び出して後宮に入れるのに便利だ、という理由によるものだといわれている。)

ボーイスカウト(童子軍)[編集]

頭が固い自称百科事典は、中国最初のボーイスカウトは1907年に西元という町でイギリス人が創立したのだと主張している。しかし事実上、19世紀の太平天国には既にボーイスカウトが存在したのである。太平天国では、子供たちに集中的な洗脳思想教育を受けさせて、彼らを洪秀全に絶対の忠誠をつくす戦士として育てたのである。

この制度はのちにヒトラー中国共産党に模倣され、ヒトラーユーゲンツおよび共産主義青年団という形で運用された。そこでは引き続き延々と洗脳教育を子供たちに対して行ったのである。

教育、任官[編集]

太平天国は男女平等を重んじたため、中国の歴史上初めて正式に科挙で女官を採用した。だが、結局科挙に合格した女性状元進士秀才の大多数は、その後天王洪秀全とその他の諸王の後宮で側室となったのである。

関連項目[編集]


歴史の渦に巻き込まれる! この項目「太平天国」は、歴史に関連した書きかけ項目から歴史に残る記事進化しなければならない。
歴史は今作られている!君の名をこの記事(の履歴)に刻むのだ。 (Portal:スタブ)
3、2、1、ボンバー!この国は爆破されました。もうこの国は影も形もありません。
この国はもう無いのです。あなたがこの現実をどう受けるかは自由ですが、確か戦友であったこの国に態度だけでも敬意を称してやってください。