大関互助会OB会

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索

大関互助会OB会(おおぜきごじょかいおーびーかい)は、大相撲大関互助会(本会)にかつて所属していた会員のうち引退した者(名誉会員)により結成された組織で、大関互助会の公認支援団体である。現在の会長は浅香山(元・魁皇;大関互助会終身名誉会長)、副会長は高砂(元・朝潮)である。OB会に所属している親方のおかげで、巡業先で恥をかくことはないし、大関同士の互助を行える取組も編成されるし、大関の降格基準も変更されない。

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「大関」の項目を執筆しています。

現在(存命中)の構成員[編集]

OB会には協会を離れた元会員も在籍しており、現在、琴光喜と現在日本相撲協会に在籍していない元横綱の一部を除いた存命中の元会員全員が加入している。OB会にはいくつかの役職があり、協会の仕事で番付表や取組表作りなどで大関互助会の活動を支援することも実際にある。

会長[編集]

現役時代に互助会の会長を経験し、なおかつ幕内最高位が大関であった者の中から選任される。

浅香山博之(元・魁皇)
現役時代の役職:8代会長(終身名誉会長
大関互助会在籍期間:2000年9月場所 - 2011年7月場所(現役引退)
大関互助会の終身名誉会長であると同時に、OB会の会長も務めている。元(8代)会長。史上最年長、幕内優勝5回、幕内勝星数1位を誇った最強の大関。通称会長(現在でも「会長」と言えば終身名誉会長のことを指すほど、その影響力は絶大である)。その実力に裏打ちされた圧倒的なシナリオ調整力と、次々と入れ替わる互助会員たちを統率する組織力によって、元副会長(特別栄誉会員)の千代大海とともに大関在位最多記録保持者、また角番回数は単独2位の記録保持者として、互助会の黄金時代を作り上げた。
下手な横綱より多い5回の優勝は大関としては最多であるが、これは5年間に渡って丁寧に優勝時期をバラけさせた結果であり、時には優勝→休場→優勝という荒業を成し遂げてまで自らの横綱昇進を阻止している(これは同期の先輩で先の4代会長でもあった虎上氏の末路を目の当たりにしていることも影響)。現役末期には優勝にも興味が無くなり、互助に専念するとともに自身のハチナナ記録・勝星記録を伸ばすことに心血を注いだ。また自身が怪我をしないように土俵際に寄られると下手に粘らずにゆっくり土俵外に出て体をいたわる技術も持っていた。この技術が通算勝ち星1位、幕内勝ち星1位などの記録を生んだと言われている。平成22年九州場所は久々に優勝の可能性があったが、横綱白鵬に互助してもらえず、次点に終わる。
また、7勝7敗のときの勝率であるが、実は100%ではない(100%と思っている人も多いだろうが、1回だけ横綱朝青龍に容赦なくやられて負け越している)。しかしそれ以降、千秋楽では勝ち続けている。
幕内通算勝利数の歴代最多記録を更新して日本記者クラブに招かれたとき「綱は取らずに渡るもの」という名言を残したが、大関互助会から上に追放、つまり綱を取りたくないのに取らされて引退を早められた可哀そうな某氏の陰謀により、その部分が動画から削除されている。
2009年は年6場所ハチナナ完全制覇という偉業を達成し、8勝目を挙げて以降の勝率が0%(初場所3連敗、春場所4連敗、夏場所5連敗、名古屋場所1敗、秋場所千秋楽勝ち越し、九州場所千秋楽勝ち越し)という特筆すべき成績で会長の職務を全うしている。
2010年初場所、当時休会員であった千代大海に退会勧告という汚れ役を買った。その直前の2009年九州場所に横綱朝青龍が千代大海に退会勧告をしたが、チヨスはそれを華麗にスルーしたためである。退会勧告がマスコミに騒がれぬように、自身の幕内最多勝記録と大海戦をぶつけるように調整した。その会長の調整能力に恐れをなした千代大海は「互助できぬ大関は去るのみだ」と、彼は現役引退した。
これらの会長としての実力・功績から、互助会史上初となる引退後の終身名誉会長就任が決定した。
皆に惜しまれつつ、2011年名古屋場所の途中で引退(浅香山襲名)を決意したが、会長時代の功績が非常に多く、通常は即時補充される会長の座は数日間空位となった。それまで会長であった高砂が浅香山の功績を称え、新設の部署である副会長へと退いて浅香山が就任した。更に自身の互助スピリッツを直接指導するため、「浅香山部屋」を創設した。
尚、魁皇が他会員に白星配給を依頼する際は電話一本、一言で事足りた(「もしもし、俺、魁皇!」)。これは魁皇にのみ許された力業である。

副会長[編集]

現役時代に互助会の会長を経験し、なおかつ幕内最高位が横綱であった者(OB会の参与・顧問)の中から選任される。

高砂浦五郎(元・朝潮)
現役時代の役職:2代会長
大関互助会在籍期間:1983年5月場所 - 1989年3月場所(現役引退)
現役時代、7勝7敗時の勝率は100%を誇った名力士であり、北天佑との名互助は今では新人用の教本にも掲載されている。
互助会に役職制を導入し、各力士の職務を分配し、互助会の効率的な活動を計画。現在でもその時の役職がほぼそのままの状態で使用され続けており、朝潮改革は今でも互助会のスムーズかつスピーディな活動に貢献している。
角番では無かった1989年3月場所に、後進指導の道を開拓するため現役を引退して大関互助会OB会を創設。大関互助会の更なる発展に努力した。
引退直後は山響を襲名していたが、若松部屋を継承し、自身の部屋で新たなる会員の育成にも努力を尽くし、高砂部屋へと看板を変えてから朝青龍が大関互助会へ入会。しかし朝青龍をうまく操縦できず、朝青龍は僅か3場所で横綱へと抜けていってしまった。
それでも長く協会の理事職に就いて互助会と協会の橋渡し役となっていたが、2008年限りで理事職を退き、大関互助会専務となった。2011年に魁皇が引退した際に、自身より功績も手腕も高いと、魁皇改め浅香山を会長に据え、自身は新設の副会長職へと退いた。

運営委員[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「大関一覧」の項目を執筆しています。

幕内最高位が大関で、現在も日本相撲協会に在籍している者は常任の委員となる。

上席委員(役員待遇)[編集]

九重龍二(元・千代大海)
現役時代の役職:副会長(特別栄誉会員
大関互助会在籍期間:1999年3月場所 - 2010年1月場所(引退)、うち休会1場所
魁皇終身名誉会長と並ぶ大関在位最多記録保持者にして、単独の角番最多記録保持者。元副会長で互助会黄金期の立役者でもある。通称チヨス。CSP、ムーンツッパリ、チヨスダンス、チヨスダイブ、チヨスステップなど数々の芸術的奥義で土俵に笑いをもたらした大相撲史上唯一の幕内最高優笑力士。「チヨい」「チヨる」などの流行語(互助会内ローカル)も。
大関在位も10年を超えた2009年春場所、この場所も互助で勝ち越すかと思われたが、終わってみれば互助会員としては史上初の2勝13敗というまさかの「千代大敗」。しかしこれは来場所の大技の体現に必要な儀式であった。そして角番7勝7敗で迎えた5月場所千秋楽、当時準会員の把瑠都に対し格の違いを見せ付けるために、あまりにも衝撃的且つ危険な大技である「空気投げ」をブチかまして観客のド肝を抜く。互助会員として最強にして最終の奥義を体得したチヨスにはもう互助会に残るという選択肢は無かった。そして伝説へ。
会長による幕内最多勝達成の退会勧告の際、互助会に永遠に戻ることができなくなる「千代退会」を勧告され引退。その後、佐ノ山を襲名。通称サノス。数々の余りある功績を残しながらも引退後は当初名誉職に就くことはなかったが、前述の「空気投げ」などノーベル賞級の数々の功績を讃えられ、互助会より「特別栄誉会員」として再び迎えられその名誉が復された。
通常、協会対策本部には協会役員に就いている平委員が配属されるが、大関互助会特別栄誉会員として讃えられていることもあり異例の大抜擢で現在、協会対策本部付とされている。
九重部屋にて部屋付きで指導を行っていたが、師であった先代九重の急逝により部屋を継承して九重を襲名。なお部屋には、千代大龍という、将来大関互助会にマイナスとなりそうな要素を抱え込んでおり、九重がどう操縦するか注目されている。
鳴戸勝紀(元・琴欧洲)
現役時代の役職:9代会長
大関互助会在籍期間:2006年1月場所 - 2014年1月場所(陥落)、うち休会1場所
本名カロヤン、通称カロス。2008年までは下位によく取りこぼして、当時の魁皇会長・千代大海副会長の最強タッグすら悩ませる出来の悪い会員であったが、2009年からは急成長。平成22年5月場所の千秋楽に魁皇会長の1000勝の相手として指名されるまでになった。魁皇会長の1000勝達成の一番では期待以上の美しい互助を見せ、次期会長候補へと名乗りを上げる。しかし翌7月場所、その会長を無用な投げで休場に追い込んでしまう。しかし魁皇会長は「いい休養になった。ありがとう」と言って何も咎めなかった(事実魁皇会長は超回復(2場所後優勝争いに加わった)していたため、本当に怒っていなかったようである)。
魁皇会長が現役引退し、終身名誉会長の座に就任したことで後任会長人事が難航し、数日間不在状態に陥っていたが、琴欧洲は当時の現役大関として最古参であることからも互助活動への積極性が認められ、魁皇より後任の会長への就任要請を受けて謹んで受諾、晴れて9代会長になった(琴風初代会長以来となる、佐渡ヶ嶽部屋出身の会長誕生だが、これも何かの縁であろう)。
しかしガチ相撲しか許されなくなった2011年5月技量審査場所以降、心身の不調が重なって何故か不思議なほどに黒星が込み、会長として初めて臨んだ同年9月場所も敢闘精神を欠き途中休場したが、翌11月場所ではクンロクで見事に角番を脱出。さらに2012年5月場所千秋楽に優勝争いをしていたシャケとの取組をサボったという理由でKY理事長に批判された上、同年9月場所で不細工な賭博デブのせいで右肩を負傷して途中休場したが、翌11月場所の角番はクンロクで脱出しその責任を果たした。しかし2013年3月場所では痛めていた左肘を悪化させまたもや途中休場し、翌5月場所ではこれまでにない危機的状況に立たされた。その5月場所では14日目の賭博関与を申告しなかった悪人との一番で大関史上初の腰くだけを披露するなど、崖っぷちの角番7勝7敗で千秋楽を迎えたが、その対戦相手となった鶴竜との見事な演舞を決め、最大のピンチを脱出した。ところが鶴竜によるその努力もむなしく、2013年9月場所の途中休場に続く角番翌11月場所の3日目、副会長も歴任した盟友把瑠都の土俵生命を絶った張本人でもあり、かねてから自身とも因縁の深かった前述の『賭博関与を申告しなかった悪人』にやられて左肩を負傷し、入会47場所にして遂に休会を余儀なくされ、それと同時に会長辞任によって面目も潰されてしまった。そして特命会員となって迎えた翌2014年1月場所でも復帰が叶わず遂に脱会(琴欧洲を上得意様としていた数人をやっつけはしたが、鶴竜現会長には御用済みとして見捨てられた上、前述の因縁で動揺してひとみさんに賜杯をさらわれて琴欧洲を恨んでいたシャケや、先の『賭博関与を申告しなかった悪人』らにやり込められて結局報われなかった)。日本相撲協会(特にKY理事長ら)からも快く思われておらず厳しい見方をされていたが、まさにその通りの結果になった。
これまでの会員在籍期間を通して、7勝7敗時(上述の角番7勝7敗を1回含む計5回)の勝率は100%であり、会長職を全うするのに十分な成績を残してきた。
ちなみに余談だが、彼は稽古時には圧倒的な力強さを見せつけて他の力士を萎縮させることができる反面、本割では数多くの天敵に翻弄されてチキンハートになり、豪快に横転させられる屈辱を味わい続ける脆さもあわせ持っている。また、白鵬横綱(顧問)の互助を折に触れてアシストしており、その功績で先述の角番2012年11月場所と翌2013年1月場所の時に2場所連続で御祝儀を賜ったため、互助会内部では絶賛されたこともある。

(常任)委員[編集]

二所ノ関六夫(元・若嶋津)
現役時代の役職:副会長
大関互助会在籍期間:1983年1月場所 - 1987年7月場所(引退)
全盛時は糖尿病を患いながらもクンロクを連発し「南海の九六豹(くろひょう)」の異名を持った。現役時代は名古屋場所担当部長も務めていたが、後に辞任。現在は相撲協会で審判部副部長を経て、福岡場所担当部長の職をゲットしており、審判部副部長時代は鶴竜の大関互助会入会のために協会幹部を説得するメンバーの一員として活躍した。
尾車浩一(元・琴風)
現役時代の役職:初代会長
大関互助会在籍期間:1981年11月場所 - 1985年9月場所(陥落)、うち休会2場所
大関互助会生みの親であり、現在の大関互助会という組織はこの人物なくしてはできなかっただろう。大関互助会生みの親ということで、現役時代に会の活動方針をいろいろ模索してはいたのだが、たびたび怪我に泣かされ、自身の作った降格基準で大関互助会を退会することに。
朝潮改め山響(当時)が大関互助会のOB会を作ると発表した際、会長就任を打診されたが、運営委員でいいと辞退した。だが現役時代の実績が顕著であることから、取締待遇として迎え入れることとなった。
自身の相撲部屋、「尾車部屋」を創設し、互助会員に白星を供給できる弟子も育成、非常に後進重いのいい親方である。
2012年より日本相撲協会の理事職も務め、巡業部長となって巡業先での大関互助会員へ対する批判等を弾圧している。だが巡業先で突如転倒し長期入院。この間、巡業は平幕止まりの副部長が部長代理として進行させており、尾車にとっては何とも歯痒い状態となっている。
陸奥一博(元・霧島)
現役時代の役職:副会長
大関互助会在籍期間:1990年5月場所 - 1993年3月場所(陥落)、うち休会2場所
有望な新人として当初は迎え入れられたのに、どういうわけか入会移行は怪我に泣かされることに。副会長就任もすぐに大関から落ちるなど、下位にはあまり貢献できなかった。
引退後は錣山、勝ノ浦を渡り歩いた後に「陸奥部屋」を継承。甲種準会員やその候補を何人か育てたものの、八百長問題で一度に失う。自身の協会での職も失い、大関互助会でも協会対策本部から外されるなど、悲惨な目にあっているようである。
藤島武人(元・武双山)
現役時代の役職:副会長
大関互助会在籍期間:2000年5月場所 - 2004年11月場所(引退)うち休会1場所
期待されて大関互助会へ入会したはいいが、大関互助会をけなしたため、時の副会長である千代大海が精彩、昇進わずか2場所で勝ち越せぬまま休会を余儀なくされた。しかしそこでようやく誠意が芽生えたため、復会と同時に副会長へ就任。かつての会員でありながら憎むべき強大な会敵に成り果てた横綱貴乃花を「ユルフン」によって制裁(右膝を破壊)し引退に追い込んだ英雄。
2015年1月に審判部副部長に就任。今後が期待される。
大鳴戸武春(元・出島)
現役時代の役職:6代会長
大関互助会在籍期間:1999年9月場所 - 2001年9月場所(陥落)、うち休会1場所
わずか2年間しか大関互助会にはいなかったが、会長として会員の入れ替わりが激しい激動の時代を守り抜いた。
会を脱退してからは、現役ながらOB会に現役委員として加入。48場所にも渡って土俵を務め、上位復帰の度に互助活動に貢献してきた。
2009年7月場所限りで引退した際、出島改め大鳴戸は元会長の実績を認められて4人目の取締待遇として運営委員に就任した。
玉ノ井太祐(元・栃東)
現役時代の役職:副会長
大関互助会在籍期間:2002年1月場所 - 2007年5月場所(引退)、うち休会2場所
当初入会を拒むも度重なる怪我に泣き入会。通称あずまん。年間6場所の内僅か19勝という最少の星数で大関を維持、8連勝7連敗(しかも8勝目は不戦勝)などの伝説を持つ。役員には1度目の大関復帰時に名誉で就任した副会長を2場所経験しただけであり、あまり主本を発揮することが出来なかったが、実務のほうでむしろ互助会を支えた。計2度の陥落を乗り越えるも脳梗塞には勝てず、惜しくも引退した。
2012年に日本相撲協会の副理事に就任し、相撲協会でも若くして多忙の日々を送っている。自身の相撲部屋、「玉ノ井部屋」でも次代の大関互助会長育成を目指して奮闘中である。
二子山雅高(元・雅山)
現役時代の役職:7代会長
大関互助会在籍期間:2000年7月場所 - 2002年1月場所(陥落)、うち休会1場所
若くして入会し会長の座に就くも、実力不足で陥落。復帰を目論むも、横綱白鵬のヌルヌルと会員増加を疎む審判部に阻まれ挫折。その後は平幕上位に定着することもままならないほど低迷しており、会員時代の栄光はすっかり忘れ去られ、21世紀最初の(互助会の)お荷物とされてしまった。しかし2012年1月場所では久々の返り三役復帰を果たし、かつての盟主として、阿吽の呼吸によって互助会員への多大な貢献に寄与したこともある。
2015年2月に審判部に異動となった貴ノ浪に代わり、広報部員(記者クラブ担当)となった。

特命(特任)委員[編集]

幕内最高位が大関で、現役引退後に日本相撲協会に残らなかった者は特命(特任)委員となる。

KONISHIKI(元・小錦)
現役時代の役職:3代会長
大関互助会在籍期間:1987年7月場所 - 1994年1月場所(陥落)、うち休会1場所
外国出身では初めての大関。入会当時の会長が、同じ高砂部屋の朝潮であったためであり、朝潮の現役時代は朝潮の右腕として活動に貢献、朝潮の引退後は朝潮の務めていた職をそのまま引き継いだ。小錦自身は保守派であったため、会長時代に特別な改革は行わなかったが、副会長であった北天佑に大量の白星を互助しており、情に熱い男であった。
1997年11月場所限りで引退し、年寄佐ノ山を襲名。元会長ということで、取締待遇となることが承認された。のちに協会を退職し、千代大海に年寄名跡を譲り、本名で大関互助会OB会に参加。タレント業の傍ら、大関互助会をウィキリークスされないよう外部で手腕を発揮している。
カイド・ホーヴェルソン(元・把瑠都)
現役時代の役職:副会長
大関互助会在籍期間:2010年5月場所 - 2013年1月場所(陥落)、うち休会1場所
本名カイド、通称バルス。準会員(関脇)時代から折に触れて会に貢献。横審対策として会員総出のバックアップを受け無事正会員に。何かの出来事の陰で互助をすることで自身の名誉を保つという憎めないずるさを持つ。
当初から横審対策を期待されての入会であるため、一部では朝青龍亡き後の未来の名誉顧問との声もある。平成22年7月場所の直前に互助会を除名処分となった琴光喜副会長(当時)に最後の白星を提供した功績を買い、魁皇会長(当時)が副会長に緊急指名した。ヨーロッパ出身で初の役員。正会員になってからは、現在まで7勝7敗で千秋楽を迎えたことがない上、7勝7敗の会員との対戦もなかった。ただし、準会員時代の2009年夏場所には、角番7勝7敗だった千代大海副会長(当時)との伝説の一戦(前述、千代大海特別栄誉会員の項目を参照)で見事に星を献上したことがある(自身が犠牲となって豪快に千代大海を救ったこの行為が、後に互助会で大いに評価されることになり、副会長抜擢へとつながった)。
ただ、副会長に任命されたにも関わらず相撲に積極的ではなく、「遊びみたい」と公言してしまったこともあるため活動への貢献が見込めなくなった(過去に対戦回避をされたのもこれが原因との見方もあるが、横審対策とはいえ大関互助会の名を汚すことはあってはならない)。横審対策が当番制とされる案も彼には逆風となった。だが、副会長の座にふさわしい人物が当面他に居なかったため、把瑠都には引き続き副会長職を務めるよう言われていた。2012年1月場所12日目の稀勢の里戦に見られるように、把瑠都自身は横綱になるより大関に留まるほうが体に良いと考えていたが、他の力士はそのような把瑠都の気持ちを理解できておらず、横審をはじめ日本相撲協会や好角家からのバッシングの嵐は無論のこと、互助会内でもたびたび批判の的となる。
そして2012年9月場所で右足付け根を負傷して途中休場したが、角番となる翌11月場所2日目に賭博関与を申告しなかった悪人にやられて左大腿を裂傷し途中休場、無念の休会(大関陥落)・副会長辞任を余儀なくされ、特命会員となった翌2013年1月場所でもついに復帰が叶わず脱会。そして副会長職は、互助会に対する最近の飛躍的活動貢献のあった琴奨菊に委ねられることになった。

参与[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「横綱一覧」の項目を執筆しています。

幕内最高位が横綱で、横綱・大関時代にクンロクやハチナナ、角番を繰り返し経験した者は参与となる。

伊勢ヶ濱正也(元・旭富士)
現役時代の役職:第63代横綱
大関互助会在籍期間:1987年11月場所 - 1990年7月場所(横綱昇進)
芝田山康(元・大乃国)
現役時代の役職:第62代横綱
大関互助会在籍期間:1985年9月場所 - 1987年9月場所(横綱昇進)
八角信芳(元・北勝海)
現役時代の役職:第61代横綱
大関互助会在籍期間:1986年9月場所 - 1987年5月場所(横綱昇進)
現・日本相撲協会理事長。
ダワーニャミーン・ビャンバドルジ
現役時代の役職:第70代横綱
大関互助会在籍期間:2009年1月場所 - 2012年9月場所(横綱昇進)
協会には残らず。

顧問[編集]

幕内最高位が横綱で、OB会参与の条件を満たさなかった者は顧問となる。

花田虎上(元・3代若乃花)
現役時代の役職:4代会長、第66代横綱
大関互助会在籍期間:1993年9月場所 - 1998年5月場所(横綱昇進)
説明無用、貴乃花の兄貴である。兄弟ということで、2000年3月場所限りで引退した若乃花改め藤島はOB会参与に就任し、協会を離れた後も在籍しているが、顧問に変更された直後あたりを最後に顔を出さなくなっている。
武蔵川光偉(元・武蔵丸)
現役時代の役職:副会長、第67代横綱
大関互助会在籍期間:1994年3月場所 - 1999年5月場所(横綱昇進)
堅実な互助精神を見せ付けていたが、ある時横綱昇進を目論んでいたことが発覚してしまい、失脚した。その為武蔵丸は、出島、武双山、雅山の3人と引き換えに横綱へと昇進した。
あんまり求心力がないのは現在になっても相変わらずのようで、年寄名跡が長い間借り物のままであったが(振分→大島)、2013年2月に先代師匠の定年によって武蔵川を襲名し部屋を興すことになり、さらに甥が入門し、かつて隆盛を誇ったハワイ互助会再興に意欲を見せているようである。
貴乃花光司(元・貴乃花)
現役時代の役職:副会長、第65代横綱
大関互助会在籍期間:1993年3月場所 - 1994年11月場所(横綱昇進)
現役時代は専ら会敵と目されることが多かったが、2003年1月場所限りで引退後は大関互助会の参与に就任。のち顧問職が新設されると同時に顧問へと変更し、互助会の支援活動を行っている。このように変貌した背景の一つには、同部屋の音羽山OB会運営委員が関係しているようである。音羽山の説得に折れた貴乃花はかつての非行を詫び、OB会に加入。理事となって相撲教習所長、審判部長、大阪場所担当部長、総合企画部長などを歴任して現役大関たちのサポートを行っている。
ドルゴルスレン・ダグワドルジ(元・朝青龍)
現役時代の役職:モンゴル互助会会長、第68代横綱
大関互助会在籍期間:2002年9月場所 - 2003年1月場所(横綱昇進)
通称ドルジ。取組の仕切りで最後の塩を取りに行く時に、左手で気合いを入れて自分の尻を叩く雄姿は今でも強く印象に残る。
横綱ながら、優勝の可能性がなくなるとしばしば互助に貢献。その一方で優勝がかかる場合はほぼ確実に互助をしないという変人であった。魁皇終身名誉会長の熱烈なファンで、現役時には互助をしなかったときでも彼の身は常に案じていたようであり、ある時期以降は投げは打たずほぼ寄り切りで勝つという愛のある一面も(どこかのカロなんとかとは格が違う)。2005年には互助会の協力を得て年6場所完全制覇を達成。2010年初場所後に泥酔暴行事件の当事者として巻き込まれて突如引退せざるを得なくなるも、魁皇会長(当時)によって早急に新たなシナリオが用意されたため特に支障は無かったようだ。
現在でも互助会内部との接点はあり、大関互助会スリム化計画では、日馬富士の横綱昇進を朝青龍も支援した。成功報酬は「支度部屋への合法的入室権」。2012年9月場所での日馬富士の優勝に伴い記念撮影の輪に入るため、支度部屋への合法的入室が認められることとなったため、報酬を獲得したと見て良いだろう。
2010年1月場所限りで現役引退をし、OB会の顧問へ就任した。2011年11月場所中には西支度部屋に乱入して現役会員を励ますなどしており、陰でしっかり彼らを見守ってくれているようだ。

準構成員[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「関脇一覧」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「小結一覧」の項目を執筆しています。

現役時代に優勝経験があるが、関脇または小結止まりで大関に昇進できず、現役引退後も日本相撲協会に残った者は準構成員となる。

旭天鵬勝
現役時代の役職:乙種準会員
本名ツェウェグニャム(虎上氏じゃない方の「勝」)、通称ひとみさん。年齢を重ねて大ベテランの域に達しながらも、今なお衰えを見せずに安定した実力を持ち、幕内上位に返り咲いた時は会員からとても頼りにされている。大関互助会乙種準会員として、2012年3月場所限りで本当なら現役を引退して大島部屋を継承しなければならなかったのだが、部屋を潰してでも現役続行をすることを決意した。その心意気に心を打たれた浅香山終身名誉会長により、友綱部屋移籍が決まる。その移籍した1場所目で幕内最高優勝を決めたが2012年7月場所で、会員全員に白星を配給する互助精神を見せ、浅香山終身名誉会長から金一封と努力賞を授与された。
大関互助会スリム化計画に幕内下位ながら参加を表明したため、大関互助会OB会が根回しをして、幕内下位で初日から9連勝などの偉業を起こして上位の無関与力士をかく乱させる働きをする。しかし、成功報酬の「敢闘賞受賞」が、計画辞退した豪栄道のせいでふいにされてしまった。
2015年名古屋(七月)場所で負け越しが決定、十両互助会には入会しないという以前の明言通りに現役引退し、友綱部屋の部屋付きの大島親方に就任した。

過去の構成員(物故者)[編集]

千葉(二十山)勝彦(元・北天佑)
現役時代の役職:副会長
大関互助会在籍期間:1983年7月場所 - 1990年9月場所(引退)
元副会長。朝潮との互助は語り草となっている。現役時代は総合企画部長、広報部長など数々の要職を一度に兼務していたことで有名だったが、その時の過労がたたったのか、2006年6月に45歳で死去。
浪岡(音羽山)貞博(元・貴ノ浪)
現役時代の役職:5代会長
大関互助会在籍期間:1994年3月場所 - 2000年7月場所(陥落)、うち休会2場所
影の広報部長などとも現役時代にはよく言われ、大関互助会では長く会長を務めていた(なぜか、大関互助会の広報部長に就任した事は1度も無かった)。皆勤負け越し6度という伝説を持ち、新人育成教本には「悪い例」として書かれていた。
2004年5月場所限りで引退した際、貴ノ浪改め音羽山は元会長の実績を認められて3人目の取締待遇として運営委員就任。大関互助会の活動に一定り協力を示している貴乃花親方(第65代横綱・貴乃花)と連携し、貴乃花親方を協会理事にも仕立て上げていた。
生前は浅香山OB会長と共に日本相撲協会の審判部員として互助会の必要性を積極的にアピールしていたが、2015年6月に43歳で死去。

関連項目[編集]


朝青龍殴られ 01.jpg この項目「大関互助会OB会」は、ちゃんこ不足のようでごわす。
さあ、そこの新弟子も力士の要たるちゃんこを作ってみるでごわす。強く当たったらあとは流れで行くでごわす。ごっちゃんです! (Portal:スタブ)