大谷吉継

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さえかからなければ、赤の他人秀頼に代わって禿鼠の後継者になれた吉継(秀隆)なのに…。

大谷 吉継(おおたに よしつぐ、1559年 - 1600年)とは、ミイラのコスプレをして戦場で采配を振るっていた戦国武将。重病を患っていたらしく、彼の一番にして最後の活躍の舞台となった関ヶ原の合戦の時には既に本物のミイラになっていた可能性もある。石田三成の親友として有名であり、腐…失礼、歴女の方々にも人気が高く、同人誌なんかでは三成との濃厚なセックスが描かれることも多々ある。吉継の事績や人物像に言及している史料によれば、重病のために顔の皮膚は剥がれ落ち、あちこちに腫れ物が出来て醜い形相だったらしいのだが、戦国時代を扱ったアニメ、ゲーム、漫画などでは、「三成の親友補正」「友情に殉じた義将補正」がかかり、とても重病人とは思えないイケメン武将として描出される事が多い。かっこいい生き様の人間は見た目もかっこいい、いやかっこよくなければならないという、俗人の価値観が投影されていることが伺える。

なお、吉継の主君である豊臣秀吉羽柴秀吉は実父の説もあり(母の吾妻の方(近江の豪族・大谷盛治(吉房)の娘)は秀吉の側室。「羽柴秀隆」の名を持っていたという)、吉継の卓越した采配や朝鮮出兵で見せた鮮やかな兵站手腕を高く評価し、「この男に百万の軍勢を指揮させてみたい」と放言したといわれている。いくら傑出した器量の人物とはいえ、病に蝕まれた人間に百万の軍勢を指揮させるという膨大な労力を要する重責を押し付けようとするなど鬼畜の所行としか言いようが無い。秀吉は甥の豊臣秀次一族処刑など、残虐な処断が浮き彫りとなっているが、このエピソードは秀吉の残虐性を改めて再認識させ、人々に周知させた話と言えるだろう。ちなみにこの秀吉も創作上ではイケメンにされるのが江戸時代からのお約束。史実通り醜い顔に描かれる事はまずない。

ちなみに真田信繁は女婿である。幼名は石松(桂松/慶松)、通称は紀之介(紀之助)、官職は刑部少輔。

有名な側近として湯浅五助がいる。吉継の跨る神輿を担いで南船北馬し、最後は彼の介錯を勤めて首を土に還してやった。なんとも献身的な男である。

人物[編集]

三成との友情に殉じたという美談ばかり強調され、仁義に篤い人物という印象が浸透しているが、吉継本人は実は三成の不倶戴天の敵である徳川家康とも懇意の関係であり、家康による上杉景勝に対しての会津征伐にも呼応し、軍勢を差向けていた。無論、吉継の「義将」としてのイメージを強調したい敦賀市民や歴女達は、この事実を必死に隠匿してなかったことにするか、そもそも認識すらしていない。

最終的に何故三成の方に与したかについては、三成との友情を選んだとか、悲壮な覚悟で決戦に臨む三成に説得され感化されたとか、秀吉の吉継に対する厚遇を快く思わない一部の武将によって陥れられたとか、とにかく吉継(と三成)にとって都合の良い解釈ばかりがなされることが多いが、病魔が体中に廻ってまともな判断が出来なくなっていた、或いは純粋に利害を重視して三成が勝つと踏んで三成に荷担した可能性も無論考慮しなければならない。

茶会の際、鼻水を湯飲みの中に垂らしてしまい、同席していた千利休始め大名達が辟易したという話がある。結構無作法者であったようだ。とある歴史学者が、ハンセン病の影響で知能にまで障害が及んでいた証左であると指摘したが、この発言に対し、差別を奨励、助長していると圧力団体が激昂し、指摘した歴史学者は社会的に抹殺された

この話には続きがある。吉継の鼻水入りの茶を、なんと石田三成が自分の湯飲みと間違えて飲んでしまった。同席していた面々は三成のあまりの鈍感さに開いた口がふさがらなかったという。なおこのエピソードは後世の人間によって脚色され、三成と吉継の美談という形で昇華された。

出生については後述の人面樹説の他、大友宗麟の御落胤であるなどという珍説が多々ある。ようするにさほど高貴な出自ではなく、その辺の野武士や土民の生まれであった可能性があるということである。高い身分の生まれでもなく、なおかつ身体にハンディキャップを抱えていながら秀吉に全幅の信頼を寄せられるほど栄進したのはやはり本人の器量が優れていたからなのだろう。一方で、いささか過大評価されすぎではないか?と疑問も呈されていたり、腐女子が必要以上に下駄を履かせて礼賛してるだけと厳しい評価を下されてたりする。そんな連中の評価など無視すればいいだけだが。

関ヶ原での奮闘[編集]

吉継を語るにおいて欠かせないのが関ヶ原の合戦における獅子奮迅の激闘である。吉継は藤堂高虎京極高知の部隊と激突し、優れた采配を見せ終始戦局を有利に進め、土壇場で裏切った小早川秀秋に側面を衝かれるも死に物狂いの奮戦を見せたが衆寡敵せず、最期は自害して果てた。関ヶ原の頃には、既にハンセン病も末期症状まで進み、失明していたようだ。果たして失明するほど病状が悪化した人間が、一糸乱れぬ指揮を取れるのだろうかという疑問を抱いてはいけない。病に倒れるなどもののふの名折れ、戦で果ててこそ華と戦場に赴くもののふはカッコよいものなのだ。それに水を差すのは、野暮というものである。決して実質軍を率いていたのは与力の平塚為広だったなどと言ってはいけない。

自害する際、湯浅五助に対し「我が首を決して敵に見つからぬよう、地中深く埋めよ、さすれば2年の後にそこから我が怨念が具現化した呪いの大木が生えてきて、そこに実った果実が熟すとともに一斉に散らばり、金吾(秀秋)はじめ不忠の郎党どもを調伏するであろう」と遺言を残した。五助はその遺言を遵守し、吉継の首を地中深く埋めた。そして2年後、吉継の言葉通り、吉継の首が埋没している場所から怪しげな木が生えてきた。木は驚くべき速度で生長し一気に大木となり、やがてそこに果実を実らせた。恐ろしや、その果実にはどれも大谷吉継の憤怒の形相が浮かび上がっていた。そして暫くするとその果実は一斉に飛び散り、「ギョーブ、ギョーブ」と経文でも唱えるような不気味な声を上げて四方の空へと散らばっていったという。

丁度その年、小早川秀秋が変死を遂げる。巷では吉継の亡霊に祟り頃されたという風聞が飛び交い、人々は吉継の凄まじい怨念に恐怖した。しかし、秀秋同様土壇場で寝返った脇坂安治大坂の陣の後まで生きて72歳の大往生を遂げていることから、実は吉継の祟りって大した事無いんじゃないのという疑惑が浮上している。秀秋や安治同様裏切り組の一人である赤座直保はこれより10年くらい後に足を滑らせて氾濫した河川に落ちて溺死したが、これは吉継の怨霊などではなく、本人が不注意だっただけである

人面樹説[編集]

異説、珍説の域を出ないが、吉継は人間ではなく人面樹であったという説がある。病のため歩行もままならず、合戦においては常に神輿に跨り移動していたと言われる吉継だが、人でなく樹であれば、そもそも移動ができないので、神輿に担がれていた理由も頷ける。 その人面樹の生き残りが、現在のNHK教育テレビの平日朝7:00に出演しているのである。

腐男子説[編集]

もうひとつの異説として、吉継は腐男子であったという説がある。実は吉継は他の男性同士のアーン♥♥を眺めるのが趣味であったという資料が複数存在する[要出典]。吉継が病に冒されていたというのも、「腐男子」という事から誤って、本人の身体そのものが腐っているかのごとく後世に伝えられた結果だというのである。しかしこれについては、吉継がその病ゆえに衆道の相手とはみなされず、他人のプレイを横で眺めるしかできなかったのではないかという説もあり、今後の検証が待たれる所である。

Wikipedia
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