大村純忠

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「大村純忠」の項目を執筆しています。

大村 純忠(おおむら すみただ)とは、戦国時代の西洋かぶれで、大友宗麟や甥に当たる有馬晴信と同じキリシタン大名であり、島原の乱の遠因を作ったマフィアである。

生涯[編集]

幼少期[編集]

西肥前のブラック企業の社長有馬晴純の次男として生まれる。有馬氏は平安時代朝廷にケンカを売った西のドン藤原純友の末裔で、純忠の父である晴純にもその血は色濃く受け継がれていた。晴純は周辺の商社や海運業者をアコギな方法を用いて、次々と自らの子供を送り込んでは乗っ取っていたが、純忠もその例に漏れる筈は無かった。純忠は有限会社大村海商の社長大村純前へ、その借金を棒引きとする代わりに養子へ捻じ込まれたのである。純前には一人息子貴明があったにもかかわらず、である。ちなみにその一人息子は、邪魔であるからと晴純の命により、子会社の後藤工務店へ養子に出されるのだった。

純忠は父親に似ず気弱な性格であり、社員から常に冷たい目で見られたこともあってか、尚更に陰気な性格に育っていった。唯一、義父の純前のみは愛情を以って接してくれ、それのみが救いであった。ただ、純前の実子で養子に出された後藤貴明の恨みは浅からぬものがあり、純忠は保育園に入園した頃からイジメを受けるようになる。それは高校生になってまで執拗に続けられた。

ファミリー旗揚げ[編集]

純忠19歳のとき、唯一の味方であった義父の純前が過労死する。その跡を継ぎ純忠が社長になると、少しずつだが社員も心を開くようになっていった。それから10年ほどが過ぎた頃である、ポルトガルマフィア「キリシタン」の日本支部長コスメ・デ・トーレスが純忠の事務所へ逃げ込んでくる事件が起こる。トーレスは平戸をシメる松浦ファミリーとの抗争に敗れ、純忠の住む長崎の横瀬浦にまで逃げてきたのであった。純忠は松浦ファミリーの構成員となっていた後藤貴明に未だ恐喝されており、それに対抗すべくこれを庇護すると、自らの事務所をその日本支部にすることを許可するのだった。

純忠は段々とマフィアに感化され荒んでいく。そして遂には脱法ドラッグ”カトリック”に手を出し、それを常用するようになっていった。また、キリシタンの鉄砲玉であるガスパール・コエリョと兄弟の契りを結ぶと、自らもファミリーを立ち上げる決意を固めるのだった。晴れて、ならず者の仲間入りを果たした純忠であったが、さすがに警察に捕まることは危惧したものか、以後より”バルト・ロメオ”という偽名を用いるようになる。明らかな日本人顔であるにもかかわらず西洋名であるのは、イキがったことによる若気の至りであるのだが、これまで押さえつけて来た感情の発露か、はたまた中二病であったのか、恥ずかしさはこれっぽっちも抱かなかった。

純忠はまたコエリョに対し、ファミリーおよび縄張りに住まう者全員を薬漬けにすることを約束する。しかしこれに反発する針生伊賀守ら一部が後藤貴明の元へ身を寄せた。純忠は部下の朝長純安に「ヤツのタマぁ取ってこい!」と針生暗殺を命じ、見事その粛清に成功する。純忠は更に、意に応じない者を捕えると、カタギでない者は容赦なく有明海の干潟へと沈め、そうでない者は洗脳を施し、他のポルトガルマフィアへインド制圧の兵隊として売り飛ばした。が、しかし、恥をかかされた後藤貴明と松浦ファミリーが黙っている筈も無く、やがて血で血を洗う抗争へと発展、有馬の実家を継いだ甥の晴信や、山賊の親玉で武闘派の平井経治をも巻き込んでいった。

飼育者としての新たな人生[編集]

ただし、そのうち抗争どころではなくなってくる。

それは凶暴な人食いクマー龍造寺隆信とその飼育監督者である鍋島直茂が東からエサを求めて現れ、更にクマーの餌場とすべく純忠や松浦ファミリーの縄張りを侵し始めたのである。純忠は止む無く松浦ファミリーと手を組み、父親である晴純の資金援助まで受けてこれに対したが、クマーのあまりの凶暴さにはさすがに歯が立たず、爪で頬を引っかかれ、肩をかじられ、足を咥えられて潮の引いた干潟の上を引き摺り回された挙句、小クマーたちにねぶり回されオモチャにされる始末であった。純忠は遂に降参し、以降はクマー親子の飼育係として24時間の強制労働を強いられた。

そのクマーが沖田畷の戦いにて、薩人マシーン四兄弟の一人島津家久(良い方)に釣られた挙句にクマ鍋にされると、純忠は飼育係より解放された。しかし以後は薩人マシーンの予備マッシーンを命じられる。ただし、その薩人マシーンも、東から攻め寄せて来た味噌大国出身の大猿に降伏を余儀なくされると、今度はこの大猿の飼育者の一人として毎朝・毎夕、リアカーいっぱいのサツマイモを猿山へ配膳する係の一人とされた。

しかし、それも束の間であった。長いことドラッグを常用していたことにより体はボロボロであり、純忠はをやられて55歳でその生涯を終えた。遺言は「たくさん人間は売りさばいても、一羽の小鳥を逃がせよ」である。

その死後[編集]

純忠の縄張りにはマフィア、カタギ、老若男女の別なくドラッグ常用者しかおらず、その子孫もまた常用者であり続けた。ゆえに、後に出されたドラッグ禁止令にはほぼ全員が反発することになる。そのため、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱には皆が挙って参加、その鎮圧後は純忠の縄張りには人っ子ひとりいなくなってしまった。

関連項目[編集]