大政翼賛会

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畏クモ天皇陛下ハ御自ラ全臣民ノ爲ニ
本項ノ全内容ヲ天覽遊ハサレタリ
Naval Ensign of Japan.svg 大本營認可
本項ノ全文章及全内容ハ完全ニ正シキ事實トシテ大本營ニ依リ認可セラレタリ
全臣民ノ爲ニ畏クモ現人神タル天皇陛下ハ御自ラ本項ニ御目ヲ通サレ給ヘリ
此ノ項目ノ内容ヲ疑フハ現人神タル天皇陛下ヲ疑フト同義ニシテ
誤リタル思想ヲ持ツトセラルヽ場合ハ政治犯思想犯トシテ内亂罪ノ對象トス

大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは昭和15年(皇紀2600年)に創設された政党である。天皇を元締めとする軍首脳が好きなように国民を動かすために作られた会派という側面もある一方、軍首脳を戦争に駆り立てるため組まれた監視組織であると見る向きもある。日本労働党は是の現代版である。

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概要[編集]

大政翼賛会結成の中心となったのは、昭和天皇の子分で、当時内閣総理大臣を務めていた公家出身の近衛文麿である。ちなみに、近衛文麿はトラウトマン工作失敗の要因と見られていたり、国家総動員法を成立させた内閣の首相も務めていたりする。これを、貧乏くじを引いたと表現するか、近衛が悪いと言うかは判断が分かれるところだが、この項目では扱わない

1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が開戦したことと、日中戦争が泥沼化しつつある日本では、戦争遂行のため強い指導体制が求められた。これには、政治への信頼がどん底に落ち、軍部が政治に干渉することが多くなった結果、政治が不安定になりクーデターさえ起こったことも大いに関係がある。軍部は従順な議会を欲し、議会と内閣は命の安全を確保した上で自らの利益を望んでいた。そこで、みんなただし権力者に限るが幸せになれる一国一党組織として大政翼賛会の結党が画策されたのである。

かくして、軍部や有力政党の後押しを受け、名門生まれのカリスマが主導する大政翼賛会へが誕生した。これに「バスに乗り遅れるな」を合言葉にして、右派・左派を問わず様々な政党が自発的に解散し合流したのである。

だが、強固な体制を作ることを心底望んでいたのは軍部だけで、みんなやっているので自分だけ白眼視されたくない、という理由から合流した政党が多かった。バスのハンドルを巡る争いが軍部に睨まれないようにしつつ進行していった結果、大政翼賛会はいつしかみんながやっていることを遂行する組織へと変貌し、終戦を迎えたのである。

経緯[編集]

日中戦争開戦翌年の1938年、国民党はすぐに降伏するという当初の予想とは異なり蒋介石が奥地へと逃げ、戦争は持久戦になりつつあった。日本が持久戦に弱いことは日露戦争で露呈していたため、軍需物資や労働力の確保を目的とした国家総動員法の成立が必要となっていた。だが、衆議院で国家総動員法の可決に反対する政党が出て、成立が難しくなった。そのため、内閣総理大臣を務めていた近衛文麿を党首とした政党を作って衆議院を解散し、カリスマを発揮して手早く法案を通そうという計画が作られた。結局、既成政党が賛成に回ったためこの計画はなかったことになったが、この計画が大政翼賛会の元となった。

大政翼賛会の構想が作られる前、政治面の不安定さも一層深刻化していた。1932年の五・一五事件憲政の常道が消し飛び、軍部が政治に干渉してくるせいで各政党は大連立政権を組みつつ、隙あらば小競り合いを行う状態が続いていた。また、日中戦争開戦後、戦時中であるにも関わらず軍部の干渉複雑怪奇などといった理由から内閣総辞職が相次いだ。

1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が開戦すると、一党独裁による挙国一致体制を敷こうという新体制運動が活発化した。近衛文麿は、イタリアドイツソ連などの一党独裁が世界的な時流、つまりみんなやっていることだと考え、翼賛体制に前向きな姿勢を見せていた。

近衛文麿の姿勢が明らかになると、ある程度民主主義的な政党は反近衛を掲げて抵抗する動きを見せた。が、日本人みんなやってますという呪文に弱い。反近衛政党の内部からも近衛に同調する意見や近衛への支持が出て、反近衛政党は解散に向かった。こうなると、近衛文麿が強いリーダーシップを発揮していて、周りのみんなもついていっているからという心理が働きだし、ついにはバスに乗り遅れないよう次々と大政翼賛会に参加していくことになったのである。

性質[編集]

しかし、大政翼賛会は近衛文麿が目指した一党独裁とは異なる方向へと進んでいった。大政翼賛会に参加してはいるものの、考え方はバラバラで隙あらばハンドルを握ろうと考えている者が多く、思うように一党独裁を行えなかった。

その大きな理由として、「大政翼賛会の総裁が一党独裁による政治を敷くことは、天皇親政を定めた大日本帝国憲法に反し、国体を蔑ろにすることになる」という考え方が唱えられたことである。これは、観念右翼という天皇の統治に心酔している者による考え方であり、軍部が表向き天皇を奉っているのとはまた異なるものである。だが、一般人からすればどっちも同じことを言っているように見え、みんなが言っていることになる。また、ハンドルを狙っている者にとっては、この主張に乗っかれば総裁の発言力を削ぐことが可能になる。

紆余曲折を経て、大政翼賛会は政治活動が禁止されることとなった。こうして大政翼賛会は政治的な指導力を失い、みんなが決めた首相や知事のバックアップや国家総動員法の実施を行うだけの行政的な組織となったのである。

関連項目[編集]