大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ

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大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ(だいちのげいじゅつさい えちごつまりアートトリエンナーレ、2000年7月~)、通称「大地の芸術祭」とは、魚沼県十日町市津南町で3年ごとに開催される、世界最大規模、762平方キロメートルの空間を展示場とした屋外芸術祭である。この面積は、東京23区淡路島よりも広い。あわせて、名前にある妻有とは十日町市と津南町を含む地域がその昔、妻有郷と呼ばれていたことにちなんでおり、アートトリエンナーレとは、3年に1度開催される芸術祭を意味するイタリア語である。

概要[編集]

日本古来より伝わる様々な芸術品、もしくは逸品には様々な伝承が存在している。ときに、持ち主に災いをもたらし、ときに加護をもたらすとされたそれらの文物には、明らかに普通とは違う、何か別の意思が働いていると人々に思わせるものがある。すなわち、人智を超えたそれらのパワーが、古来より伝わる文物を何か特別なものにしてきたのが、日本の芸術の一つの姿である。

で、何が問題かというと。明らかに人智を超えたパワーが集まりすぎな場合が存在するということである。この記事では、恐ろしいまでにこの大地の芸術祭を彩るそのパワーについてを記載する。

あわせて、そういった視点ではなくウィキペディア的な視点で語るなら、大地の芸術祭には世界中から数多くの現代美術専門家が参加し、それぞれの思考や技術の粋を集めた芸術作品を発表。あるものはわずか1日のイベントで観客を魅了し、またあるものは期間内のみ、夏の野山と現代アートという異なる2つの空間を融合。

そしてさらにあるものは通年で置きっぱなしにすることで、魚沼県の一地域に一種の不可思議な空間をかもし出している。もっとも、この常設展示されている作品が、以下に示すような事実が積もり積もった結果、より不可思議な存在と化す。伝承付随しまくり。越後の野山や雪、さらには数々の災害まで含めた大自然が、ある意味、見所の一つというか、逸話の供給源になってしまう。

より不可思議[編集]

この項目は、詳細を語ろうとすると目に見えぬ何かに恐怖するレベルの事実が山盛りになるため、あえて簡単に説明する。そもそも、震度6の地震が3つある段階で、すでに一般的な逸話レベルを振り切っている。

端折っても、この長さ[編集]

大地の芸術祭は、2000年7月に第1回が開催され世界中の有名アーティスト達の作品をおよそ2ヶ月もの間、18万人を越える人々が楽しむという、当時、日本では他に例を見ない大規模な屋外アートイベントであった。そして、その翌年。十日町高校野球部が創立53年にして初めて夏の甲子園出場。準決勝と決勝を8-7というとんでもないスコアで勝利し、しかも決勝戦は10回の表に7-6と逆転された直後、1点を返した後、まさかまさかのサヨナラホームスチールで優勝という奇跡を市民が目の当たりにしている。

2003年7月から9月にかけて第2回が行われた翌年、2004年10月23日に第一次中越地震。詳細は語らない。2006年の第3回の翌年7月には第二次中越地震まで発生。それほど十日町や津南に被害はなかったけれども、詳細は語らない。

この時点で、地元住民のちょっとした笑い話程度には、そういった芸術祭と災害の関連を示す笑い話が挟まり始める。しかし、2009年の第4回の後、特に妻有地方には何も起こらず、そんな話も終了。と思ったら、大地の芸術祭の総合プロデューサーを務めたお隣新潟県新潟市博物館の館長北川フラム氏が、同じ2009年に同じく新潟市で行った「水と大地の芸術祭」の直後に、芸術祭関連の展示物である土壁の管理に失敗。カビを発生させるという失態が発覚し翌2010年に博物館長を辞任するという人災が起こっている。けれど、それまでの大騒ぎに比べれば小さい話だったので、芸術祭と妻有地方のかもし出す不可思議さについては、誰も言及すらしなくなる。

ところがぎっちょん。2011年に入ったらあーた。栄村大震災てあーた。津南町・十日町市で震度6弱てあーた。しかも、それから半年たたずに2011年下越・会津豪雨てあーた。十日町市で魚沼県史上最高の1時間あたり121ミリの豪雨を観測てあーた。

詳細なんざ語れるわけないがな。無論、全て偶然である。

しかし、これらの災害の結果、いかにこの芸術祭における各芸術作品が、普通ではない、よりリアルな状況で作品が展示されているかを端的に示すことにつながる。つまるところ、しっかりと壊れる。見事に、それはもう見事に壊れる。そもそも、そういった震災やら豪雨といった災害だけではなく、の重みで壊れたり、雪解け水で土砂崩れが起こって壊れたりと、ある意味、他の芸術祭ではありえない逸話が満載。けれど、いくつかの作品は、災害に巻き込まれて破損したにも関わらず、関係者の必死の努力で修繕され、2度の地震に100年に1度の豪雨、毎年の豪雪といった大災害を乗り越えた上でなお、妻有の大地に、不思議な空間をかもし出している。

というわけで、大地の芸術祭の逸話のほとんどが壊れただの傾いただの直したといった涙ぐましい努力の話に満ち満ちており、さらに管理する人々の実体験のほうがシャレにならないレベルで濃くなっている場合も多い。

無論、全て偶然である。たった10年で逸話がてんこもりになるなんて、偶然以外信じたくない。

全て偶然である[編集]

なお、世界中の芸術の世界において、このような話は別に特別というわけではない。たかが10年や20年で逸話や伝説が生まれるという話は、災害大国である日本ならば、特に珍しい話ではない。はずである。きっと。多分。

実際、大災害とアーティストが関連した稀有な例として、1969年に大ヒットした内山田洋とクール・ファイブの代表作「長崎は今日も雨だった」が挙げられる。男性コーラスグループの印象的な歌唱で知られるこの名曲は、13年後の1982年、長崎大水害が発生したことで、別の意味の逸話が付随される。もっとも、このときはまだ笑い話程度だったのだけれど、まさか同じクールファイブがもっとシャレにならない歌を歌っていたとなると、さすがに事情が異なる。

しかも、その曲が「そして、神戸」だったりした日にはもう。さすがに笑えない。

歌詞がまた歌詞で、「神戸、泣いてどうなるのか」「そして一つが終わり、そして一つが生まれ」と歌った23年後の1995年に阪神淡路大震災が発生。いろんな意味で伝説になる。なお、同年の紅白歌合戦で、クールファイブからソロで独立した前川清氏がこの曲を熱唱。瞬間最大視聴率を獲得している。

全て偶然である。けれど、確かに10年や20年そこらで伝説は形作られる。

伝説[編集]

十日町や津南を中心とした地域にはよりとんでもない伝説やら逸話が存在し、それが近年さらに追加されまくっている所がまたろくでもない。以下に、大地の芸術祭がこの地で開催される原因となる、妻有地方のアートの伝説についてを記す。

伝説の始まり[編集]

妻有地方とアートの関係は、特に新しい話ではない。のだけれど、なぜかそれを語ろうとすると縄文時代中期(およそ4000年から5000年前)にまで遡らなくてはならなくなる。

というのも、この時代、信濃川沿岸沿いの集落では、それまでの日本には見られなかった特異な性質を持った土器「火焔式土器」が100年から150年ほどの期間作成され、その後、歴史の中に埋もれるという考古学上の謎が存在する。

それがなぜだか、日本の現代アートに深く結びつく段階で、地元民にはまったくもってよく分からん話になる。

きっかけは日本の考古学の黎明期である1936年。長岡で初めて火焔式土器が見つかったときは、信濃川沿岸地域における単に珍しい形の土器ということでしかなかったのに、これが1951年に上野博物館で展示されたときに、日本を代表する芸術家の一人岡本太郎氏がその地を訪れたことで、事態がややこしくなる。

当時、革命的な芸術で名を馳せていた岡本氏は、縄文時代の火焔、もしくは水流を模したと思われるその造形に、現代アートに通じる何かを見出し、そして大絶賛。その結果、岡本氏のバックアップによって、妻有地方を中心に数千年前に細々と作られた火焔式土器が、一気に日本の芸術の最先端に躍り出ることになる。

地元民にはまったくもってよくわからん話であったのだけれど。しかし、基本は考古学である。氏の熱意も信濃川周辺にぽつぽつ見つかる程度の土器という希少性に加え、その後、日本の現代アートの潮流が1970年に開催される大阪万博へと移行したことから、火焔式土器の話題も沈静化していく。で、地元もようやく落ち着いたかに見られた1980年、十日町で日本考古学史上に残る発見がなされるのだからたまらない。いや、むしろ、日本美術史上における大発見といったほうが正しいか。

そういった意味で、岡本太郎氏の先見性は伝説的であるといえる。

さらに追加[編集]

最初は、ごくごく小さな話から始まりました。十日町市中条の笹山遺跡は、1973年に縄文中期の遺跡が発見されるも、別段、詳しい調査など行われることないままほっておかれ、その後、十日町市が陸上競技場と野球場を建設するとして、1980年にようやく本格的な発掘調査が行われるともう、出るわ出るわ

その後の研究から、笹山遺跡では、当時あった集落が不意の土石流に飲まれたことで、当時の遺物が良質な保存状態を維持したままン千年の時を越えるという、まさに考古学者にとっては涙を禁じえないレベルの質が高い遺跡だった。さらに、縄文時代の生活習慣を色濃く残した遺跡という段階ですでに大発見なのに、まさか、日本最大級にして姿形がほぼ当時のまま、なおかつ造形も今まで見たことがないというレベルを保持した火焔式土器が発掘されるとは、地元住民もびっくりである。

この、考古学者も唖然呆然とするような大発見は即座に他の分野に波及。その驚くべき姿に、岡本太郎氏以降、一度火を落としていた芸術分野の人々も再燃。むしろ、世界に誇れる日本古代の美という話においては、地元民よりも世界の古代美術愛好家のほうが絶賛することになる。その後、日本を代表する古代芸術として世界各国の美術館に貸し出されるまでの存在となり、しまいには日本を代表する美術品としてロンドン大英美術館で展示されるまでに、その価値は高まっていく。

まったくもって、地元民にとってはなんのこっちゃかさっぱり分からないのだけれど、とりあえず、地元ではなく世界のほうで、特に美術関連世界で事態が急速に動き始め、最終的に日本の古代の美のイメージを変えた大発見から19年後の1999年。笹山遺跡で見つかった火焔式土器とそれらに付随する王冠式土器などの発掘物はついに国宝に指定され、十日町市博物館なる、いたって普通の博物館、しかも来館者数にいたってはふんだららという博物館が、いきなり国宝を多数所持するという奇跡を地元民は垣間見ることになる。

で、その翌年に大地の芸術祭が始まる。地元民はさっぱり分からんのだけれど。

さらにさらに追加[編集]

その上でなお、伝説やら逸話が付随されまくるんだからもう言葉にならない。

まぁ、そんなにすごい話ではなく、ようは中越地震の際、博物館に展示されていた国宝一式、震度6の揺れに耐え切れずにこけてしまっただけの話である。まぁ、世界の美術愛好家が絶叫する程度の話である。ちなみに、笹山遺跡で見つかった最も大きな火焔式土器が、収蔵庫から転げ落ちて全壊。同じく、日本最大級でもっとも形がよい土器も展示室内でこけて取っ手が欠損。同じく展示収蔵されていた国宝57点のうち、20点が揺れに耐えかねてふんだらら。その結果、国宝が壊れるという、あまりの事態に胆を冷やした関係者が、即座に日本有数、すなわち世界レベルの耐震設備を十日町市博物館なる一般的な施設に導入することを決定。まぁ、その、なんていうか、あまりの事態に国が動いた。最終的に、それらの国宝はしっかりとした修復がなされるも、ある意味、とんでもない話である。

もっとも、地元住民は、火焔式土器は元々壊れた状態で見つかっていることを知っている。

なお、そういった設備を導入していなかった津南町でも、やっぱり地元で発掘された火焔式土器、しかもけっこーすごい土器があったりするわけだけれど、栄村大震災の際にふんだらら。これはまぁ、仕方がない。別に国宝でもない考古学の一資料である。と、地元民は見ている。世の中のほうは知らない。その後、津南町で発掘されふんだららを免れた土器が2012年7月にロンドンオリンピックの開幕にあわせて、これまた大英博物館へと貸し出されている。すんごいのかそうでないのか、まったく地元住民にはよく分からない。しかも、3年間の無償貸与の上、希望すれば10年まで延長という人のよさ。その後、ロンドン五輪では日本選手たちは過去最高となるメダル数を獲得、その上、十日町市で合宿をしているレスリング女子日本代表は3つの金メダルを獲得。もちろん、まったくの偶然であるけれど、なじぇこういった逸話が集まってくるのか書いているほうも理解できない。

けれど、こういった逸話がたまらない人間は多い。数多い

で、も一つたまらない話として、結局のところふんだららが大地の芸術祭の参加作品に逸話を付随しまくっているということである。ここまで見事に人の手で創造された作品が、ごく普通に自然に破壊される芸術祭というものは、ある意味、伝説である。

それがいいのか悪いのか、地元民にはさっぱり分からんのだけれど。

作品[編集]

大地の芸術祭のいいところ。それは、上から下から地元民観光者外国人含めてさっぱり分からんということである。もちろん、説明はできる。どういった作品であるかも、ちゃんと言葉で解説できる。現代美術の専門家であれば、なおのこと理解できると思われる。

だとしても、さっぱり分からん。

例を挙げると、十日町市にあるほくほく線松代駅前には数多くの作品が存在し、ウクライナのイリヤ&エミリヤ・カバコフ夫妻による作品「棚田」や日本を代表する現代アート作家である草間彌生氏による、鉄製で水玉模様の巨大な花をモチーフにした作品「花咲ける妻有」、同じく田中信太郎氏による「○△□の塔と赤とんぼ」などの諸作品が点在。芸術祭の期間中、多くの人でにぎわうスポットとなっている。

のだけれど、言葉にするのが難しすぎる。解説書や作者の言葉を見て、納得しようとするのだけれど、そう簡単にはいかない。いくわけがない。

そのため、松代駅周辺には、なぜかそこにあるのは分かるけれど、なぜそこにあるのかさっぱり分からんという空間が存在している。無論、中にはちゃんとした意図を持って制作された作品や、屋内で鑑賞する作品のための施設もある。けれど、やっぱり分からんというものが大挙してそこにあるというのが、大地の芸術祭のいいところである。

分かるということと、ソコニアルと認識することは、同義ではないことが、よーく分かる。幽霊妖怪といった化け物のたぐいを見たのと同じ、眼で見ても理解できないという世界は、大地の芸術祭にはいくらでもある。

さっぱり分からんということ[編集]

もっとも、このような作品にこのような表現は日本では別に珍しくもなんともない。そもそも、平安時代から、日本では目に見えぬものについて研究や調査がなされており、そういった中で、表現やら儀式といった様々な対処法が進化していく。陰陽道神道といった儀式中心の発展を遂げたものの他、様々な表現を用いて目に見えぬものに対するアプローチを試みたことが、日本の芸術に大きなうねりをもたらす。

分かりやすくいうと、日本にはさっぱり分からんものに対して、理解するよりも表現で対応してきた歴史が存在する。

古今和歌集から始まるふんだらら[編集]

平安時代真っ只中の延喜5年(905年)、醍醐天皇の命で編まれたとされる古今和歌集の紹介文にはすでに、日本人には目に見えない何かに対し表現で訴えかけるという話がすでに出ている。無論、古今和歌集といっている以上、その表現は歌(和歌)以外の何物でもないと言っているのだけれど、そもそも、その紹介文をかな文字で書き、さらにわざわざ漢文までくっつける段階で、和歌以外のアプローチを明確に示している。

古今和歌集仮名序及び意訳
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。
和歌は人の心という種から数多くの言の葉を繁らせる。
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
人々は色々と考えすぎては、心に思うことを、見聞きしたものについて言葉にしていくけれど、
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。
花に鳴くウグイスや水のカエルの声を聞く度に命あるものすべてが、和歌を歌っているように、
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
力もいれずに天地を動かし、目に見えない存在にすら悲しみを覚えさせ、
男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
男女のなかをとりもち、猛り狂う武士をいさめるのは、和歌である。
(以下略)

この段階で、和歌には天変地異を起こす力があると語ってるんだから、ものすごい話である。その後は、天地開闢の際に生まれたのが和歌だの、スサノヲノミコトが31文字を決めただの、伝説を付加しまくり。つまるところ、そういった災害を起こすとされた目に見えぬものへのアプローチとして、世界が誕生したときに生まれた和歌が有効ということである。実際、どこぞの小野小町が和歌で雨を降らせたなんていう伝説もふんだらら。で、平安中期905年の段階では和歌がそうだったのだけれど、これが平安末期&鎌倉初期になってくると対象が拡大。嫌になるほど拡大。

書画琵琶(かね)に随筆小説果ては作庭までひっくるめていわゆる芸術、ぶっちゃけ、人の心やら目に見えぬものに訴えかける表現があふれかえることになる。そらあ、どこぞの琵琶法師が平家の怨霊をいさめる中で命と引き換えにを持っていかれるのも仕方がない。

で、このような目に見えぬものに対する表現は、現代アートによって、見たことのないものへの畏怖そのものが表現されることになる。で、それが行き着いた結果、2000年に越後国の妻有地方で現代アートを主体とする芸術祭が始まることになる。

が、もっとも、そのきっかけは日本人が1000年以上培った表現の大本のそのまた向こう、中国文化もさらに越えた4000年前の生活雑貨だったりするわけなのだけれど。

たまるものかは[編集]

あわせて、このような日本文化の黎明期に行われた日本の芸術の爆発は、平安から鎌倉時代へいたる戦乱の中でもしっかりと残る。むしろ、京都中心の貴族文化が、質実剛健な鎌倉における武士の文化や中国から新たに伝来した新興仏教文化の隆盛へと変わっていく中、京都は廃れても、京風の文化はその後も連綿と生き続ける。

で、その連綿と続いた先に、大地の芸術祭の諸作品を残そうとする人々の尽力及び、自然現象で破壊された作品を、何とかして修復しようとする関係者の尽力が存在する。

そらそうだ。日本では、古代でも近代でも現代でも、いくらでも逸話やら伝説やらが付随している対象をうっちゃれば、何かしら目覚めが悪い以前に、呪いやらなにやら、目に見えないあはれと思う鬼神が怖いと思うという文化が根付いているわけだから。そんな話は、結局、平安の京文化でも、武士の文化でも仏教文化でも名を変え形を変えて現代という下流へ流れ伝わっていくための地下水脈であり、明確な言葉で伝わるようなもんではない。

そもそも、平安時代以前、奈良時代飛鳥時代の仏教文化継承の裏には、国家の安全を支える仏の加護、翻れば、天災をもたらす目に見えぬものへの恐れがあるわけなんだから。でなけりゃ、夢殿なんていう芸術なのか伝統なのかオカルトなのかよく分からない話が現代に伝わるわけがない。

実にまったく見事なほどの日本の文化である。どんだけ鬼神が怖いのか。もしくは、伝統を裏切るのが嫌なのか。まぁ、気持ちは分かるけれどもさ。

こういった現状を見て、江戸時代のある知識人が一つの狂歌をしゃれっ気を込めてこう歌っている。

歌詠みは 下手こそよけれ 天地の 動き出しては たまるものかは」(宿屋飯盛)
(うたよみはへたこそよけれあまつちのうごきだしてはたまるものかは)
意訳「表現する連中は下手なほうがいい。そもそも、力も込めずに天も地も動き出してはたまったもんじゃない」
まったくだ

2012年第5回大地の芸術祭[編集]

なお、第5回大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレは2012年7月29日から9月17日にかけて無事、開催された。幸いなことに、過去最高となる芸術ファンが妻有の地を訪れ、さっぱり分からん作品群をだだっ広い空間の中で楽しむことになる。あわせて、逸話うんぬんについては、さすがに芸術祭期間中は無理な話である。とりあえず、夏よりも冬にどうなるかが全てである。さらに栄村大震災の余震がどうなるかもまた見逃せない。無論、開催期間中もしっかりと揺れている。

上小阿仁村でも併催されていたことは、既に誰も気にしていない。

訪れる際の注意点[編集]

世界的な規模で世界的な現代アーティストを呼ぶ大地の芸術祭は、回数を経るごとに来場者数が30万人を越えるような、けっこーなイベントとなっている。それに伴い、事前に来場者が注意すべき点をピックアップする。

高低差
基本は田舎も田舎、大田舎な土地であり、山また山というのが当たり前となっている。そのため、自転車で自分のペースで各作品をめぐろうと考える大学生がまずぶつかるのが、河岸段丘の現実である。無論、川沿いは平坦であるのだけれど、沢ごとにアップダウン。山手の集落に行くのに標高線を5つ越える、100m上がるなんてのは少ないほう。そしてまた、そういう場所に限って、世界的な作家の作品があったりするのがいいところ。無難に、かもしくはバスのほうがいいのだけれど、いかんせん、大学生を含めた20代の若者にそういった話が通用する気がしない。
シチュエーション
基本が屋外展示であるため、作品を鑑賞する際の雰囲気が、どうしても天候に左右されがちになる。大雨に打たれながら作品を見るのと、夏の日差しの下で見るのと、夕焼け空に染まった中で見るのでは、それぞれにおいて与えられる印象が違いすぎる。また、好天に恵まれすぎて35度を越えた蒸し風呂の中でわけのわからん作品を見る際には、どうしたって、水分と塩分が必須になる。瀟洒な作りの美術館で、空冷が効いたスペースで美に浸るのとは世界が違う。
食い物
美味い。現代アートよりも地元産コシヒカリとしょっぱい漬物に珍しい山菜料理のほうが、インパクトが強かったらどうしようレベルで美味い。野沢菜に、気をつけろ。
地震
時々揺れます。
キャパシティ
田舎です。人がどっとくるような状況なんて想定していない場所で作品やイベントを行うため、場合によっては駐車スペースに苦労する可能性があります。が、ン百メートルもの路上駐車を乗り越えて、現代アートをたずねる人々も多いです。んが、やっぱり、確認はしておきましょう。
・・・分かるでしょ?
津南町の山の上、河岸段丘の奥また奥に、竜ヶ窪と呼ばれる大蛇伝説で知られた池があり、日本の名水百選に選ばれるほど美味い水なのだけれど、美味すぎて人が来過ぎて大騒ぎ。特に夏場は大騒ぎ。駐車場に観光バスが止まるってどうよ。後、人によってはポリタンクを用意して100キロ以上も持って帰るなんて話もちらほらと。が、地元民は近辺で取れる井戸水と同じ泉質だということを知ってます。てゆーか、まぁ、信濃川の伏流水が水道に引き込まれているため、どこで飲んでも美味いんですが。

だが、そういったことを含めて、現代アートだ、と言われればそれまでである。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]