大喜利

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大喜利(おおぎり)とは、格闘技の一つ。

概要[編集]

大喜利とは日本の国技として、相撲と並び称される格闘技、及びそのルールや興行自体のことである。

相撲が肉体と肉体のぶつかり合いである「身体の格闘技」と称されるのに対し、大喜利は「頭脳の格闘技」と一般的に呼称される。相撲、大喜利共にその発祥が日本であり、現在も根本的なルールの概念を変化させていないことから、現在では日本の二大国技の一つとして絶大な人気を勝ち得ている。

あるお題に対し、選手が回答するというシンプルなシステムが特徴で、その過程において一切のボディタッチや打撃・関節技などの直接的なダメージ行為が認められないことから、平和的ルールを標榜した格闘技として全世界の注目を浴びている。しかし、「そもそもダメージ行為がないのだから、格闘技ではないのではないか」「いや、頭脳や精神に対する間接的なダメージ行為があるから立派な格闘技だ」との論争が常に巻き起こっており、その実は全く持って平和的ではない、とする論調も数多く見受けられる。

現在公式に認められているルール、及び興行団体として笑点(圓楽派)、ごっつ(松本派)、ダイナマイト関西(木村派)が存在し、その流派毎に来歴や傾向などが異なる。この項では一般的な見地による来歴を中心に詳述する。

来歴[編集]

有史以前[編集]

一般的な歴史観として、大喜利の端緒は江戸時代初期に発生した、との見方が大勢であるが、その見方を裏付ける文献がほとんど存在しないため、真相は明らかになっていない。一説によれば、江戸時代より勃興した『寄席』の最後に行われていた謎掛け遊びを、興行の一番最後=『大切り』に行うことから、転じて『大喜利』と名づけられたというものもあるが、そんなのオヤジギャグにもならないし。

近代大喜利(圓楽派)の発生[編集]

1960年ごろより、大喜利を主興行とする団体『笑点』が旗揚げされた。同団体は代表を務めた人物の名前より「圓楽派」とも称される。また、後述する現代大喜利と区別する目的で、同団体が制定したルールを近代大喜利と称することが多い。

現在見られるような大喜利を興行の形でルールを整理し成立させたのは、著名なプロモーターであった三波伸介、及び圓楽派の首領として君臨した三遊亭圓楽の手腕によるところが大きい。両人が制定したルールは大まかにまとめると以下のとおりである。

  • 司会である圓楽、及び5名の選手により構成される。ただし1月1日に行われる選手は20人以上。
  • 試合時間は20分~30分)。ただし1月1日に行われる試合は、6時間以上、休憩なし。(不定。圓楽が独断で決定していた
  • 司会が3つの問題を出し、それに対し5名の選手が挙手し、答える。ただし1月1日に行われる試合では、10問以上。
  • 司会である圓楽が「うまい」と感じた回答を導いた選手に1ポイントが与えられる。ポイントは座布団で表示。
  • ポイントが10ポイントたまった選手が勝利となり、賞品が授与される。
  • 言葉、特に相手選手に対する誹謗、中傷、皮肉による「精神打撃」が認められる。反則か否かは司会である圓楽の裁量に任せられる。
  • 1つの問題に対し5~7分の時間が割り当てられるが、全て司会である圓楽の裁量にて試合時間が決定される。インターバルなし。

同団体は、日本テレビという大型スポンサーを獲得したこともあり、当時の大喜利シーンを席巻した。しかし、

  • あまりにも司会者である圓楽の裁量に任せられる部分が多いため、ジャッジの不透明化が露呈
  • 精神打撃の許容が災いした結果、実際には日常茶飯事のように直接打撃が行われ、さらに圓楽がそれらをことごとく無視
  • 「うまい回答」という判定要素が一般には理解しづらく、明らかに爆笑を誘った回答でもポイントが与えられないという現象が多発
  • 賞品が明らかにゴミレベルだがたまに海外旅行(オチ付き)があったりする。
  • 選手の入れ替わりが非常に緩慢で、世代交代が全くと言ってよいほど進まず、選手の高齢化を招く
  • 圓楽がそのときの気分でポイントの減点、及びリセットを乱発し、ルールの運用が崩壊寸前に
  • さらには、選手のあまりにも予定調和な回答の多さから問題の事前漏洩が常に疑われる始末
  • 最終的には圓楽が体力の限界から司会、及び団体から離脱

したことにより、その求心力は衰退の一途をたどった。現在1960年の旗揚げ時より選手として参加していた桂歌丸が司会を務めているが、老齢であることによりその将来が大いに不安視されている。

現代大喜利(松本派)による革命[編集]

1993年、これらの圓楽派による興行に真っ向から対抗する形で旗揚げされたのが、松本人志による新団体『ごっつ』(旗揚げ当初はダウンタウン汁)である。同団体は中心人物である松本人志の名前から松本派とも称される。

松本は、圓楽派のルールに対し、以下の改良を施した。

  • 判定要素を「うまい回答」から「面白い回答」へ変更
  • 司会を当代きってのツッコミであった浜田雅功とし、自らが選手に回る
  • 選手に問題を事前告知しないと公約
  • 浜田雅功が直接打撃を全て反則として処理し、逆に反則を犯した選手を浜田本人が直接打撃で制裁
  • 賞品を豪華にすることにより、選手の士気を高めることに成功

これらの対策により戦術性やゲーム性が高まり、圓楽派の興行に満足できなかった若年層の熱狂的な支持を獲得、一躍近代大喜利に代わる現代大喜利として認知されるようになった。

しかし1996年、松本がスポンサーであったフジテレビとの間に起こした不祥事のために興行の続行が不可能になってしまい、団体がその直後に崩壊してしまう。松本は責任を取って団体を離脱。その後一人で山篭りを行い、ルールの再改定を視野に入れた修行、及び現代大喜利のための技術論の執筆に入った。

後に同団体に所属していた板尾創路木村祐一が修行に合流すると、松本はこれまでの修行の集大成として、『松本人志24時間大喜利』の挙行を決意する。文字通り24時間の間休みなく大喜利を行うというまさに前人未到の荒修行は、はたして1998年に神奈川県鎌倉市にある妙本寺にて挙行された。この修行はその後「伝説の荒修行」として後世に語り継がれることとなる。

松本はその後下山したが、松本派の再興がされることはなく、松本自身も大喜利シーンへ復活することはなかった。松本が残した書物群、及び修行の模様を記した修行録は『一人ごっつ』『松ごっつ』と呼ばれ、板尾、木村の手によって全国へ流布されることとなった。

木村派による『ダイナマイト関西』の確立[編集]

1999年、松本が残した『一人ごっつ』『松ごっつ』を手にした木村明浩は、その書物を読みふけり「この偉大なる功績を何かに残さねばなるまい」と一念発起。友人である竹若元博ケンドー・コバヤシおーい!久馬(当時は久馬歩と名乗っていた)らと共に団体『ダイナマイト関西』を旗揚げした。同団体を、中心人物となった木村の名前から『木村派』と称することが多い。

木村と竹若は、それまで松本が提唱してきた現代大喜利の技術論を基礎に、以下のようなルールを改めて制定した。

  • 対戦は、1対1のシングルエリミネーション形式。
  • 試合時間は2ラウンド5分、合計10分(1ラウンド毎に選手が回答をしている間の時間をロスタイムとして加算するため、実際の1ラウンドは5分強~6分程度)。
  • 1ラウンド毎に問題が出題され、選手は挙手にて回答する。
  • 回答が面白いか否かを3名の審判(非公開)が判定し、2名以上の審判が有効と認めた場合、対戦相手のポイントが1奪われる。
  • 同様に、2名以上の審判が「つまらない」と認めた場合、回答した選手のポイントが1奪われる。
  • ポイントは試合開始時に選手双方が5ポイント所持しており、先に0ポイントになるか、試合終了時にポイントの低い選手の負け(ロストポイント制)。
  • 各ラウンド毎に、1分前であることが選手に知らされる。
  • 試合終了時にポイントが同数の場合は、時間無制限・マストポイント・一問一答制の延長戦を行う。

これまでの近代大喜利、及び松本の現代大喜利が根本的に抱えていた『ジャッジの透明性』を解決したばかりか、エリミネーション形式の採用により競技性が格段に増したこのルールの制定により、崩壊した松本派から離れていた支持者層の奪還に成功した。

また、木村は積極的な興行の実践を行うため、同名の大会『ダイナマイト関西』を現在までに12回開催した。その結果、上記4名のほかに千原浩史(現在の千原ジュニア)、西田幸治笑い飯)などのスター選手を輩出。また第9回大会では松本派の重要人物である板尾創路木村祐一が参加し、松本派と木村派の重要人物が競演するという快挙を達成、さらに第12回大会では圓楽派の主要興行会場である後楽園ホールで初の興行を成功させるなど、快進撃を続けている。

関連項目[編集]


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