大化の改新

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大化の改新(たいかのかいしん)とは、飛鳥時代に起きた、エクストリーム・スポーツ仏教布教における大規模なルール違反である。

概要[編集]

伝人型決戦兵器像

飛鳥時代に流行していたエクストリーム・仏教布教で優勢を保っていた蘇我入鹿という、二足歩行する大変賢いイルカに対して、究極のナルシストであった中大兄皇子が嫉妬したことに端を発した。

そもそもエクストリーム・仏教布教は、神道一辺倒であった日本国内にいかにして仏教を布教させるかを競う競技であり、特に反対勢力を殺害することで高得点を得ることができるルールであった。当時の豪族たちは、天皇さえも巻き込んでありとあらゆる方法でこの競技に参加しており、一大ムーブメントとなっていた。

この中で頭のいい蘇我馬子聖徳太子と共に、反勢力であった物部氏を滅ぼし、比肩する者がいなくなってしまうほどの高スコアを記録してふんぞり返っていた。そのトップ独走ぷりたるや、東漢直駒という暗殺者を使って崇峻天皇をブッ殺してもお咎めなし、むしろますます権勢が増すほどのぶっちぎりであった。

馬子の息子である蝦夷はあんまり目立たないのでほっといて、孫の入鹿は蔭位の制を利用して馬子が獲得したスコアを引き継ぎ、最高得点保持者として調子に乗っていた。かつての祖父の盟友であった聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族20名以上を自殺に追い込んでしまうほどの順風満帆であった。もちろん、言うまでもなく聖徳太子は蘇我系の人物であるため、その息子や一族というのは入鹿の親戚である。いい気になっていた入鹿は、蘇我家滅亡もなんのその、というぐらいクラックをキメていたのだ。

皇族のくせにナルシストであった中大兄皇子は入鹿に猛烈に嫉妬し、同じ参加者で友人の中臣鎌足と共に暗殺計画を練る。そして西暦645年6月12日、彼らは人型決戦兵器グルースプーや殺人マシン「蘇我倉山田石川麻呂」を宮中に解き放ち、大極殿を阿鼻叫喚の渦と化した。こうして入鹿(+α多数)は、皇極天皇の目の前で検閲により削除に散々検閲により削除された上、ぴーで殺された。本来、高得点者を殺害してもその点を殺害者がぶんどることは出来ないはずだったが、中大兄皇子は大いにゴネた挙句にルールをねじ曲げ、点数をぶんどった。

その後、中大兄皇子と中臣鎌足は蒸しご飯を炊いて喜び合った。

ゴネゴネ王子、その後[編集]

しかしこの騒動のツケは大きく、スプーやグルーで荒れた都を捨てて難波長柄豊崎宮へ遷都をせざるを得なくなった。グロい光景を目の当たりにして精神的に参った皇極天皇は退位し、孝徳天皇が即位。また、日本史上初めて元号を定め、大化とした。

ここでの改新とは実は「改心」と「悔心」という造語をかけた言葉に対する皮肉であったが、気を良くした中大兄皇子は668年に『天智天皇』として即位、自ら優勝者を名乗った。これは重大なルール違反である。

噴出した批判に対し、究極のナルシストであった天智は、自分を批判する者すべてを虐殺する手段に出た。とくにルール違反をHIPHOPで批判した有馬皇子を虐殺したり、損害と賠償を請求される前に先手を打って中国大陸へ無謀な介入戦争を仕掛け、兵の殆どを全滅させた。そう、エクストリーム・仏教布教に優勝した気分になっていた天智は有頂天になり、彼もまたクラックをキメていたのだ。

天智天皇の暴政はこうして続いたが、天智の弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兄の狂気を受け継いでいた大友皇子を壬申の乱により滅ぼし、エクストリーム・仏教布教はとりあえず正常化したものの、結局優勝者はうやむやになってしまった。

その後は、天武天皇や持統天皇自らが寺を建てるという時代に突入したため、エクストリーム・仏教布教は下火になった。最高権力者が主導するのだから、誰も文句を言えなくなったためである。エクストリーム・仏教布教の熱が再び高まるまでには、法然親鸞日蓮といった稀代の名プレイヤーを多数輩出した鎌倉時代を待たねばならなかった。

関連事項[編集]

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