大内義隆
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
大内義隆(おおうち よしたか、永正4年11月15日 - 天文20年8月)は中国地方の大名でありながら、九州に勢力を張っている公家風の武士。大内義興の息子。戦国最強のNEET。
九州と密接に結びつきすぎて、九州先進大名首脳会議(九州サミット)に参加している。また、そのときに発生したバルスの変に巻き込まれる。
これまでの武力による支配から、文治主義的法治国家を建設しようとし、山口を京風にするなど様々な改革を推し進めた。戦上手の猛将でもあったが、戦で息子を失って以降は自暴自棄になる。
サッカー愛好家で、今川義元の師匠。
[編集] 略歴
- 1507年:山口で生まれる。その頃すでに公家風の笑い方(ほっほっほ・・・)であった。
- 1522年:初陣。すでにもうろくし始めた毛利元就に負ける。
- 1542年:大軍を以て尼子晴久に敗北。武力による勢力拡大を悟り、文治主義的政策に転換。蹴鞠や和歌に励む。蹴鞠を推進したのは義隆がワールドカップの構想を考案していたからといわれる。世界で最初にワールドカップを考案した人物といわれる。
- 1550年:キリスト教原理主義国際テロリストのフランシスコ・ザビエルと面会。
- 1551年:陶晴賢が謀反。謀反の原因は文治主義では頭の悪い息子が出世できないからというもの。義隆は逃げ切れずに自害。ワールドカップの構想は愛弟子の今川義元に受け継がれる。

