大内定綱

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大内 定綱(おおうち さだつな)とは、東北地方で活躍した、周防山口出身の戦国武将。伊達政宗の怒りの導火線に火をつけた挙句油まで注ぎ、彼に撫で斬り、つまり大量虐殺を行わせる切欠を作った男である。この政宗の撫で斬りに戦慄した二本松義継が発狂し、結果政宗の父伊達輝宗が非業の死を遂げることとなるため、定綱は政宗の親父の死因を作った男ということにもなる。政宗にとっては八つ裂きにしても物足りないほど憎い人物のはずなのだが、どういうわけか後年あっさり政宗への帰参、服従を許され、片倉景綱伊達成実と共に伊達家の中枢で活躍し、譜代の家臣並に重用された。定綱が武将としての力量に優れているゆえ、私情に流され成敗するより走狗として扱き使った方がいいという賢明な判断によるものなのだろうが、政宗の考えている事はよう分からん。

出自[編集]

大内を名乗っているが、周防、長門に隆盛し、家臣の謀反によって零落した大大名大内氏とは全くの無関係である…と、多くの歴史関連書籍やウィキペディアには記述されているが、これは虚構である。何を隠そう、彼は大内義隆の子供の一人だからだ。

陶晴賢のクーデターにより義隆が自害に追い込まれ滅亡した折、義隆の子供達にも陶軍の執拗な追及が迫り、数人いた義隆の子はいずれも非業の死を遂げた。三男に至っては、男根を切断されて殺害されたという、なんとも痛々しい末路を辿っている。

だが、一人だけ追っ手を免れた子がいた。その子こそが定綱である。定綱は山陰道を通って東へ東へと逃れ、凄まじいバイタリティとスタミナを以って東北まで辿りつき、そこで二階堂盛義の庇護を受けた。そう、あの奇矯な、発狂しているかのごとき顔グラで知られる二階堂盛義である。

盛義は、ハッキリ言って武将としてはたいしたことない人物だったのだが、定綱にとっては恩人であった。定綱は、世話になった恩返しとして、盛義の息子である盛隆を蘆名家の跡継ぎにさせるお膳立てをした。蘆名盛氏の嫡男盛興が酒豪なのに漬け込んで、酔っ払っている盛興に青酸カリ入りの酒を飲ませて毒殺し、跡継ぎ急死で混迷する蘆名家家中を纏め上げて巧みな弁舌で話を進め、特定の家臣に賄賂を渡すなどして折り合いをつけ有利に交渉を進め、見事盛隆を蘆名家当主の座にねじ込む事に成功したのである。

政宗を逆上させる[編集]

伊達政宗が台頭してくると、目敏い定綱は米沢に出向いて早速臣従の意を表明するが、突如これを反故にして政宗に叛いた。まだ自信過剰で血の気が多い青二才の政宗(もっとも彼はオッサンになっても自信過剰でキレ易かったが)は激昂し、定綱の領地に兵を差向けて蹂躙し、女子供問わず兵士領民を殺戮する「撫で斬り」を敢行、恐れをなした定綱は逃亡し、蘆名氏の元へ身を寄せた。

定綱が政宗に突如背信した理由は判然としないが、巷に流布する通説では、政宗の正室となる田村清顕の娘、愛姫に懸想していたが、愛姫が政宗に嫁入りしてしまい、愛姫を奪われたことで怨嗟を抱いたために離反した、と伝わっている。しかし、定綱と田村清顕は幾度となく干戈を交えた宿敵であり、果たして宿敵の娘にそこまで想いを寄せられるのか疑わしい点もある。むしろ娘を嫁入りさせて伊達家との結びつきを密接なものにした清顕が、舅という立場にものを言わせて政宗を説き伏せ、定綱討伐を強行したとも考えられる。

仙台市に収蔵されている仙台藩の史料によると、政宗の使者に対して、定綱と弟の大内長門が居丈高な振舞をして門前払いにしたことで政宗の逆鱗に触れ、瞋恚の炎を滾らせた政宗は撫で斬りで示威行動を行った、と書かれているが、他の史料によれば、定綱達はとても慇懃に応対していたが、政宗の方が定綱の言辞を曲解し、自分を愚弄、挑発していると断定して一方的に逆上して攻めかかってきた、と書かれている。政宗のDQNぶり、血の気の多さ、前者の説を採用しているのが仙台藩伊達家の史料のみであることを勘案するに、実情は後者であった可能性が高い。やはり政宗はどうしようもないDQNである。母親に毒を盛られて殺されそうになった事で何でもかんでも悪意に取る猜疑心の強い狷介な性格が培われてしまったのだろう。

転々と逃亡[編集]

遁走した定綱はまずは二本松義継の元に身を寄せた。ここで定綱は義継に、政宗は自分の気分次第で問答無用で虐殺や略奪を行う暴虐極まりない鬼畜大名だ、お前も殺されるぞ、などと、その残虐振りを誇張して義継に伝えて恐怖心を煽り、更に定綱を庇護したことで政宗が義継にも追及の手を及ばせると、定綱は義継を見捨てて蘆名氏の下へ奔った。見捨てられた義継は発狂し、政宗の親父である輝宗を拉致し、無理心中して果てた、というか政宗が親父ごと義継を蜂の巣にして殺害した。近年の研究では、この時既に政宗と定綱はグルで、義継による輝宗拉致とそれに続く別離の悲劇も、心中では父輝宗を疎み、体よく始末しようと画策していた政宗が事前に定綱と符丁を合わせて共謀した予定調和だったのではないかと指摘されている。あれだけの背信行為をやっておきながら、定綱が程なくして政宗への帰参をあっさり許された事は、前々から両者が気脈を通じていた事をそれとなく示唆している。

いかに戦国の世とはいえ、親父が死ぬ原因を作った男をそうも易々と許せるであろうか。やはり、輝宗はこの二人に嵌められたと断定するのが妥当である。かくして、大内定綱は、伊達政宗による親父殺しの片棒を担いだ。悪辣な二人に陥れられた、輝宗と二本松義継に、合掌。

政宗への帰順[編集]

義継を見捨てた定綱は、次に蘆名氏を頼ろうとしたが、定綱が擁立に寄与してやった蘆名氏の当主盛隆は男色のもつれから暗殺されてしまっており、蘆名氏の家中は上へ下へ大混乱の様相を来たし瓦解しかかっていた。そんな有様を見て定綱は蘆名氏を見捨て、過去の事は水に流して許してくださいと、政宗に土下座して帰参を申し出て、あっさりと承諾された。やはり元からグルだったに違いない。

蘆名氏にかつて仕えていた定綱は、蘆名氏家中の内情や用兵などについて知悉しており、その知識は政宗の蘆名氏攻略に大いに寄与した。また蘆名氏の家臣達と顔見知りであった定綱は、その人脈を利用して猪苗代盛国をはじめ、蘆名氏並び蘆名に与している土豪達の懐柔、切り崩し工作に大車輪の働きを見せ、結果伊達氏は蘆名氏との摺上原の合戦に圧勝、勝利に多大な貢献を果たした定綱への政宗の信頼は揺ぎ無いものとなった。しかし、かつては敵対した立場にあるゆえ定綱の栄達と政宗からの重用を好ましく思わない者も多く、何より外様であるゆえ伊達家譜代の家臣の中には彼を排斥しようと動きを見せるものもいた。その急先鋒となったのが無能なくせに伊達一門という地位を利用してふんぞりかえっている国分盛重であり、盛重は闇夜に紛れて定綱を暗殺しようとした、しかし盛重は無能だったので暗殺は頓挫し、政宗にもこの計画が露顕して放逐させられることとなった。

その後も政宗の股肱の臣として大車輪の活躍を見せ、伊達成実が出奔したり、鬼庭綱元が政宗の勘気を被って逐電したりするのを傍目に政宗の信頼を得て行き、大崎葛西一揆を煽動したり、秀次事件に連座して政宗が窮地に立たされた時には片倉景綱らと共に伏見に赴いて秀吉に陳弁、屁理屈を弄して秀吉を煙に巻いて疲弊させ、政宗お咎めなしの措置を取らせる事に成功した。定綱はいつの間にか、親父の仇から片倉景綱と伯仲するほどの政宗が最も信頼する男の候補の一人にまで上り詰めていた。親父の死因を作った男を重用する政宗が変人なのか、それとも定綱が過去の禍根を払拭させるほど大車輪の活躍をし、政宗の絶大な信頼を得るほど有能な人物だったのか、少なくとも二人ともまともな人間じゃないことは断言できる。

晩年[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「大内定綱」の項目を執筆しています。

壮絶な閲歴を過ごしてきた定綱は、世が一応泰平を迎えた後の1610年、畳の上で大往生を遂げた。その20数年後には、主君である伊達政宗も同じく畳の上で大往生を遂げる。政宗は死に際して「もののふとして病に蝕まれ畳の上で死ぬのは誠に不覚である」と、解釈によっては戦場に散華した戦国の負け犬達を嘲笑するかのような言葉を放ったというエピソードが有名だが、あの主君にしてこの男あり、おそらく定綱も臨床で同じような事を口走ったと思われる。食わせものだもの、間違いない。

余談だが、定綱の本家である大内家は義隆の頓死後混乱が相次ぎ、漁夫の利を得た毛利元就によって滅ぼされ跡形も無く根絶やしにされた