増田長盛

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増田 長盛(ました ながもり)とは、戦国時代に活躍したテクノクラートであり、甲賀忍者でもある。一応、大和郡山に知行を得ていたため、戦国武将、戦国大名の範疇に入るが、槍働きよりは算盤弾きで才覚を発揮する能吏肌の人物。それゆえか武勇の方はからっきし、武将としては二流という印象が強いが、確かに政治、経済の手腕の方が優れていたものの槍働きでも平均以上の殊勲を挙げているし、忍者なので諜報とか暗殺にも通暁している。ただ、注目されていないだけである

人たらしの豊臣秀吉が抜擢し、五奉行に名を連ねただけあって、平均以上の才幹に恵まれた有能な人物なのだが、時代劇とか小説では何故か小心者の官僚、あるいはいるだけの並び大名として描かれる事が多い。多分関ヶ原で家康討伐を積極的に主張した石田三成に同調せず、曖昧な去就を取った所為である。

前歴[編集]

没年から逆算すると1545年生まれのようだが、歴史の表舞台に始めて現れるのは1582年、長盛37歳の時である。それまでの経歴は現存する一切の史料上から窺う事が出来ない。これは長盛が裏の仕事に従事していた、つまり忍者であったことを示唆している。出身地が甲賀忍者の拠点であった近江国であることから、忍者である可能性は極めて濃厚と言える。世間に流布している風聞によれば、秀吉に仕える以前は六角義賢に仕えており、信長に攻め込まれて逃走した義賢親子に随従し、各地で信長相手に奇襲やゲリラ戦を展開していたそうだ。

彼の歴史の表舞台における初めての事績は、本能寺の変直後の、後の世に「伸君伊賀越え」として伝わる徳川家康の堺から三河への帰還を手引きしたことである。この伊賀越えにかの服部半蔵が多大な貢献をしたことは周知されているが、一方で長盛も甲賀忍者達を派遣し、家康の水先案内人を務めたのである。

豊臣政権時代[編集]

長盛はこの一件で徳川家との関係が深まり、元々家康に仕えていた半蔵から勧誘されるが、慇懃にこの誘いを断った。その後、紆余曲折あって秀吉に抜擢され、経済、流通に精通している事を買われ、知行や城の普請などに石田三成長束正家らと共に散々酷使される。賤ヶ岳の合戦では自ら槍を取って敵の首を挙げたり、朝鮮出兵では物資の輸送を担当し、朝鮮攻めの円滑化に大いに貢献したりするなど、地味に実績を積んでいったわけだが、本人があまりに地味すぎたので周囲から評価どころか注目すらされることはなかった。

一応功績を讃えられて所領を加増されたものの、与えられた領地は秀吉の本拠大坂から近いものの辺境と言わざる終えない大和郡山であった。ここはかつて筒井順慶松永久秀が覇権を争い鎬を削った激戦区であり、爆死した久秀と、36歳の若さで志半ばにして病没した順慶の亡霊が徘徊しており新たに入部してくる大名に祟りをなすという風聞が流布していた。さらに長盛以前にここを統治していた豊臣秀保豊臣秀長の嫡子)が変死を遂げていたのでその信憑性は一層高まっていた。長盛は彼らの亡霊を鎮めるべく、絢爛とした壮麗な霊廟を建立してやった。久秀も順慶も満足して成仏したのか、以降祟りの風聞がささやかれる事はなくなった。

キャリアを重ねるにつれ秀吉の信頼はますます深まり、豊臣政権の中枢で活躍するようになって、秀吉の晩年には五奉行の一人にまで抜擢された。一方で、発狂した豊臣秀次に斬り殺されそうになったり、秀吉と秀次の仲介に四苦八苦するなど、貧乏くじを引かされる事も多かった。

三成、長束正家らと共に、太閤検地の推進、実施に多大に寄与した事でも有名である。太閤検地といえば地租改正農地改革に匹敵する、日本の土地制度史における変革だが、それに寄与したというだけで、関ヶ原で大活躍したのかどうか分からない島左近なんかよりよほど偉人であると言えるだろう。

関ヶ原[編集]

関ヶ原の合戦では表向き石田三成方の西軍に与したが、一方で、合戦前、浅野長政らが家康暗殺計画を練っていることを家康に密告したり、三成の出陣の要請を聞き流し大阪城から動かず三成の動きを逐一家康に報告するなど、二心あるような動向を見せた。このため、三成好きのお局様方からは裏切者として糾弾されている。が、長盛が家康と密通していたというのは、戦後家康が長盛を体よく処分するためにでっち上げた虚構である。実際は三成や宇喜多秀家ら同調する一部の武将達が独断で勝手に兵を動かしていただけで、長盛は全く関知せず大阪城で淀殿の肩を揉まされていた。が、戦後家康によって、三成を裏切り敵に情報を漏洩させた、関ヶ原の合戦のA級戦犯であるという罪を強引にでっち上げられ領土を召し上げられ、幽閉された。

最期[編集]

長盛の最期については、大坂の陣で息子増田盛次が豊臣方に与したため、それに連座して自害を命じられたというのが通説だが、これは虚構である。実際の長盛はもっと凄絶な最期を遂げている。その顛末は以下の通りである。

大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康は上機嫌で江戸へ凱旋した。江戸城城門にまで差し掛かったところ、武蔵国に逼塞させられていた長盛がおもむろに現れ、両脇に爆薬を抱えて家康に吶喊、自爆テロを敢行して散華した。家康の両脇を固める旗本達が長盛の異様な姿を怪訝に思ったほんの一瞬のことであった。この自爆テロで家康は重傷を負い、この時負った傷が原因で一年後身罷った。実は長盛の自爆で家康は即死しており、狼狽した家臣達は家康のソックリさんである世良田次郎三郎を影武者に仕立てることで家康の頓死を隠蔽したと伝える書物もある。島左近真田幸村は「(複数いるのに)家康を最も恐れさせた男」として名を馳せたが、殊勲で言えば家康を単に恐れさせた左近や幸村より家康に止めを刺した長盛の方が遥かに上である。

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