増上寺
増上寺(ぞうじょうじ)とは、電波を使って仏の教えを広める寺院。
歴史[編集]
かつて宗叡という人が紀尾井町に開いたが、江戸幕府創始者徳川家康公が散歩の時、たまたま通りがかった時に寺の寺院のデザインを気に入り、徳川氏の菩提寺に決められてしまい、そのころあった日比谷から芝へ移転させた。徳川秀忠を始め、6人の将軍が葬られていた。しかし徳川家代々の墓が太平洋戦争で米軍が適当に落とした焼夷弾によって破壊されるなどして大打撃を受けた。そのことについて徳川家の人達は未来永劫アメリカを祟るに決めたという。(現在のアメリカの地位低下は、それが原因らしいが実際はお察し下さい。)戦後国家神道のついでに仏教は壊滅的な打撃を受けた。このままでは、日本の仏教は潰れてしまう。そんな中、その墓地に東京タワーの建設計画が出された。 僧侶は、ただ一つの条件でそれを了承した。それは、東京タワーからお経を入れた電波を流すことであった。 初めはそれを了承したタワー側であったが、次第に難色を示しだす。すると建設に従事していた鳶職の人が仏の罰にあたり死んだため、タワー側も引くに引けなくなり、結局建設した。また、特別展望台の上の部分は、徳川家の呪いにより壊された米軍の戦車を利用している。そして増上寺は世界初の「電波布教寺院」となって今に至る。
宗名論争[編集]
「増上寺」は、「増えてつけ上がる寺」と書く。江戸時代に西本願寺と東本願寺が「一向宗」を「浄土真宗」へ改名するよう意見書を出した。これに徳川家の菩薩寺でありつけ上がっていた増上寺は「わが寺を差し置いて真宗を名乗るとは何事だ」ブチ切れ、すったもんだの挙句(墓石よりも硬い百科事典も参照)寛永寺によってこの問題は後回しにされた。その後増上寺は一向宗に対するさまざまな嫌がらせを加えて行ったと言われている。明治時代にこの問題は解決したと言われているが実際には禁則事項とされている。
徳川家霊廟[編集]
上記の通り、家康が本寺を徳川氏の菩提寺に決めた為、以下の方々が葬られた。
- 徳川秀忠:2代将軍
- 徳川家宣:6代将軍
- 徳川家継:7代将軍
- 徳川家重:9代将軍
- 徳川家慶:12代将軍
- 徳川家茂:14代将軍
- 崇源院
- 桂昌院:徳川綱吉の母
- 徳川綱重:家宣の父
- 月光院:家継の母
- 広大院:徳川家斉の正室
- 契真院:家斉の側室
- 見光院:家慶の側室
- 殊妙院:家慶の側室
- 天親院:徳川家定の初代正室
- 和宮:家茂の正室
その他、将軍家の子女35名が眠っている