塙直之

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塙直之(ばん なおゆき、1567年(永禄10年) - 1615年5月26日(元和元年4月29日))は、戦国時代江戸時代初期の武士であり、時代的に辛うじて戦国武将かもしれない人。

通称、塙団右エ門(ばん だんえもん)。

雑兵から出世まで[編集]

最初、流転しながら織田信長など各大名、武将の足軽として仕えたらしい。大男で大人しい人物であったというが、極度に酒癖が悪かったらしく、上司の心証を害して出世できなかった。戦国ハローワークで、羽柴秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍の一人として知られる加藤嘉明に漸く仕官できた。しかしやっぱり身分は足軽同然であり、待遇が高かったというワケではない。朝鮮出兵のときに巨漢である団右エ門が旗指物を指し立つ姿が明、朝鮮、日本兵の間で話題となり色々あったらしく皮肉な出世をする。それでも関ヶ原合戦時には鉄砲足軽大将(藩ならば家老)になったんだから凄い出世である。能力はそれなりにあったということらしい。

無念のリストラ[編集]

関ヶ原の戦いの時に軍令違反があったということで加藤家からリストラされてしまう。なんでも男のロマンの先駆けを行ってしまい部下の鉄砲足軽たちを置いて一人槍を持って馬で突撃した為という。主君の嘉明は沈勇の士と云われる理知的な人物でありこのような組織的な行動や掟を破ることが大嫌いだったからリストラ対象になった。主君が勇猛果敢を推奨する福島正則だったらもっと出世したかもしれない。

その後、嘉明が出した奉公構という「アイツは悪さをしたから雇わないで」というヤーさんの破門状と同じシステムの所為で浪人生活が続く。この頃は「鉄牛」と名乗り、剃髪して乞食坊主などをしていた。

大坂城へ[編集]

大坂の陣が発生した際は他大名家から誘いもあったらしいが、団右エ門は『魁!男塾』のような人物だったので、漢のロマンを求めて大坂城に入城する。後藤又兵衛真田信繁真田幸村)らと同じ武将としての待遇であった。(宮本武蔵は雑兵)この時、既に実戦経験がある武士が少なくなっており朝鮮出兵、関ケ原での経験がある武将、団右エ門は貴重だったのだろう。 大坂冬の陣では蜂須賀勢に見事な夜襲作戦を成功させ、後に赤穂浪士のテロリズム戦術の見本になった。

その驚くべき最後[編集]

が、しかし大坂夏の陣では、講和によって大坂城の堀が全て埋め立てられてしまった。大坂方は野外決戦を行うこととなる。この時点で少なくとも大坂城を鉄壁の護りとして長期戦を行い、外様諸大名の離反を促す戦略的な勝利は失われてしまっており、それを察知したのか、道明寺での戦いの前哨戦ではこれが団右エ門の魁魂に火をつけてしまったらしく、先駆け中の先駆けで魁てしまい、なんと自分の軍勢のほとんどをおいて敵軍浅野勢の真っ只中に登場してしまう。 ここで槍を振るって獅子奮迅にリアル戦国無双を開始。迫る雑兵を突いては捨て、斬っては捨ての大活躍をして大暴れをする。

戦国時代百年の歴史でも一軍の将がここまでやるのは珍しい部類である。そして『魁!男塾』のキャラクターのように壮絶に死亡。でも富樫じゃないから生き返らなかった。これは残念である。


その後の一般的な評価と現代の扱い[編集]

この戦いが語り草になり、江戸期の講談では豪傑として扱われている。キャラクターイメージとしては『三国志演義』の張飛に似ているが…如何せん戦国後期の人物であり、現代ではマイナーである。更に、最後は真田勢のような組織的な活躍でなく、個人で大人数を相手に好き勝手に大暴れをして勝手に散ってしまった為、コーエーのシュミレーション作品では戦闘能力そこそこ、“知性は低い。”という気の毒な扱いである。

現実的?な考察[編集]

彼の姿を描いた絵巻なども、殆ど現存していないようだ。

大坂の陣で夜襲を成功させるなど、武将として有能な部分は前述した通りに持っており、また、合理主義の加藤家で図体がでかいだけで出世するのは無理であろうから、少なくとも戦国武将としては並み以上の才覚はあったと考えるべきである。また本人は漢詩を趣味とするなど教養の点でもそれなりのものがある。

既に堀を埋められ大規模城郭という戦略的に頼るべき近代要塞を無くした大坂夏の陣は、家康脳卒中のようなよほどの幸運が無い限り勝算がない戦闘であった為に、誰よりもいち早く武士として派手に散ってやろうとしたのではないか?と思われる気質の武将である。現在でも団右エ門を誰が討ち取ったのか、あまりの激闘混戦だったので不明である。

色々あったのだろうが…でもまあ扱いづらい人間だったのは間違いない。

関連項目[編集]

参考書籍など[編集]

Wikipedia
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