堀尾吉晴

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堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は戦国時代の武将。通称は茂助。

人物[編集]

吉晴はとても温厚な人物であり、仏のように柔和な人物であることから「仏の茂助」と呼ばれていた。茂助の「仏」とも称されるエピソードが、各々の文献に残っている。

仏ぶりを伝えるエピソード[編集]

例えば1590年の小田原攻めの際、古くから親交のあった中村一氏に、吉晴は陣を敷いていた絶好の場所を奪われ、吉晴から陣地を強奪した一氏はその恩恵も合わさって抜群の武功を挙げた。吉晴は激怒し、抜刀して一氏に斬りかかり刺し違えようとまでしたという。

また1600年の関ヶ原の合戦に従軍した折には、関ヶ原への進軍中に、水野忠重の手配した宿で一晩過ごした折、美濃国の武将、加賀井重望と忠重と吉晴との三人の間で、酒が入って泥酔していたこともあって口論となり、激昂して斬り合いとなり、重望が忠重を斬殺し、吉晴が更に重望を斬り殺した。このため追及を受けることとなったが、吉晴は「実は重望は石田三成のスパイだった」と上手い弁明をして事無き得ている。

…仏どころか狂犬ぶりを遺憾なく発揮している。

だがこの二つのエピソードは、吉晴が我慢の限界に達してキレてしまったがゆえに取ってしまった矯激な行動と解釈されており、普段は相当に無礼な扱いを受けようとも従容と受け入れる寛容さと忍耐を持った人間であったという。要するに、「温厚な奴ほどキレると怖い」「仏の顔も三度まで」という、よくありがちなキャラクターだったのだ。吉晴をキレさせた中村一氏や加賀井重望は、相当大した奴と言えよう。

息子と山内一豊とのエピソード[編集]

中村一氏に手柄を横取りされ激怒した話は前述したが、吉晴は山内一豊にも手柄を横取りされている。厳密に言えば一豊に手柄を横取りされたのは吉晴本人ではなく息子の堀尾忠氏である。

忠氏は関ヶ原の合戦において、自らの城を提供して家康に利用して貰おうという妙案を思いついていた。そして、この妙案について山内一豊に相談した。これが仇となった。

一豊は後日評定の場で、このアイデアを盗用して自分の妙案であるかのように振舞い、居城掛川城を家康に提供することを提言した。この「功績」が要因となって一豊は戦後土佐一国を与えられる大出世を果たした。本来であれば自分がその多大な「功績」を得ていたであろう忠氏はさぞや激怒したかと思い気や「仕方ないね」と諦観していたようだ。大衆はこの忠氏の諦めの良さを「流石は仏の茂助の子」と礼賛したらしいが、その仏の茂助本人がこの場に居たら、小田原合戦での中村一氏との一触即発のやりとりを考慮すると、もしかすると流血沙汰になっていたかもしれない。

また、もし一豊がアイデアを盗用せず、忠氏が城を提供すると提言していた場合、一豊ではなく、堀尾吉晴が土佐一国を拝領していた可能性もある。その場合どうなったか。一豊は絶望的に存在感がないが吉晴同様温厚な気質の人物とされている。だが土佐に入国したあと、かつて土佐を治めていた長宗我部氏の旧家臣の激しい抵抗に会い、彼らに対して徹底した虐殺、弾圧を行った。その結果、高知県、ひいては四国一帯で暴君として今でも評判が悪い傾向にある。

もし吉晴が土佐に入国していても、同じように虐殺、弾圧を行っただろうと歴史家達の見解は一致している。その結果、虐殺を行った暴虐な人物という印象が生まれ、それまでの「仏の茂助」のイメージは払拭されてしまったに違いない。つまり、一豊がアイデアを盗んだ事で、吉晴は出世の面においては出し抜かれたが、「仏の茂助」という良いイメージを維持することには成功したのである。

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