地蔵菩薩

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地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、ただの石の彫刻。

概要[編集]

「お地蔵さん」などとも呼ばれ、山などに行くと決まってどこかにはあるもの、それが地蔵である。農村などではおばあちゃんがわざわざ地蔵のあるところまで行き、毎日手入れをしている様子も見られる。

Quote1.png とう利天に在って釈迦仏の付属を受け、毎朝禅定に入りて衆生の機根(性格や教えを聞ける器)を感じ、釈迦入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。 Quote2.png

固い方にもあるように、日本では神様のように扱われており、地蔵盆という祭りもあるなど日々の生活に深く根付く。地蔵に対し頭を下げたり、手を合わせたり、ミカンやお菓子を置いたり、ご供養したりと、様々な方法で地蔵は敬れており、「和」の象徴ともされている。

真実[編集]

が、ここ、アンサイクロペディアでは真実を記すこととする。以上の事は真っ赤な嘘である。まず考えて欲しい。地蔵は何か。一文字で言うと「」である。二文字で言うと「石像」である。この石像はその昔、どこかの誰かと言う人間が作ったわけであり、決して拝む必要性など無い。人が神を作れるのなら、それは人が神となってしまう。しかし、良く承知しているように人は神ではない。神にはなれない存在なのである。となると、やはり地蔵は拝むべき対象ではなくなる。なぜなら、ただの石だから。あなたは学校の校門前にある校長先生の石像に毎日手を合わせているだろうか。おそらく否だろう。そう考えると、現在日本人が行っていることはどう考えてもバカである。ではこう考える。「地蔵は神ではないが、神が地蔵に宿っている。」宿らない。本当の神であるなら、人間が作ったちっぽけなものに入る筈はなく、そんな場所にじっとしているはずもない。だから、地蔵を見て頭を下げることも、手を合わせることも、ミカンを置くことも、供養することも全て無に等しいわけである。ようするに無駄である。

だから[編集]

この記事を読んだあなたはもう地蔵など拝む対象としては何の価値も無いと言うことを理解しただろう。今後あなたは山に並んだ地蔵を見たとき、まず「素晴らしい石の彫刻だ。相当の腕の持ち主がこれを彫ったのだろう」と彫刻家を褒めるべきである。また、誰かが供えたお菓子などはサルなどの他の動物に食べられる前に食べるのが上策である。なぜなら、地蔵は食べないから。この真実を知れたあなたはまた一つ大人になれた筈である。

バチ当たり?[編集]

ハハ、そんなことは知ったこっちゃない。菩薩さんは六道にはいても国際情報網道にはいないからね。

関連項目[編集]

Wikipedia
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