土井利勝

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土井 利勝(どい としかつ)とは、江戸時代初期の武士であり政治家。酒井忠世と共に、始めて大老になった人物である。江戸幕府の初期の政治に大いに尽力したが、何よりの功績は、人々に「ヒゲを剃る」という慣習を浸透させたことだろう。

家康の落胤説[編集]

利勝は徳川家康と瓜二つの顔立ちをしていたという。飛ぶ鳥を落とす勢いで出世したことも合わさって、回りの連中からは家康の落胤だろうと噂された。どれぐらいそっくりだったのか、家康と利勝の真顔を見れない後世の人間には厳密な検証は不可能だが、大河ドラマ「葵徳川三代」で家康を演じたのが津川雅彦、利勝を演じたのが林隆三であることを鑑みて、津川雅彦と林隆三ぐらいのそっくり具合だったと見積もっていいだろう。要するに全然似ていないということである。おそらく、家康と利勝をそっくりさんと断定していた人々は、利勝を家康の落胤と決め付けたいという意思が先行していて、それが視覚にも反映され、家康と利勝がそっくりに見えたのかもしれない。同僚達にとって見れば、利勝の出世はねたましいものであった。彼らは、利勝は家康の落胤で、その恩恵に浴して出世したと決めつけ、こき下ろすことで矮小な優越感に浸ろうとしたのだ。

人物[編集]

徳川秀忠が赤ん坊の頃から側近として近侍し、色々身の回りの世話をしていた。その為秀忠とは水魚の交わりとも言えるほど意思疎通が出来、秀忠が将軍になってからはそのブレーンとして辣腕を振るった。秀忠が将軍に在任していた頃は絶大な権勢を誇り、利勝に斡旋して貰えばなんでも解決すると言われ、大名達はこぞって貢物を利勝に献上した。

料理が上手であり、若い頃から秀忠の飯炊きを担当していた。歳を取って栄達した後も、旗本の為に炊き出しを行うことがあった。官途の大炊頭は、そういった利勝の経歴に由来している。武功派の連中からは「飯炊きの土井」と揶揄されていたが、まさか十数年後、その飯炊きに追い抜かれるとは、武功派の家臣達も思っていなかっただろう。

利勝はとても頭の切れる人物で、大層機転が利いた。伊達政宗のようなDQNの応対も適切にこなし、政宗も利勝の機敏さを高く評価したらしい。普通、頭の切れる権力者は敵を大勢作り易いのだが、利勝は本多正純松平信綱柳沢吉保などと比べると、あまり敵を作らなかった。少なくとも、表立って露骨に反感を買うことはなかった。利勝の優れた人徳と、人心掌握術の賜物である。利勝に厭味を言ったり罵詈雑言を吐いたりしていた同僚が、何時の間にか利勝に懐柔されてしまったなんてのもよくある話であった。

徳川家光が将軍となった後も、利勝は引き続き幕政に参画していたが、家光は次第に利勝を目の上のタンコブとして煙たがるようになる。秀忠は剛直な青山忠俊、厳粛な酒井忠世、そして鋭敏な利勝の三人を、それぞれ目付け役兼家庭教師として家光に付属させ、薫陶を施すと共に、家光が親父の方針を踏襲せず勝手に振る舞わないよう掣肘させた。成長するにつれ「親父の手先」である三人を疎ましく思った家光は、色々と難癖をつけて忠俊と忠世を逼塞に追い込んだ。そして手練手管を用いて利勝をも失脚させようとしたのだが、利勝にはのらりくらりと交され、ついに失脚させることは出来ず、しまいには松平信綱と一緒になって「お願いですから隠遁してください」と請願することでようやく政界から退かせることに成功した。

髭剃りの逸話[編集]

前述の通り、利勝は幕府の「顔」として内外に強い影響力を持った人物で、利勝に斡旋して貰えばなんでもできると言われるほどであった。また、利勝の行動を模倣すれば自分も利勝のようにスムーズに出世できるという迷信が生まれ、旗本や若年寄、果ては一部の外様大名までもが利勝の真似をするようになった。

ある時、利勝は髭をそり落とした。利勝には家康と容貌が似ている事から落胤説があった。利勝自身、これを気にしていたらしく、なるべく家康と似ていると言われないような顔つきにしようと試行錯誤を繰り返した末に考え付いたのが、髭をそり落とすという方法であった。当時、武士の間には髭をそり落とすという習慣は全くなく、髭は男の勲章としてむしろ伸ばすことが奨励されていた。ところが、利勝の行動を模倣すれば出世できるという迷信が浸透していたせいか、利勝が髭を剃ると多くの人がそれを模倣して髭を剃ってしまい、ここから髭を剃るという習慣が生まれたという。もしこの一件がなければ、髭を剃るという習慣は生まれず、日本人は髭を伸ばし放題になっていたことを考慮すれば、その功績は極めて大きいと言える。