園部秀雄

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園部秀雄(そのべ ひでお、1870年1963年)とは、近代史に名を残す大武道家である。

目次

[編集] 生まれから武道家になるまで

1870年、園部秀雄は宮城県大崎市の旧仙台藩士日下家に生まれている。幼名はたりた。この珍妙な名前は、子沢山だった親がもう子供はたりた、という意味で名づけられた。祖母は、剣豪でありなおかつ思想家でもあった林子平の姪であったといわれる。幼少の頃より貧乏だったたりたは、13歳のときに宮城県は古川の温泉に奉公に出ている。そして、17歳のときに東京から古川へ興行に来た撃剣興行「佐竹鑑流斎一座」に魅せられたことが、たりた、後の秀雄の人生を大きく変えることになる。

なお、撃剣興行とは明治維新によって職を失った武士の中で腕に覚えのある連中が集まり、様々な形や模擬試合などを中心に行っていた見世物である。

しかし、すでに明治中期を迎えるにあたり、すでに撃剣興行は見世物としての魅力を失っていた時期であった。だからこそ、江戸の剣士たちが東北の温泉にまで出かけていくことになったわけで、なおかつ、そのおかげで一人の大武道家が誕生するわけなのだから、歴史ってのは皮肉だ

[編集] 武道家として

当時17歳だったたりたは一目で撃剣興行に魅せられ、即座に弟子入りする。そのために、血判まで用意したというから念が入っている。もちろん、親は大反対。しかし、姉の必死の説得によって辛くも弟子入りを認められている。ちなみに、その撃剣興行を率いていたのは佐竹義文、佐竹茂雄の両名で、彼らは江戸剣術の名門、直心影流の達人であり、佐竹義文にいたっては直心柳影流という一派を立ち上げるほどであった。

その年の4月、たりたは佐竹義文、茂雄の門下に入ることの許され、名前も新たに日下秀雄となる。落ちぶれていた撃剣興行の中身は旅から旅のその日ぐらしであり、まともな修行よりも炊事洗濯の時間のほうが長かったと、後年語っている。しかし、そんな暮らしの中で、秀雄は朝500本、夜500本の一人稽古を日課としている。そんな秀雄だったが、天武の才に恵まれていたと見え、入門から半年後に撃剣興行の舞台に立つことを許されている。

もっとも、いわゆる客よせという意味合いが強かったが。

しかし、そのような苦境の中、秀雄はわずか3年で印可を許される。これは、その流派において一人前になったことを意味する。そして、その実力が本物であると見た佐竹義文は、撃剣興行の新たなる目玉として、秀雄を巡業先の猛者たちと戦わせることを思いつく。つまり、秀雄を倒したものに豪華商品を贈呈というやつである。まぁ、それで負けなかったからこそその名が鳴り響いていくわけだが。

このような実戦形式の戦いを間近で見せる興行が盛り上がらないわけはなく、若干20歳をすぎたばかりの秀雄と各地の猛者たちの戦いはそれまでさびれていた撃剣興行を再び隆盛へと導くのである。もっとも、全戦全勝というわけではなかった。一度、契り木と呼ばれる特殊武器に敗れている。

百数回戦った中でその1回だけだったが。

なお、秀雄は22歳で同じ一座の人間と結婚している。そして、北海道を巡業中に女の子を授かった後、いったん一座を離れ、青森県で親子仲睦まじく生活しようとするも、その直後に伴侶を天然痘で失うという悲劇に見舞われている。そのため、再び佐竹鑑柳斎一座にわが子とともに戻った秀雄だったが、結局、幼子を抱えながら巡業を続けていくことができずに、わが子を千葉県の旅館に養女に出している。ただし、その後も交流は続けていたと見え、後年、おぎんと呼ばれた娘は秀雄が東京に建設した道場に幾たびか顔を出している。

[編集] 佐竹鑑流斎一座の解散

その後、撃剣興行に時代の波が襲い掛かる。1894年に始まった日清戦争の影響により、日本各地で武道が盛んになると、撃剣興行で行われていた、いわゆる魅せるための武道ではなく、本物の戦争で使われる武道が求められるようになっていく。また、興行を率いていた佐竹義文、佐竹茂雄の両名も年老いており、一人、秀雄の武名が高かったとしても、もはやどうにもならない時期に来ていた。そして、ついに撃剣興行としての「佐竹鑑流斎一座」は解散することになる。しかし、佐竹重文は秀雄のその力を認め、秀雄に直心影流宗家の座を譲ることを決断する。1896年5月、日下秀雄に直心影流の第15代宗家が与えられる。ただし、この時点ではさびれた撃剣興行の中で行われた小さな襲名でしかない。

一座の解散後、東京で師である佐竹義文、茂雄と暮らしていた秀雄に、佐竹義文の旧友、井上猶心斎の弟子で神戸で光武館という大道場を開いていた園部家から再婚の申し出が来る。ちなみに、井上猶心斎は独自に直猶心流(じきゆうしんりゅう)という一派を開いており、その結果、光武館では直心影流と直猶心流の二つが指導されることになり、現在でも両派の中に併伝という形で伝わる技術が存在する。

そして、晴れて園部家の一員となった日下秀雄改め園部秀雄は、昼は姫路師範学校で武道の教鞭をとり、夜は道場で稽古をつけるという、それまでの撃剣興行とはまるで違った生活を送ることになる。なお、秀雄も大道場の運営には四苦八苦したと見え、借金取りには手も足も出なかったという逸話も残されている。

秀雄を再婚させた翌1900年、師である佐竹義文がその漂白の人生を終えている。現在、佐竹義文、佐竹茂雄両名の墓は、東京都杉並区にある秀雄の墓の隣にある。

[編集] 最盛期

しかし、そんな秀雄に大きな転機が訪れる。それは1895年に、日本の武道の振興、教育、顕彰を目的とした団体「大日本武徳会」が成立したことによる。この団体は、明治維新後、各地に林立された武道関係組織を統一する目的で設立されたものである。そして、1899年には京都府平安神宮に武徳殿と呼ばれる巨大武道場を建立、それ以降、武徳殿は日本における全ての武道の聖地となる。

その武徳殿の建立記念として行われた演舞大会に撃剣興行の猛者として知られた秀雄が出場することになったのである。なお、このときは秀雄は30歳、武道家としてまさに乗りに乗っている時期である。

当初、試合の予定はなかった秀雄だったが、列席された小松宮彰仁親王の意向によって急遽、武徳会員であった剣士、渡辺昇子爵との試合が組まれる。なお、渡辺は幕末の混乱の中で幾人もの人間を実際に斬ったほどの猛者である。しかし、武道家として円熟期を迎えた秀雄と初老を迎えた子爵との差はいかんともしがたく、試合は秀雄の圧勝に終わる。このことによって、秀雄の名はますます高まることとなり、その後、渡辺子爵の仇を取ろうと挑戦してくる剣士たちを総なめにし、最終的に明治大正昭和の名だたる剣豪をことごとく倒したといわれている。

しかし、1901年、渡辺の弟子であり、秘蔵っ子と呼ばれた若干19歳の剣士、堀田捨次郎が唯一、秀雄を破ったとされている。その際、本来拍手厳禁であったはずの武徳殿において拍手が鳴り止まなかったといわれている。ただし秀雄88歳のときに読売新聞から受けたインタビューに対し「あたくしが堀田さんに負けたとあるのは間違いです。あれは試合じゃありません。あたくしが一度でも手合わせに負けていたら、この年まで生きているものですか。」と答えていることから、堀田捨次郎との勝負は日本を代表する流派のエリートたちが、撃剣興行出身でしかもまったくマイナーだった流派の使い手に圧倒され続けた悪夢を終わらせるため、引き分け相当だった勝負を拍手で覆した可能性も存在する。無論、それは適当な話であるけれど。

なお、秀雄の生涯における敗北は、前述した契り木によるものと、この堀田戦のわずか2つである。

[編集] 直心影流の発展

1918年5月、50歳を間近に控えた秀雄に大きな転機が訪れる。それは、新たに東京都は神田に落成された学校を記念して行われた剣道大会に秀雄が出場したことを縁として、直心影流を学校で教えるという幸運がめぐってきたことによる。その結果、15代佐藤義文の下で廃れかけた直心影流は現在、日本中に多数の門下生を持ち、海外でも道場を構えるという日本有数の流派となるのである。また、1926年にはそれまでの功績と武名を称える意味で、秀雄は第日本武徳会の範士(武道における称号の最高位)に任命される。これはつまり、貧乏士族の生まれで温泉の奉公人で、なおかつ、さびれた撃剣興行の一員だった人間が、自分の腕一本で日本最高とも言える地位にのし上がったということである。めちゃくちゃな話である

[編集] 最後の雄姿

1955年8月、栃木県は日光東照宮で行われた第5回日光剣道大会において、直心影流第15代宗家である秀雄は85歳にして演武を行っている。なお、すでに老齢だったため、演武には直心影流第16代を引き継いだ娘婿の繁八と娘の朝野も合わせて参加している(併せて、直心影流17代目は、秀雄が撃剣興行に入れるよう、両親を説得してくれた姉の孫である)。この日光剣道大会とは、第二次大戦後、一時禁止の憂き目にあった剣道を復活させることに大きく関わった大会である。そのような国威がかかった大会に招かれるほど秀雄の実力と武名は抜きん出たものがあった。

[編集] その死

秀雄は当時の平均寿命からすると相当な長命であったため、生前の秀雄を映したフィルムが多数現存している。また、90歳をすぎても演武に参加するなど、超一級の武道家の名に恥じない話も多く伝わっている。最終的に、直心影流に入門して76年、宗家の名を引き継いで67年もの長きにわたって直心影流を支え、発展させた秀雄は、1963年9月29日、93歳で永眠している。その後、出身地である宮城県大崎市には、秀雄の英明を顕彰する石碑が建立され、現在も地元出身の一代の英傑を偲ぶ多くの人々が訪れている。

[編集] ちなみに

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園部秀雄はである。

[編集] 関連項目


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