喜納昌吉

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喜納昌吉(しょうきなキチ 1948年6月10日~)は、沖縄県を代表する音楽家であり、沖縄県を代表する民主党所属の政治家であり、2010年8月現在、沖縄県を代表する非国民である。

この記事について[編集]

この記事の制作開始は2010年8月であり、その時点の段階では、下記に記述するようなネタが成立する。しかし、その後、何かどんでん返しが発生したとしても当方ではいい加減手に負えやしないことをここに証明する。

あわせて、調べれば調べるほど頭が痛くなってくることもここに証明する。

人物[編集]

幼少時[編集]

喜納昌吉(以後、昌吉)は1948年6月に沖縄県コザ市(現、沖縄市)に生まれている。コザ市は米軍キャンプが置かれたことで有名な場所であり、現在でも沖縄市の北西部に多くの米軍基地が集中している。昌吉が生まれた当時は、それこそ、米軍による土地収用がごく当たり前だった時期であり、日本の敗戦と同時に先祖代々耕していた畑を持ってかれた連中の怨嗟の声が延々と渦巻いていた。そんな土地とそんな時代に昌吉は生を受けている。

昌吉の父は沖縄民謡の第一人者・喜納昌永(1920年~2009年)。母はその妻、千代。当時、北谷村にあった捕虜収容所でも空き缶に玄を貼り付けて三線(サンシン)にして歌ったとされる、沖縄民謡界の伝説の人である。その四男として昌吉は生まれている。彼が誕生した頃の沖縄は地獄沖縄戦の痕が生々しく残っており、米軍による統治はともかく戦争はもういやだと、誰しもが感じていた時代だった。なお、昌吉の兄弟について、弟や妹は確認することができるが、どうも上3人については、つまるところそういうことだったんじゃないか、としか思えない状況にある。

まぁ、"地獄の"沖縄戦だしね。

昌吉の少年時代は、それこそ沖縄民謡の達人たちが綺羅星のごとくに登場していた時代である。なんせ、それ以外に職がなかった・・・とは言わないが、民謡歌手という存在が副業として最高な状況ではあった。とりあえず、ただでさえ少ないちゃんとした職業がどれぐらい金にならないかは推して知るべし。そのため、父の昌永の周りには、後に沖縄民謡を本土に伝える嘉手苅林昌、その後、琉球民謡協会の会長を3期務めることになる前川朝昭、沖縄のインディーズレーベル「マルフクレコード」の社長普久原恒勇といった、その後の沖縄の音楽文化を支えることになるビッグネームがずらりと並び、そんな沖縄民謡のエキスたっぷりの環境の中で、昌吉もまた音楽的才能を育んでいく。

当時の時代背景[編集]

昌吉の少年時代、米軍統治下の沖縄で特筆しなければならないこととして、主に米軍による犯罪に対して様々な魔法が繰り返される環境にあったことが挙げられる。信号無視で小学生を事故死させても無罪酔っ払い運転で人をはねても無罪、その他もろもろの小さな犯罪については、もはや取り締まる気すらないといった支配下の空気が徐々に明白になっていった時期である。最終的に20年以上にわたって蔓延したこの空気は、沖縄が返還された後も色濃く残ることになり、最終的に強烈な平和運動という形で沖縄の政治と歴史をひっちゃかめっちゃかにしていくことになる。

そして、1972年の沖縄返還直前には1年につきおよそ4,000件もの米軍兵士による事件や交通事故が発生していたが、重罪になるようなことはほとんどなく、返還された後も、重大な犯罪を犯した米兵が本国に逃走してそのまんまという話が続出。1995年に沖縄米兵少女暴行事件で反米の空気が一気に顕在化して日米両政府を慌てさせるまで、ほとんどこの話はスルーされていく。その結果、沖縄県民の精神状況がどうなっていくかを鑑みずに。

そんな楽しい空気がかもし出される環境下で少年時代をすごした昌吉は、1967年に沖縄国際大学(当時、国際大学)に進学。残念ながらというか仕方がないというか、まともな学生生活は送っていない。もっとも、当時の世界は大学運動やら反戦運動やらがやたらと盛んとなっていた時代、まともな学生がまともでいることに苦労した時代である。そのため、ヘルメットかぶってゲバ棒持って機動隊とドガチャガやりあおうが、大学の授業をボイコットして仲間連中とワケガワカラン社会主義だの共産主義だのといった皮をかぶったカルト宗教レベルのトンデモ政治活動に精を出そうが、なんら問題はない、とされた時代である。実際、米軍統治下の沖縄県でも過激な連中が色々と悪さを行っており、琉球大学の学生が沖縄を統治する役所に突入、星条旗を引き摺り下ろしたり、学校の先生たちが実力行使で沖縄の立法院を占拠。自分たちに不利な法律の執行を実力で阻止したりと、大変に楽しい事件事故が起こりまくっている。

そして、後の昌吉の運命を決める事件も1972年に発生している。

もっとも、そんな空気とは関係なく、昌吉は音楽漬けの大学生活を送っている。友人や兄弟達との間でバンドを組み、沖縄独特のメロディと、ウチナーグチが特徴的なポップスを独自に編み出し、ロックやらサイケなど、世界的に新しい音楽が生まれていった時代に対象を沖縄県民だけにしぼった新しい音楽という、実にローカル色に富んだ戦術で人気を博すことになる。実際、彼が大学在学中の1968年に結成された「喜納昌吉&チャンプルーズ」は、彼と仲間が経営する民謡酒場をベースに活動、自ら毎日でも歌える場所を確保し、同じ大学生たちを固定客につけた上、県民性ともあいまって大もうけすることになる。そして、それ以上にこの成功は彼の才能を周知させ、彼を頭にして周りが動いていく構図が出来上がることになる。

まぁ、このことが4年後の転落に直結するわけだけれど。もっとも、当時は第一人者の息子が本格的に歌手活動を始めた、もしくは期待の若手がなんか変なことをはじめたという状況でしかない。

なお、喜納昌吉&チャンプルーズのメンバーは、当初、大学の同級生たちと結成したが、その後、喜納昌永の子供5人で第二期メンバーが召集されている。その後、40年にわたる活動の中でメンバーが色々と入れ替わり、またサポートメンバーやゲストなども大勢呼び込んだ結果、現在は7人体制で活動している。そのうち、喜納昌永の子供は3人。

ちょっとした寓話[編集]

銀河英雄伝説に登場する架空の人物の中に、民主主義衆愚政治を代表する存在として、ヨブ・トリューニヒトというキャラクターが登場する。甘いマスクと洗練されたスタイル、巧みな弁舌で大国のトップにまでのし上がっていく人物であるが、これがまた、とことんまで甘言と陰謀にまみれた悪役という立場であり、最終的に国のトップでありながら国を裏切るという離れ業までかますことになる。

そんなキャラクターを説明する一シーンとして、彼の政治集会の場面が作中で描かれている。壇上に様々な不幸な境遇を乗り越えた子供達を迎えて、彼らがいかに自分の不幸を乗り越えていったかを感動的に語らせることで、なぜだかその子供達と一緒に壇上にいるだけのトリューニヒトまで素晴らしい人に見えてしまうという、政治的な集団催眠ともいうべき場面が描かれている。しかし、そんな感動的な政治集会ではあっても、トリューニヒト本人がどんな政治を行うのか、やってきたのかについては誰も分からない。けれど、彼ならばやってくれる、彼でなければならない、彼こそ全てという多くの民衆の間違った期待が彼を権力のトップへと押し上げていく。

結局、最後の最後で国を裏切る彼の本性が「エゴイズムの塊」であったと分かったときには、すでに国家も民主主義も崩壊。国民全員が夢みたいな間違った期待の代償を払わざるをえなくなる。

で、何を言いたいかというと、政治集会で歌を歌うのと、歌を歌って世界を変えることと、平和のために歌を歌うことは、突き詰めれば、本人が一番楽しいという話になるということである。もちろん、一人の力でここまで来ることはできない。前述のトリューニヒトも、影で様々な勢力と手を結び、彼らと様々な利益を相互に提供しあっている。

もちろん、それが国家の害悪となったとしてもまったく関係はない。

で、突き詰めれば、政治集会で歌うためにも、そこで歌うために必要なスタッフが必要になる。そこに人を動員してくれる後援者も必要にある。何よりも、そこで歌うことで誰かが利益を得るからこそ歌わせてもらうことができる。まぁ、何が言いたいかというと、政治集会で自分の不幸を語った子供達もまた、楽しかったに違いないということである。その傍らのトリューニヒトもまた、違う意味で楽しかったに違いない。

爆発[編集]

そんな昌吉の行く末を定める事件が1970年12月に勃発している。注意、人生を決める、ではない。それは、沖縄の歴史に燦然と輝く「コザ騒動」、別名、「コザ暴動」。その発端は、米軍兵士が起こした交通事故をきっかけに、少人数の集団がそれに抗議。時間がたつごとに徐々に大人数になっていき、ついにそれまでたまりにたまった不満が一気に爆発。米軍基地をおよそ5,000人の住民が襲撃。検問所から米人学校、米軍車両を次々に放火しつつより深くまで進入しようとするも催涙ガスで足止めを食らい、結局、朝が来たから解散

実に沖縄らしい。

その後、参加した住民10人が逮捕されるも証拠不十分で不起訴。当時の沖縄米軍基地は、それこそベトナム戦争真っ只中のフル稼働状態。しかし、本国はもとより、世界中から白眼視されていた中で行われた米軍基地襲撃という暴挙は、地元住民が率先して参加したという点において大きな意味合いがある。もっとも、こんな米軍反対のデモの過激化なんて話はこの時代は世界中どこでもありすぎというレベルであり、日本国内でも安保闘争や大学紛争といった「理想を持った若者Vs軍隊」という分かりやすすぎて泣きたくなる善対悪の図式に団塊の世代が熱狂、一時代を築いてはいたが。

で、そんな地元住民参加の騒動の只中に、当時22歳の昌吉がいたかどうか。それは誰にも分からない。が、およそ30年後に同じような経緯をたどって大集団の先頭にたっていたりもする。まぁ、先頭と呼ぶにはあれだけれど。

ちなみに、沖縄が日本に返還されることはその前年の1969年に日米間で決まっているため、この暴動がきっかけになって沖縄が返還されることになったなんて話はない。

鶏口[編集]

そんな楽しいコザ騒動だったが、それを引き起こした沖縄県民の怒りのマグマと時代の空気が、昌吉の人生に大きな影響を与えていたことは間違いない。実際、コザ騒動の少し前、昌吉は大学を中退している。単位のことについては特に語られていない。ちなみに、当時は学生運動も下火になっていた時代であるため、学生運動うんぬんで単位数がという話とは微妙に時期がずれている。それ以上に、副業として音楽活動した上、酒場を経営していてなにが学業だ。そのため、普通に単位が足りない状況だったか、もしくは自分の人生をバンド活動一本に定めたかのどちらかについての判断は、ある意味難しい。ある意味。ただし、この直後にやらかしてしまった人生の汚点から考えると、どう考えても前者である気がしてならない。

しかし、昌吉の中退は沖縄の音楽文化にとってはちょっとした事件に当たる。沖縄民謡の第一人者で、なおかつ60年代の大ヒットソング「通い船(かよいぶに)」を歌った喜納昌永の息子が本格的に歌手に転向したというのは、十分にニュースである。ただし、その音楽は空っぽの若者以外にはまず受け入れられない、なんとも形容しがたいものだったわけだけれども。

それは後にウチナーポップと呼ばれ、沖縄民謡ではなく、ロックでもない、明らかに沖縄独自の音楽スタイルとしか言いようのないものだった。ちなみに、その萌芽は思ったよりも以前から存在しており、「喜納昌吉&チャンプルーズ」初期の代表曲である「ハイサイおじさん」はなんと昌吉の高校時代に作詞作曲している。もっとも、世の中に浸透するのは随分と後の話になるけれど、2010年現在では、高校野球における沖縄県代表のテーマソングとも言うべき存在にまで上り詰める。

なお、ここで鶏口と書いたのは、当然、後で「牛後」と書くためである。

ヒッピー[編集]

そんな音楽と音楽、音楽にまみれた生活を送っていた昌吉だったが、ちゃんと時代の空気も読んでいたと見え、1972年にある意味通過儀礼のごとく麻薬で逮捕、起訴され、刑務所にぶち込まれている。とりあえず、友人から預かった荷物の中に隠されていたことになっている。誰が信じるか。Wikiの年表には琉球警察と書いてあるため、同年に行われた沖縄返還以前だったものと思われる。どう考えても人生の汚点。もっとも、当時のヒッピー文化隆盛時代において、麻薬にしろ奇抜なファッションにしろ反体制にしろなんにしろ、いわゆる流行の一端だったことは間違いなく、新進のバンドのリーダーなんて存在が染まらなかったら逆に奇跡。実際、ヒッピー文化を筆頭にフォークやロックなどのアメリカ文化が昌吉におよぼした影響は大きい。特に、作詞の点においては明確にそれをたどることができる。

そのため、彼の代表曲である「花〜すべての人の心に花を〜」(以下、「花」)で歌わていれる、自然回帰の考えが、そのまま沖縄の人々の精神だなんてたわけたことを抜かしてはいけない。フワラー・ムーブメントやら花はどこにいったやら、いくらでも元ネタがたどることができるため、単純に感動、単純に信じて沖縄の地域性うんぬんなどと語った段階で、売り手側の手の上で踊らされているだけの話である。

ただし、手のひらで躍らせるような情報を盛んに発信することもまた、売り手側の義務みたいなもんだけど。そのため、聞いたことのない音楽だの、感動的な歌詞だの、創造性豊かだの文化の担い手だのといったいらんオマケがなーもかんがえちょらん連中を大量に動員させ、現代の文化を創っていく。が、軋轢も生んでいく。

出所[編集]

結局、1973年に昌吉は刑務所を出所する。沖縄返還時はものの見事に鉄格子の中。まぁ、自業自得ともいえるし、芸能人としておいしい話ともいえる。しかし、この時点から始まる彼の「前科者」と呼ばれる楽しいオマケを消しさることに、いったいどれだけ彼が苦労するかについては、よく分からない。もっとも、代表曲である「花」が発表されたのが1980年。売れたのは7年後。しかもタイで。いかに、日本という国が前科者に優しいかを明確に示す話でもある。

先駆者[編集]

そんな前科者で日陰の道を歩まざるをえなくなった昌吉の前に一筋の光明が現れる。彼の親父、喜納昌永の友人にして変人、馬車引きとして暮らしていた沖縄民謡の第一人者嘉手苅林昌が、本土復帰の翌年に早くも東京に進出。アングラの聖地渋谷ジァン・ジァンや上野本牧亭で、日本人がそれまで見たことも聞いたこともない(実際はある)メロディとリズム、そして沖縄の言葉に満ち溢れた沖縄民謡を伝え始める。

その伝え始めた沖縄民謡というものが、実になんというかまぁ、とんでもないものだったこと、そして当時の音楽シーンというものもまたろくでもないものだったことが、その後の昌吉の人生を決めることになる。

というのも、1973年当時も2010年現在も、そしてこの先も含めて、沖縄民謡というものが一体何を歌っているのかを理解できる人間は、沖縄県人以外ほとんどいないという衝撃的な事実があり、その沖縄県人ですら古い民謡が何を歌っているかが分からないというんだからシャレにならない。しかし、その難解な言語と化していた沖縄民謡を、幼少時から聞いて育って翻訳できる能力を持っていた昌吉にとって、この状況は大変都合の良い話だった。このどでかい沖縄民謡の塊と現代を結ぶ橋渡しの役割を昌吉が担った結果、1976年に発売されたハイサイおじさんが沖縄でヒットした後、翌1977年の本土でのヒットが結びつくことになる。なお、歌詞と意味が分かる沖縄民謡の破壊力に人々が気づくのは、もう少し時代が下った1990年代の話になる。

なお、当時の日本というか世界も含めた多くの表現の現場において、若者が、大人たちを、すなわち過去の存在を否定することにやっきになりまくっていた時代である。音楽の現場においても、それまでの王道である演歌民謡歌謡曲、果ては最新の音楽であるはずのロックンロールまで若者の適当な感性という俎上で切り刻まれ、アホな定義づけや勝手な神格化などで無理やりに商業主義で汚染、骨の髄までしゃぶりとってから、勝手に飽きてポイしまくっていた時代である。そのため、何を歌っているのか意味が分からない、でも、しっかり調べればちゃあんと意味があるという沖縄民謡が、いかに当時の音楽シーンの俎上に乗せられない例外的な存在であったかは推して知るべし。なんせ、下手に触れると自分のバカさに気づかれる。それぐらい、歌詞カードのない沖縄民謡というジャンルは恐るべき存在だった。なお、同じ時代、同じ渋谷ジァン・ジァンにおいて、同じ理由で若者たちのまな板の上に乗せることができない巨大な存在として知られたのが、津軽三味線高橋竹山。嘉手苅林昌とともに、一般的な会話であっても、何をしゃべっているかよく分からない、けれど、その表現は破格な2人でした。後、ジァン・ジァンでは、同時期にブルースの女王淡谷のり子も歌っていました。とりあえず、意味を推し量ることすらできない連中に意味を投げ与えることで時代の先頭を走ろうと画策していた手抜きどもでは、相手になろうはずがない人々が、渋谷でひっそりと伝説を作っていました。

東京[編集]

ハイサイおじさんのヒットの後、東京沖縄発のわけがわからん歌を歌う連中として活動を始めた昌吉とその仲間たち(チャンプルーズ)はしかし、沖縄県人会といった強烈な固定客をつかみつつあったものの、とてもメジャーシーンへの登場というような雰囲気ではなかった。当時の日本はフォークブームが終了し、ちょうどニューミュージックと呼ばれる実力があるシンガーソングライターたちの全盛時代が訪れた時期であり、綺麗なメロディに美しい日本語を乗せて感動一辺倒で時代が形成されていた時代だった&日本語の美しい歌詞が大量に提供されまくった時代だった。2010年現在でも実力者として知られるさだまさし中島みゆき松山千春松任谷由美といった連中がブイブイ言わせまくっていた時代、とても日本語とは思えない沖縄民謡がいったいどうやって若者たちに訴えかければいいのやら。とりあえず、昌吉はハイサイおじさんで紹介した沖縄の方言丸出しの歌詞を控えて、本土の人間に分かる歌を作り始める。そのため、作詞という点で見れば長い長い下積みの時代を迎えたことを意味する。なんせ、日本語のリズムを歌詞に乗せる作業にどれだけ沖縄民謡で培った基礎が邪魔になるやら。そのため、1978年に着想を得た彼の代表曲「花」の歌詞が日本語としておかしいという点については、まぁ、仕方のない話である。

もっとも、そのすぐ後に、サザンオールスターズなんていう日本語のおかしさ大爆発の連中が出てくるんだから、日本のメジャーシーンというものも実に揺り返しがひどい。

イメージ[編集]

代表曲である「花」の話に入る前に、ハイサイおじさんが制作されたエピソードについて記載する。とりあえず、ハイサイおじさんの元となったとされる逸話には、その昔、昌吉の家の近所に校長をしたこともあるような立派なおじさんが暮らす家があったけれど、敗戦後の混乱で、その人の奥さんが発狂。娘を惨殺。それを見たおじさんもおかしくなってしまい、以来、ずっと近所の人に酒をねだって暮らすようになり、昌吉の家にもたびたび来るようになった。そんなおじさんとの交流からハイサイおじさん、標準語で言うところの「こんにちは、おじさん」が生まれたという話を、発売からだいぶたって明かしている。

ちなみに、血みどろでドロドロな事件大好きのウィキペディアには、そんな事件があったことは載っていない。Googleで「沖縄 斧 カニバリズム」で調べても、元となった事件へのリンクや、昌吉以外の人が語るおじさんについての逸話を見つけることができない。あわせて、娘を斧で惨殺して頭を煮込んで食べたという事件などと語っているため、ウィキペディアがほっておくわけがない。このことから分かることは、当時の沖縄の新聞社はあまり働いていないか、もしくは、大変によくある話である「後付け」が為されたかのどちらかである。もっとも、芸能活動において「誇大広告」だの「後付」だの「嘘・大げさ・紛らわしい」だのといったイメージ勲章みたいなものであるため、なんら問題はない。

なんら、問題はない。

ファーストアルバム[編集]

1977年、昌吉とチャンプルーズは前年度にスマッシュヒットした「ハイサイおじさん」の勢いに乗る形でファーストアルバム「喜納昌吉&チャンプルーズ」を制作。徳間ジャパンから販売する。その内容はほとんどが沖縄弁まるだしの未だウチナーポップとはいいがたき何かと、理解しやすい沖縄弁に改めた民謡であり、とりあえず、初めて聞いた人間にとって、日本の歌かどうか疑われても仕方がない内容だった。しかし、沖縄民謡を取り込んだそのサウンドは、当時の若者には当時としては画期的であり、多くのファンを獲得。同年にデビューした同じく沖縄のウチナーポップの代表的バンドであるりんけんバンドが1985年に「ありがとう」をヒットさせるまで、同ジャンルを象徴する存在として君臨する。

逆に言うと、んなわけわからん歌を歌うバンドは一つで十分。と思われる時代が長かったともいえる。

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ファーストアルバムの発売からまもなく、昌吉に天啓が訪れる。彼が言うには1978年の秋、東京渋谷の東武ホテルに宿泊中、レストランでひらめいて紙ナプキンに歌詞を一気に書いた、とされている。

その割には、1980年に発売したアルバム第二段「BLOOD LINE」に収録されたのみの扱いである。発表当初は、である喜納友子が歌い、ゲストとして名ギタリストライ・クーダーが参加しているほか、特に注目するようなこともなく、発表後も、別にシングルカットされるわけでもなく、そのまま終了。お蔵入り。

しかしながら、ファーストアルバムに続き、セカンドアルバムの評判も上々。花とは別に、アルバムの1曲目に収録されていた「ジンジン」はなんとイギリスでスマッシュヒットを飛ばし、ワールドワイドに活躍する昌吉とチャンプルーズの活躍に少なくない賛同者が現れ、熱狂的に彼らの活動を支えていく・・・んだったら、世の中は面白くない。

もちろん、ありがたいことに、世の中は面白い。本当に面白い。

とりあえず、セカンドアルバムのヒットにより昌吉とチャンプルーズの上昇はさらに上、まさに絶好調となるわけであるが、もちろん、その後、彼らに対する期待感も上昇していく。とめどなく。その結果、当たり前の話として、客を食いつかせるネタは打ち止めになり、常に新規開拓を迫られる立場に追い詰められていく。

よーくある話である。

で、結局、1982年に3枚目、83年に4枚目のアルバムを出すも、その音楽活動は伸び悩むことになる。つまるところ、珍奇なものを見る対象としては飽きられた。捨てられた。さようならというわけである。しかし、そんな苦境で苦しむより、捕まってムショにぶち込まれていた時期のほうが辛いわけで、その後、7年間、昌吉はしぶとく音楽活動を続けていく。解散はしていない。ただ、公式ページに書ききれないほどのメンバーの変遷があったのは確実である。

もっとも、伸び悩む中で国内での活動よりもワールドワイドに動こうとする姿勢の萌芽はこの時期から始まっており。海外ミュージシャンとも積極的に交流。その結果、タイに捲いた一粒の種から、単なるアルバムの楽曲でしかなかったが世に出て行くことになる。しぶとくやっていくと、こういうこともある。ただし、この期間の活動について、公式ホームページでなーんも書いちゃいない。てゆうか、売れた歌がない。しかも、その間に「花」のボーカルを務めていた奥さんと離婚した模様。子供がいるにも関わらず。

そこかしこで平和を叫んでいたにもかかわらず。

ぢつにあんさいくろぺぢぃあむけのはなしぢゃあないか。うん。

当たり前な話[編集]

花の世界的ヒットの影にあるもの。それは、翻訳しやすい歌詞、歌いやすい曲調、作った人間が世界平和爆発といった、分かりやすさがとことんまで強調された結果である。

絶対にヤクで捕まったという話はしていない

しかしながら、こんなマイナーな楽曲に目を向けた海外の歌手たちの慧眼もまた見逃せないことも確かであり、それなりに、昌吉の音楽が、早くから世界に向けて発信されていたことの結果でもある。それなりに

転機[編集]

そんな昌吉の活動が再び日本で脚光を浴びるきっかけとなったのは、1990年に放送されたカセットテープ「AXIA」のCMで、おおたか静流が花を歌ったことによる。同年には7年ぶりとなるアルバム「ニライカナイパラダイス」を発売。久しぶりに昌吉が表舞台に立つことになる。翌1991年には紅白歌合戦にも出場。徐々に手がつけられなくなってくる。

その後、アジアを中心に花が大ヒット。沖縄音楽に勢いがあると感じた連中が、大挙して沖縄音楽に向かい始めた結果、1992年12月にTNE BOOMによる「島唄」が発表される。当初は沖縄県内にだけ発売されたこの楽曲は瞬く間に知れ渡り、翌1993年にはオリジナルバージョンとして全国で発売、150万枚を売り上げる大ヒットを記録する。そして、1990年代は沖縄アクターズスクール出身の有名歌手が続出、芸能界を席巻していく時代に当たり、安室奈美恵MAXらが本土で本格的な活動を始め、後にSPEEDDA PUMPといったビッグネームが控えるという、まさに沖縄文化が日本国中で爆発するような時代だった。

そんな沖縄の芸能文化の先頭に、昌吉がいた。

沖縄の象徴する歌である島唄や花といったものの持つイメージと、麻薬でとっ捕まって嫁さんとも離婚、本土では落ちぶれて海外に活路を求めていたような昌吉が、いつのまにか祭り上げられる存在になっていく。最も、それには沖縄県のほうにも大きな理由が存在する。

沸騰[編集]

1995年9月、沖縄の歴史に残る大事件である「沖縄米兵少女暴行事件」が発生。当時12歳だった少女を3人の米兵が暴行したこの事件は、当時の日本を震撼させる。それは、日米地位協定のために日本側に実行犯が引き渡されなかったこともさることながら、この事件をきっかけとして、米軍基地問題がクローズアップされ、おりから巻き起こった米軍再編問題とも合わさりることで紛糾。そのことが2009年の普天間基地問題まで延々と尾を引くことになる。

そんな煮えたぎった沖縄の中で、昌吉はけったいなパフォーマンスを連発していく。丸木舟で海を渡ることで平和を願う。しかも、3年連続で。そして、武器を楽器に、全ての人の心に花をと、まさに力なき沖縄の住民の声無き声をパフォーマンスに表すが如くに様々なイベントに奔走。その結果、多くの若者が彼の姿勢に共感。なぜなら、力なき人々の声、想いをそのまま出すことができないがためのパフォーマンスだと感じさせるだけの実力と実績が昌吉にはあったためである。

そんな簡単なものだったら誰も苦労しない

なお、2010年10月現在、喜納昌吉前参議院議員のブログには、9月に発生した中国による尖閣諸島への領海侵犯に関する事件の声明はない。それ以前に、7月に行われた参議院選挙へのコメントもない。ついでに言うなら、喜納昌吉&チャンプルーズの公式ホームページには、落選のらの字すらなく、前議員のの文字もない。

力なき者がどうして力がないのかがよく分かる話である。

牛後[編集]

力なき沖縄の人々の象徴となった昌吉だったが、その後の活動のほとんどは海外でのものが主となっていく。

日本の中の沖縄、基地問題に揺れる沖縄、平和の島沖縄などなど、平和活動家にとって、これほどおいしい立場の歌手はいない状態であり、なおかつ、海外の人間は昌吉の過去などどうでもよく、さらに自分でも見知っている歌曲「花」の原作者というだけで、十分にパフォーマンスを受け入れる準備は出来上がっていた。そして、昌吉もその要求に答え、毎年のように海外で大規模な公演を繰り返していく。

毎年毎年。

毎年毎年。

で、いい加減、力なき沖縄県民のためのパフォーマンスも、沖縄出身の芸能人自体も飽きられ始めた2004年、昌吉に2つの事件が起こる。一つは、2004年に行われた参議院選挙で、民主党所属として立候補。17万票を獲得して初当選する。このことは、イラク戦争以後、基地問題が沈静化していた沖縄で、再び普天間基地の移設期限という爆弾が爆発することを意味していた。ただし、当たり前の話であるけれど、沖縄県民として特に筋だった解決策を示したわけではない。あわせて、その後、6年に及ぶ議員活動においても、特に沖縄のために何か成し遂げたということもない。ただ、祭りの先頭に立つのに、少しだけ後ろ盾が増えたというぐらいでしかない。実際、2009年に民主党が政権を獲得した際も、普天間基地移設問題という強烈な爆弾に火が付いた状態であるにも関わらずに、昌吉は何も出来なかった。公式サイトにある活動紹介のページが「現在製作中です。」としかないがそれもお察し下さい

ただ、実現不可能なを語っただけだった。

もっとも、タレント候補にどんな政治的な能力を求めてるんだ、という話でもある。

ちなみに、2004年のもう一つの事件とは、息子が恐喝で逮捕されたという話である。しかも、当選後に。

普天間[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「普天間基地代替施設移設問題」の項目を執筆しています。

2009年7月に行われた第45回衆議院議員総選挙で、沖縄の未来と昌吉の築き上げてきた名声を一気に瓦解させる、普天間基地問題が勃発する。楽しいウィキペディアでは、26万バイトの記事になっているが、アンサイクロペディアでは端的に一項目で説明する。ようは、実現不可能な普天間基地の移設を公約に、沖縄県の衆院選で民主党の候補が議席を獲得。で、見事に実現できなかった。ただ、それだけの話である。しかし、このような夢みたいな話に飛びつかない昌吉なわけがない。夢みたいな話を選挙で繰り返し、住民に民主党を選ばせ、そして、それが丸ごと覆った。この段階で、夢を語っていた昌吉は一気にホラを語る存在に落ちぶれ、民主党は2010年の沖縄県知事選に候補者すら擁立できないレベル、分かりやすく言うと「存在するな」レベルで沖縄からソッポを向かれている状況に陥ることになる。また、昌吉自身、2010年に行われた第22回参議院議員通常選挙で見事に落選。ホラ吹き、嘘つきが当選するわけがない

なお、2010年10月26日現在、彼のブログは2010年6月で停止したままである。ついでに言うと、2010年10月、確認できる彼の活動は、自分のライブハウスで週末にチャンプルーズと一緒に歌っていることぐらいである。

では、彼の代表曲「花」をお聞きください[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]