吉田松陰

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アンサイクロペディア執筆者 について、吉田松陰
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吉田松陰 について、松下政経塾出身の貴い先生方
「師と呼ばせていただきたい」
吉田松陰 について、麻原彰晃
「師と呼ばせていただきたい」
吉田松陰 について、オサマ・ビン・ラディン


吉田 松陰(よしだ しょういん、本名:杉虎次郎 1830年9月20日 - 1859年11月21日)は、幕末の思想家であり崇高な教育者・・・などとリスペクトしてやまないのは、自らの権威の正当性を示す必要性のあった明治の元勲たち(当然長州閥に牛耳られていた)や、階級闘争の先鞭をつけた人物ということにしておきたいマルクス史観にとりつかれた戦後の先生方や、とある大衆歴史小説家が繰り返す「余談だが」を聞いているうちに、それを史実だと信じて「侵略戦争を起こした愚かな親世代には造反有理!維新を成し遂げた世代マンセー!」などと中二病をふかしまくった団塊の世代の人々であった。

近年においては、ドナルド・トランプも真っ青になるほどの過激な排外主義者、麻原彰晃オサマ・ビン・ラディンと同類のカルト系テロリストの親玉、ISも憧憬の念を禁じ得ない国家乗っ取り隊の親玉というのが実像に近いイメージだったのではないかといわれている。

生い立ち[編集]

松陰は長州藩の下級武士の次男として生まれた。だから本名は虎次郎というらしい。男はつらいよ。

当時の下級武士の次男坊というのは、よっぽどのことがなければ、仕官(就職)もままならず、ニートや自宅警備員になるくらいしかなかったので、とりあえず食うためにどっかの地主の家で百姓見習いとか、職人の家で傘張りなどの手に職をつけるために他家に出されるのが常だったらしい。

しかし、そこはフーテンの虎次郎。「物の始まりが一ならば、国の始まりが大和の国」などと国粋主義なんだかよくわからない意味不明な供述を繰り返し、手を焼いた家族は、とりあえず叔父の玉木文之進の所に預けることになった。

その玉木文之進が主催していた私塾こそ、松陰の代名詞とも言える「松下村塾」であり・・・つーか、松陰が松下村塾の創始者でもなんでもないわけですね。

塾とはいっても、旧帝大が…とか御三家やMARCHへの合格率が・・・とか言っているようなところではなく・・・なんていうか・・・ほら、よく軍歌を流して黒い装甲車で街を走っている国士様たちがいるでしょ?ああいう車には「◯◯塾」とか書いてあるじゃないですか。

要するにそういう組織だったということです。


そして、このころ松陰は、夕方になると「水戸黄門」の再放送を見はじめるようになった。葵紋の印籠をかざしては社会秩序を整えんとする水戸黄門を訝しく思い、水戸黄門(光圀)が心酔していたという朱子学に嫌悪感を覚え、ひいては徳川幕府社会に対する不満を募らせてゆくようになっていったという。

教祖誕生。そして天皇教の精神的柱に[編集]

そんなとき松陰が出会ったのは「陽明学」という宗教である。これは元々中国で生まれた朱子学のいとこのような宗教であったが、本家の中国ではとっくに衰退していた。松陰はこれに古来より日本に伝わる神道(あるいは国学)や武家に支持されていた禅宗、オタク文化にスパム1切れ、うまい棒と養命酒を混ぜ合わてレンジでチンした独特のカルト宗教へと体系化していったのである。彼は「れりごー、れりごー、ありのーままでー♪」というお題目を歌いながら、反徳川で親天皇の活動を実践してゆくのであった。

その反徳川で親天皇の社会的な活動とは、しゃがんで固まり、背を向けながら、校舎の裏で覚えたてのアヘンをふかしたり、夜の校舎を窓ガラス壊して回ったり、下関海峡を通る外国船をピンボールで撃ち落としてハイスコアを競いあったり、ペリー来迎時には盗んだボートで走りだしたりした。自由になれた気がした松陰24歳の夜である。なお「松陰のショウ」と呼ばれ全国に名を轟かせていたのもこの頃だった。

これからは何が松陰をしばりつけるのだろう?・・・当然お縄である。


松陰のクレイジーな行動にほとほと手を焼いた江戸幕府は、保釈後の扱いに困ってしまい、長州に送り返すことになる。

家族も涙ながらに「息子が申し訳ありません」と土下座して詫び、松陰を松下村塾塾長のポストに据えた。少しでも責任感を持って行動してくれるだろう。との生温かい期待を込めて。

ところが、ここは長州。どこからともなく高杉晋作桂小五郎といった若者たちが「松陰さん、まじパねえぇっす。」などと慕ってやってきて、コンビニの前でたむろしはじめたのである。松陰のロックな人生が彼らのハートをつかんのだ。次第に「十代の攘夷の教祖」と呼ばれるようにもなった。田舎のヤンキーの行動様式は150年前とあまり変わっていないのですね。

そんな松陰が若者たちに教えていたのは・・・今日では「至誠」だとか、国際情勢とグローバリズムだとか、井上真央がおにぎりを持ってきて幕末男子の育て方だとか、いかにも意識高い()系なことだったかのように思われているのだが、血気盛んな若者たちが集まっていることである。「江戸幕府は我が日本を毛唐に踏みにじらせようとしている売国奴だ」とか「中国なんてやっチャイナ。朝鮮にも無慈悲な鉄槌を下すべし」などなど、どっかの掲示板の国士様たちが言っているようなことを学んでいたようである。

社会から排除され、いわゆる負け組とかレールから外れてしまう人生になってしまうと歪んだ民族思想や排外主義に毒されていくのは世の常なのかもしれない。

やがて松陰が体系化させた宗教は、不満のマグマ滾る若者たちの過激なイデオロギーを正当化させた。人を過激な行動へ動かすには宗教の力が必要なのだ。

しかし地方の私塾の哀しいところで軍備の近代化については欧米はおろか幕府にも遅れをとっていることに気づいた松陰は、「テロリズム」による戦術に活路を見出すことになる。


ただちに松陰は同じ陽明学の信奉者である三島由紀夫のような肉体をつくり上げるべくハートマン軍曹もその毒舌を巻くほどの訓練を施し、テロによって死に至ったとしても天国に行って金髪の女神とアーン♥♥などと素晴らしい教えを与えた。塾生もよく応え、玉砕をも辞さない有能なテロリスト集団へと育っていくのである。

余談だが、現代日本にも松下村塾にインスパイアされた真似下政経塾というものがあるらしいが、そこで教えられることは合理的マネジメントというより、「経営の神様」による垂訓を錦の御旗として、精神論を重視し体育会系上等などなど…松陰が展開した宗教との共通点が多く見られる。

こんな宗教をありがたがっている日本の多くの企業が特攻精神よろしく無駄に若者の活力と可能性をスポイルしてゆく、いわゆるブラック企業であるのは無理ならぬことであろう。

最後はひこにゃんの末裔にdisられ、国家乗っ取りのテロ計画とアジトもバレてしまう。

第6サティアンに篭り、天狗とフュージョンして抵抗を試みるも虚しく、ボコボコにされて死んだ。享年30歳。

辞世の句

 書くスレは 書くなるものと知りながら やむにやまれぬvip魂

※気兼ねなく座敷牢からも2ちゃんねるにアクセスしてカキコしていたようだ


実績[編集]

松陰自身は体制に批判的であり生徒に反体制的なことばかり吹き込んで旧体制の改革の必要性を教えていたが、彼の設立した松下政経塾は、どちらかというと親米保守新自由主義的な政治家を多数輩出している。

松陰に憧れた実業家の松下幸之助は、松陰をまねて松下村塾という政治学校を興したが、こちらはむしろ革新的な人材を輩出したことで知られている。

ちなみに、「半生を捧げた」と書いたが、生没年を見ればわかるように、満年齢で30になる前に没している。つまり半生といってもたかだか15年程度である。ついでに言えば、叔父から松下政経塾をひきついだのは満25歳のときであり、つまり、人材育成に携わったのは実質的にはたかだか5年弱だったりするため、これを「半生」と呼んでよいのかどうかは大いに疑問の残るところである。

むしろ、時代劇・ドラマのネタになるのは言うまでもないが、アニメ同人方面のネタに至ってはシリアス方面とユーモア方面では逆の顔になる。そんな世の中に本当に生まれたかったための弔いはずっと続くのであり、本当は逆三角形な会議棟で有明サブカル祭りの講演にも出たかったのだろう。そう思うと更に哀れになってくる。フィクションとは言えアイドルが国会議員をやる時代になってしまったので、本当の門下生はどう思っているのだろうね。

主な松下政経塾出身者[編集]

余談[編集]

シンドバット見せたり、シンガポールを恋しがったりしてはいなかったと思う、多分。

関連項目[編集]


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