吉川広家

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吉川 広家 (きっかわ ひろいえ、永禄4年11月1日1561年12月7日) - 寛永2年9月21日1625年10月22日)) は戦国時代から江戸時代初期にかけての料理人弁当屋。吉川元春の三男。

朝鮮出兵などで武功を挙げた。

生涯[編集]

生粋の料理人[編集]

吉川元春の三男に生まれる。兄たちが健在で家督相続権の回ってこず、放埓な少年時代を過ごす。結果、広家はなぜか食の道に没頭してゆく。15の頃には毛利家の台所を一手に担い、「毛利の台所」と呼ばれた。彼の濃厚な味付けは元春や叔父・小早川隆景を唸らせる程であった。ちなみに食料調達の為に勝手に兵糧を盗み取る悪癖があり、何度も元春からの叱責を受けている。

元服した広家は「サムライなんてくだらないぜ!俺の料理を食えぇぇぇっ!!」と叫び料理人になろうとするが、世間の力にはかなわず、やむを得ず副業としてサムライとなる。そちらの方面では華麗なる包丁捌きを剣術に転用し、実戦で活用した。

尼子勝久山中鹿介ら尼子家残党との決戦における上月城攻めでは、食料を盗む悪癖が吉と出る。広家は料理食材を調達する為に、敵方の上月城の食料庫を襲撃して食料強奪に成功。尼子側の兵糧を欠乏させて早期落城に持ち込んだ。

豊臣秀吉備中高松城では、鷹を使った空輸で高松城に特製弁当を差し入れた。しかし途中で腐ってしまったらしく、これを食べた城主の清水宗治は腹痛で苦しみ、胃を切開して弁当を取り出している。

その後本能寺の変が起き、秀吉は大急ぎで京都まで引き返そうとするが、なんと広家は彼らに自作の非常食を差し入れした。秀吉軍はこの非常食によって大いにスタミナを回復し、その後の山崎の戦いで勝利することができた。このように広家は主に料理人として、敵味方を問わず縦横無尽に活躍した。

予期せぬ家督相続[編集]

九州征伐から間もなく、父と兄・吉川元長が相次いで死去したため、広家に吉川家の家督が回ってくる。まだ吉川家には次男の繁沢元氏がおり、どちらを吉川家の跡取りにすべきか、思案を巡らせた叔父の隆景によって吉川家後継に指名されたのである。しかし、毛利家の外相安国寺恵瓊からは「料理に現を抜かすような女々しい輩に、勇猛たる元春公、元長公の跡取りは務まらない」と猛然と反対された。恵瓊の反駁は結局退けられたものの、この一件により広家と恵瓊の間に禍根を残した。しかも、それが払拭されないまま、後年の関ヶ原における、広家の独自行動に結び付いてゆく…。

その後の朝鮮出兵において、広家は討ち取った敵兵の肉を調理して文字通りのジンギスカンを作り、兵士達にもてなした。この為に毛利軍は兵糧が尽きることなく、度重なる戦においても殆ど疲労を見せなかったという。

天下の分かれ目[編集]

下拵え[編集]

秀吉が死去し、徳川家康による天下取りのための諸大名への裏工作が行われると、広家も関東の山の幸海の幸を餌に家康から篭絡される。家康は毛利家が不戦の態度を取れば、戦後領土を安堵すると密に約定を交わす。料理や合戦以外でも宗家に貢献したい願望と恵瓊への対抗意識もあって、広家は積極的に家康との書状のやり取りに勤め、東軍と気脈を通じることに腐心した。

決戦当日[編集]

関ヶ原の戦い当日、広家を含む毛利軍は戦場より南東の南宮山に布陣していたが、広家は豪奢な馳走を南宮山の諸将に差し出し、大軍を南宮山に釘付けにする事に成功した。趨勢を決する重要な役割を演ずるだけあってこの日の広家の料理は頗る付きの美味であり、因縁の間柄である安国寺恵瓊までも舌を唸らせてしまうほどであった。さらに、南宮山から立ち上る料理の煙をかぎつけて池田輝政有馬豊氏の軍から摘み食いの為に脱党する兵士が続出した。中には料理欲しさに西軍に寝返ってしまう兵士も出る始末であった。

戦後の仕打ち[編集]

南宮山の大軍を手料理によって足止めし、東軍の勝利に貢献した広家の功績は多大なものであり、毛利家は所領安堵どころか加増されても良いほどであった。

だが、家康が毛利家の膨大な国力を危険視し、またその広大な所領が福島正則などの豊臣恩顧の諸大名に配分する恩賞の格好の的となる。結果、約定を反故にされた毛利家は大幅に領土を召し上げられ、防長二ヶ国に押し込められる。一説によると、家康は毛利家の改易を命令したものの、広家が哀願し、誠意の証に家康に手料理を振舞い、その味付けに感嘆した家康が減俸で許したとも一部では伝わっている。

一門からの冷遇[編集]

減俸されたことで、毛利家の不満、怨嗟の矛先は一斉に広家に向けられる事となる。

それまで広家の料理を嗜んでいた宗主毛利輝元毛利秀元は、広家の料理を一切口にしなくなり、遂には広家を台所出入り禁止にしてしまった。よほど広家が憎かったのか、毛利秀元に至っては、南宮山で広家が振舞った馳走について「空弁当を食わされた」と言っている。広家は減封先の所領となった岩国で料理教室を開き密に余生を過ごした。

晩年になると、広家の料理が懐かしく思われたのか、輝元たちから台所への出入りを許され、再び毛利家の飯炊きに携わっている。

関連項目[編集]