古本

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「古本」の項目を執筆しています。

古本 (ふるほん) とは、インターネット全盛時代とか情報化社会とかなんとかいうたわけた戯言を鼻であしらう、情報の塊である。

その存在は、にしてにあらず。出版された時代、もしくはそれを書いた本人が生きた時代そのものである。そのため、古本を扱う際にはいくつかの犯しがたい条件が存在する。

この記事では、いかに情報化社会だのなんだの言う存在がアホらしいかを詳細に説明し、古本を利用して得がたい情報を得るために必要な手段のいくつかを記載する。全てはムリ。絶対無理。ちなみに、嘘でもホラでもなんでもなく、古本から情報を得るために使用する人体の器官はである。

あわせて、の存在も足に負けず劣らず大きい。そのため、も相当なレベルで鍛えざるをえない。知識?そんなもん役に立つかボケ

概要[編集]

人類の歴史において、言語を記述し、それを取りまとめる作業、現代でいうところの製本が為された時代は古く、そして多くの文明で過去の知識を後世に伝える努力を惜しまなかったりする。古代エジプトではパピルスに様々な情報を記載され、古代中国では、中世ヨーロッパでは羊皮紙と、文化が全世界に広まる前にすでに、各地の文明が独自の方法で記述&保存しやすい素材で製本を行っている。

それらの資料は時にゴミ捨て場に、時に巨大図書館に、時に権力者の墓場に送られ、古代の情報と現代を直接結ぶ橋渡しの役割を担うことになる。

翻ってみて現代では、消化しきれない情報に満ち溢れ、どんな情報でも全てデータ化され、もはや得られない情報はないなどといったひでえ錯覚に陥る危険すらあるように思われている。んなこたあない。どこぞのモモでも語られているとおり、人間の時間は有限であり、人生は約80年、そのうち3分の1が睡眠、残りの3分の2のうち、半分が生活、残った26年ちょいの間で、いかに情報を処理して脳みそに叩き込むかが勝負となっている。・・・わけではないけれど

しかし、わけである人間も多い。そのため、多くの人間は短い時間内で情報を詰め込むだけ詰め込もうとし続けるうちに、玉石混交された情報の中から玉を見つけ出す力を失っていき、大多数の人間が一瞬で一つの情報を共有することで、余計自分だけの情報に振り回されるようになり、さらには、いいかげんいやになって自分自身で情報を得ようとする努力を放棄することがもはや一般化されてしまっている。

もっとも、その結果はラジオを信じるか、テレビを信じるか、もしくはインターネットを信じるかの差でしかない。それらは総じて、手元には残らない

そのため、古本屋や各地の図書館、さらには海外のアンサイクロペディアで見たことも聞いたこともない「出会い」の破壊力は年々増すばかりである。なんせ、与えられた情報ではなく、自分で見つけ出した情報であるわけだから。そして、何よりもその破壊力である。この表現は、まったく間違いではない。

出会い[編集]

人間は自分の世界にばかり固執すると、なぜか閉じこもる性質がある。

なんでだろう?なんでだろうね。うん。まったく。

そんな話はともかく、人間を自分の世界に留まらせるにはいくつかの方法がある。その方法の1つに、分かれ道を前にして立ち止まるという、どうしようもない人間の本能を利用したえっぐいやり方がある。

片方の道に「明るい未来」と書いておき、もう片方の道に「現実」と書くだけで、立ち止まる人間は続出する。これは、人間というものが決断をする際に、得られる全ての情報を得ようとする本能を利用したトラップである。同じような分かれ道は、インターネットの世界にはくさるほど存在しており、情報をたくさん与えた結果、人生で立ち止まる人間が続出。結局のところ、与えられる情報では対処しきれない事柄が、世の中にはたくさんありすぎるという話であり、そんなもんは、ラジオのつまみをまわすときも、テレビのチャンネルを変えるときも、ネットでサーフィンするときもなんら変わりはない。

そんな状況を打破するのが別世界との出会いである。別に世界でなくてもいいけれど。別の媒体でもいいわけだけれど。しかし、人生に化学反応を起こすんなら、それまでとはまったく違うナニカ、世界と形容してもいい存在が必要になる。前述の分かれ道の話で言うならば、「道通らない」、「引き返そう」もしくは「道作っちまえ」レベルの判断へといたるナニカである。

ちなみに、文学やら宗教関連の話だと、実にありすぎて困るこんなちんけな「出会い」ってのものは、なぜだか純潔を求める点についても見逃せない。間に金銭のやり取りしか介在しなければしないほど、化学反応が強くなる。自分だけのなんたらかんたらうんぬんかんぬん。そうやって、信仰の対象を築いてきた歴史がそこには存在する。まぁ、その価値があったことも認める。そのため、世界には古本屋が存在し、古本が存在する。宗教については言う必要すらない。

古さ[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「寺山修司」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「永六輔」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「戸板康二」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「三浦一郎」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「田辺貞之助」の項目を執筆しています。

そもそも、アンサイクロペディアの古き時代のなごりを見ただけで、感慨にふけることはできる。笑うことは難しくても。そういったネタにリンクを貼り付けることで、読み手を過去のなごりへといざなうことで、書き手のいいように読み手を惑わすことで、読み手を書き手の手のひらの上で踊らせることができる。場合によってはかんかんのうでも猫踊りでも、暗黒舞踊でも何でも躍らせることができる。それぐらいに、過去の文章、すなわち、過去の人間が感じた読後感との出会い、一体感というものは麻薬的な魅力を持つ。

その危険性について、古代中国の思想家荘子は「素晴らしき書物であったとしても、使い手のレベルが低ければ盗賊に武器を持たせるのとまったく同じ」と嘆いているが、盗賊としてはいかにすれば武器を獲得できるかを数千年前から伝授してくれるという有難い話である。そして、どう考えても、アンサイクロペディアンは聖人ではない。

というわけで、寺山修司で何も知らない初心者をボッコボコにして、永六輔でちょっとぐらい知った気になっている連中を奈落の底に突き落とし、戸板康二三浦一郎で真の相対すべき存在とつばぜり合いをしつつ、田辺貞之助を最後の最後まで取っておく。実に嫌なアンサイクロペディアンがいたものである。

逆に言えば、新しくて誰にも知られているアニメだのマンガだのを武器だと思ってやってくる連中は、一体全体、何のためにこんなろくでもない戦場にやってくるのやら。全員が見知っているから、それを記事にするから、だから、笑ってくれるという世界は、残念ながら脳内にしかない。文章力すらないならば、特に。結局のところ、何も知らない連中と、少しでも植松黎に触れた連中の差は、笑いの実弾の数で決まる。火縄銃とガトリング砲の違いは、その次の記事Next One投稿記録の積み重ねで決まる。

で、悲しいことに、インターネットと書かれた弾薬庫には、撃ち殺せるレベルの弾がほとんどなくなっていて、新しい弾を得たい連中は、入り口の前で今か今かと長い行列を作っている。長い長い行列を作っている

武器一覧[編集]

実際に文章を書く段において、読み手の脳みそを抉り出すような言語兵器の存在は確実に、インターネットの世界には転がっていない。昔は転がっていたが、現在は全て回収、持ち去られてしまい、何も知らないガキが遊び道具に使っているような、そんな豆鉄砲しか残っていない。悲しい現実である。そもそも、大昔の笑える話を一瞬で共有できてしまう環境において、その情報を知っているという優位性はまったく存在しない。調べりゃアウト。Wiki見ておしまい。検索したらサヨウナラ。そんなクソ面白みのない連中を地獄へ突き落とすために必要なのが、足で稼いだ情報になる。

そのため、実際に脳天をぶち抜くフレーズや、もはやいかんともしがたい事実、さらには抱腹絶倒の小ネタにいたるまで、ネットに転がっていない情報を満載した兵器が古本である。あわせて、大昔のレコードも破壊力が違う。CDではない。レコードである。わざわざプレイヤーを購入し、針が折れる恐怖のおののきながら、音質も悪く傷だらけでジャケットはぼろぼろ、だけれども、出会いと破壊力の差がまるで違うのがレコードである。

別にブックオフハードオフの回し者ではない。

これらの媒体に共通する利点は、現代人にほぼ忘れ去られているという点に尽きる。そのため、少し掘り返しただけでザクザクと大判小判が出てきたり、原油が噴出したり、人生感が変わることもある。たまにある。しかし、そこにいたるまでの道のりはけっして平坦ではない。ハズレは当然。素材が高レベルすぎて歯が立たないときもよくある。何より、それらの価値を理解するまでに必要な知識の膨大さっていったらもう、アニメマンガといった甘いだけしか味覚が存在しないような世界では考えられない多用さで、逆にこんな泥沼にはまったから人生感かわったんじゃね?といわれても致し方ない。

・・・そうかも

コネクト[編集]

本にしろ、レコードにしろ映像にしろ、情報を脳みそに叩っ込む作業を行うにあたり、それを仲介する存在のある無しが、その情報の信頼性、および知識としての価値を左右することがままある。そのため、極力、仲介者の存在を省くために必要なものが、年月。これを使用すると、場合によっては作者すら存在しなくなり、作品と時代をほぼ直接、脳髄に叩き込むことが可能になる。

これについては、大変によくある悲劇を回避するための防衛手段という側面もある。悲惨な話として、大好きな作者の待ちに待った新品を買って歓喜していたら、いきなり作者が心変わりして、元の作品を全否定、おかげで脳みそに叩き込んだ記憶がすべて黒歴史、なんていう喜劇もある。よくある。そのため、どんなに甘そうでよいにおいのする作品であっても、その作者に信頼がおくことができなければ、けっしてその作品に手をだしてはいけない。

X Japanのことを言っているわけだはない。

逆に、その作者の名前も名声もなんも知らない状況であったとしても、作品の質が信頼できれば、小品であれ詩集であれ、果てはエロだろうが画集であろうがなんだろうが、ぜひともその作者関連の品物を獲得すべきである。そして、その作者が古くからの生き残りであればあるほど、裏切られる心配は少なくなる。裏切っている場合はそれすら楽しめる。ただし、名前も知られず、名声も存在しない作品がある場所は、はっきりいえば、ほとんどない。ありゃしない。そのため、狙って獲得できるような存在ではけっしてない。むしろ、毎度毎度そこらじゅうをさまよい歩いて、ついに見つけた100年の仇レベルの話である。それぐらいの出会いともなると、もはや個人にとっての価値は計り知れない。

というわけだ、花井。

ちなみに、ごく当たり前の話として、ウィキで調べてアマゾンで注文という話ももちろんできる。けれど、そんな形で安易というワンクッションを置いた出会いでは、なぜだか脳みそが知識を受け付けない。なぜだか。その先にアメリカ大陸があるとしってる航海が探検になるわけはなく、ましてや、未知の出会いという麻薬を獲得できる可能性はまったくない。

そのため、古本、古レコード、古映像を求めさまよう連中の多くが、そんな脳内麻薬のために日々生きていることは、悲しくも仕方のない事実である。

関連項目[編集]