南北分断

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南北分断(なんぼくぶんだん)とは、表面上は一枚磐になっていると見なされている地域(島嶼、半島、都市、国家、県など)が、歴史的要因・地理的要因・政治理念の食い違いから、南北二つに分裂する現象である。通常、分裂した二つの地域は戦争に発展するのが常であり、この南北二分裂によって発生した戦争は南北戦争と呼ばれる。

この記事では、現象である「南北分断」と、戦争である「南北戦争」の両方を説明する。


朝鮮史[編集]

朝鮮史での「南北分断」とは、大日本帝国(=明治政府)の消滅により、明治政府による支配から「光復」した朝鮮半島の民が、新たなる朝貢先を求めて争い、半島が内戦どころか南北二つの国家に分裂して「熱い戦争」を起こし、現代まで「冷たい戦争」が続いている状態である。

朝貢先を巡る論争[編集]

1945年9月2日、半島人のリーダー格「親日派」が死力をかけて同化しようとした大日本帝国が崩壊し、偉大なる朝鮮総督府が解散すると、戦争に勝利したソ連と米国の軍隊が早速領土を分割しようと進駐してきた。親日派はこれをみて早速両国への忠誠心をみせるため、突如としてこれまで感謝の限りを尽くしてきた日本人を徹底的に鞭打ち、自分が同化しようとしたはずの日本の文物に対して徹底的な破壊行為を行い、熱狂的に彼らを迎えた。半島人はまるで戦争の敗者でなく、勝者になったかのようだった。これを目撃した両国は、「太平洋戦争で最も野蛮な行為を行ったのは実は半島の兵士」という事前に得ていた真実の情報をなかったことにしてしまった。(朝鮮総督府の項参照)

ソ連と米国が戦後すぐに衝突を始めたため、半島の民もどちらを新たな朝貢国とするかを巡って南部を中心に衝突を始めた。多くの半島人は新たな主に忠誠を捧げるため、ソ連派は米国派の、米国派はソ連派の半島人の首を両軍の進駐基地に捧げ、両国の眉を顰めさせた。

そんな中、「真自主の盟主」呂運亨(ノ・ウニョン)は米国が日本に押し付けたアホプ条項を半島にこそ適用してもらい、ソ連に対しても徹底的に中立の立場を貫けば、ソ連からも米国からも良い部分だけを得て民族を繁栄させることができると説いた。呂は左派寄りだったが、「極右の良心」金九(キム・グ)もこの構想を基本的に支持し、太平洋戦争で皇軍の名の下で蛮行を働いた兵士を一斉に清算し、ソ連に捧げ相応の報いを与えさせてから、対価として言論の自由を保証してもらうことを提唱した。

両人の案は半島人の本質に叶う現実的な政策であり、米国の配慮により半島は5年間米ソによって信託統治されることになった。しかし、朝貢以外に何らの国際的政策も持たない半島の大衆は両者の案を中二病と嘲笑い、やがて親日派は両者に適当な罪名をつけて処分したのだった。

分離独立[編集]

そんな間も米ソの溝はますます深まり、やがて北部には親ソ系が、南部には親米系の勢力が増えていった。そんな折、北西の国境部から人民の太陽が昇ってきた。ちょうどその辺りでは米国に朝貢しようと訴える学生たちがソ連からやってくる大物の首を一途に求めていたが、まさか西から太陽が昇ってくるとは思わず、そのまぶしさの前にたちまちその太陽を朝と崇めたのだった。その太陽はやがて人の姿をまとい、金日成と名乗った。20代後半の相貌の彼は名乗るなり、小作料を大きく軽減することを布告し、農民の歓心を買った。これは党派を問わず驚きだった。それまで金日成とは50代くらいの精巧な戦士と思われていたからだ。大衆はすぐさま、そのようなイメージを半島で広めていた「生粋の朝左」韓雄を見切って処分し、自らの農地をこの若き委員長に捧げた。金委員長は更に女性革新労働者なる概念を提起し、我らの世界に来れば毎日泥をつけた若い女性労働者と一緒に働けるようになると、南の労働者階級に訴えた。この戦略には彼の首を狙っていたはずの者もかなわず、転向する者が後を立たなかった。

金委員長の政策に熱狂した労働者たちが資本家たちの財産を不法に奪って捧げると、南側では危機感が高まり、米国からやってきた李承晩は元イアンフの者に命じて同様のアピールを行った。南側は泥だらけに加えて、男たちに向け毎日大声で奉公活動を行うよう命じたので、その美しさは北の比ではなかった。 これに対して、北も同様のことを行うことを検討したが、金委員長は慈悲深くもこれを差し止め、代わりに前の前の時代において力を振るっていた「頭脳明晰で優しく奉献精神に富むも顔胸平凡にして声の小さきお嬢様」の静謐なる行動をあらゆる部門に応用拡大し、尊重することを国是とするよう提唱した。これが商業部門に応用されたのがいわゆる「社会主義式接客」であり、金委員長が考案したこの接客方式はイデオロギーの垣根を越え今も世界の相当部分を覆っている。ただし、それに従いたくない女は、南のようなことをしてもよいと述べ、男たちに配慮する意向も示した。

しかし、朝貢先の論争を巡る思想上の分断はますます深くなり、南側はついに1948年5月勝手に単独選挙を行って李承晩が大韓民国の建国を宣言した。これに対して、金日成委員長も北部で朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、主席となった。南北分断の始まりである。大日本帝国への協力者たちは多くが大韓民国に属した。

その協力者たちは米国を新たな朝貢国とすることに決め、反共主義の名のもと南の島でエクストリーム・大虐殺を行い、その首を反共で鳴らしたマッカーシー上院議員に献上した。李承晩が米国から連れてきた国境警備隊員も、態度が共和党的でないとの理由で粛清した。これに対して新宗主国の民主党政権から抗議が来ると、「我々は主権国家だ、我が国は貴国に朝貢する身だが、議会制度や民主制度まで受け入れるつもりはない」と語り、完全な主権を求める勢力に自分たちが他国への従属姿勢から脱しようとしていると訴えた。家庭内でも彼らはキム・ソンニプ精神をいかんなく発揮し、妻をあらゆる手段で汚しつくし、殴りつくし、従わせつくした。

朝鮮戦争[編集]

南の役人たちの実態を見た真実の人の補佐官アチソンは、こんな勢力なんか敵方で足を引っ張ってもらった方が良いと考え、意図的に韓国の地を防衛対象から外す発言を行った。これを聞いた金主席は敵のあまりの醜悪さの前に領土に加えてよいものかと逡巡したが、民衆の利益を勘案して膺懲することを決断し、1950年6月25日に攻撃を開始した。

主席の判断通り、米国は当初傍観するだけだった。韓国兵たちは敵が南下してきても、ノグンニなどで残虐行為を楽しんでいた。そんな兵士を打ち負かしつつ、主席は釜山近くまで迫った。しかし、ここで旧日本の流れを汲む兵士たちが投降してきた。主席がその投降をうっかり信じてしまったため、残虐なる彼らは北朝鮮にいた元親日勢力とも組んで社会主義の名の下あらゆる蛮行を繰り広げた。

その上、かつての親日派たちがイアンフ達を派兵して国連で国際介入を訴えたために、マッカーサー総司令官の指揮のもと仁川に多国籍軍が上陸してきた。主席はやむなく撤退することにしたが、投降したはずの兵士が裏切り、また北側でも反乱が起きたので、主席は北東国境部まで撤退した。反乱を主導した北側の元親日派は北の村等を自分の民族の街とも思わず、焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くした。韓国本軍は本軍で前線は多国籍軍に任せ、戦争とは何の関係もない東の海に兵を出して、竹でできた島や馬がペアでいる島同盟国から拝借することに独り熱中していた。

ちょうどその時、新たに誕生した中華人民共和国から「悲運の赫将」彭徳懐率いるボランティアが増援で送られてきた。主席は礼の限りを尽くし、犠牲を惜しまず早速反転して元の国境線まで戦線を引き戻し、北で乱を起こした者を全部捕えて公開裁判で裁き、満場一致の支持により今度は処刑した。

こうなっても韓国の本軍は東の海から戻ってこなかったので、多国籍軍のマッカーサーは激怒して核爆弾の発射ボタンを南側に向けて押そうとした。さすがにこれは本国から利敵行為とみなされ、マッカーサーは真実の人により職を解かれたが、多国籍軍は慈悲深くも縁もゆかりもない韓国の民衆のために戦いを続け、なんとか1953年板でできた門しかない店で休戦協定を結んだのだった。韓国軍は祝杯として、ホン・スンナルを東の海の竹でできた島へやって、雲出ずる国の海上保安庁を銃撃し勝手に砦を建てた

この戦争前後に南北の元親日派が行った数々の蛮行は一般庶民の眉を顰めさせ、何の関係もない義理堅き日本人にまで抜きがたき偏見を植え付けることになった。特に最後の行為が与えた不信感はあまりに大きく、日本の鳩山一郎総理はソ連と手を組んで韓国を討とうと計画した。マッカーサーは母国の大統領選で、朝鮮戦争での武功を語ろうとしたが、韓国軍の行動を話すと国民が必ず爆笑して漫談になってしまい予選で敗退した。

その後の南(韓国)[編集]

李承晩は政権に残ったが、元親日派をしっかり処罰できなかったので資本主義体制にもかかわらず経済が立ち遅れ、やがて不正に手を染めさせられて追放された。韓国が今のような経済発展を遂げるのは親日派でありながら左翼の風を受けて均衡感覚を身に着けた朴正煕の登場以降になる。朴は悪質な元親日派を南ベトナムへ追放し、精鋭を国内に残して奇跡の経済復興を成し遂げた。なお、武装に優る南ベトナムが戦争に負けたのは、元親日派で構成された韓国軍が南ベトナム軍の先頭に立ってあらゆる蛮行を働き、「アメリカの民主主義」の建前を破壊しつくしたからというのは、今日の歴史学の常識である。

Nemurineko.jpg この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
後は適当に頑張って下さい。(Portal:スタブ)

 

その後の北(金王国)[編集]

一方の金主席は、国土復興は自力ではできないからソ連に朝貢しようと主張した許ガイらを「スターリンが我が同胞を中央アジアへ追いやった時、貴様は積極的に支援していたではないか!」と叱りつけて相応の報酬を与え、平和の象徴として韓国で足を引っ張った赤き者紅の涙を流させ、反逆者たちが夏に鴨緑河で女の撮影会を行っているとそれも処断して、一時的に中国と手を組んだ。彭将軍が中国で宇治原にやられると中国とも手を切り、民族の歴史上初めてどこの国にも朝貢せずに済む主体思想を生み出した。金主席が考案した社会主義式接客のお嬢様が世界へ輸出されて東側世界の模範となり、元親日派の支配した韓国よりも高い経済実績を挙げた。

だが、歴史的に何も生み出してこなかった民族だけに主体といわれても大衆は何をやってよいのかわからず、仕方がないので主席の顔などをたくさん描いて提出した。主席はそんなことをしたら自分が野蛮な独裁者になってしまうと懸念したが、せっかくの善意からの贈り物なのであえて全部受け入れることにし、自分がよくわからない事柄にまで口を出して国民の意志に応えようとした。

金主席は批判前提で指導したのだったが、戦争で生き残った少数の元親日派は主席の意図を曲解して批判した民衆を陰で粛清し、うまいことごまかした。元親日派は野蛮にも国の柱だった「社会主義式接客」の模範生を大量虐殺し、声だけがでかい美人をもって代用した。これに対して、「赫涙の踊子」崔承姫(チェ・スンヒ)は元親日派が国を悪い方向へ導こうとしていると泣いて主席に諫言したが、元親日派は「オマ××ナー」とかのパクリ文句を言って彼女に無実の罪を着せ殺した。この1967年を境にこの国は元親日派の奸臣どもに乗っ取られ、主体性ある国民は元親日派の目を気にして批判を口にしなくなり、あらゆる面で韓国に追い抜かれていった。しかし、北の国民は元親日派こそが諸悪の真の根源だと見抜いていたので、生活難にもかかわらず批判の矛先を主席に向けることはなく、主席は1994年大往生を遂げたのである。

アメリカ合衆国[編集]

美国」ことアメリカ合衆国では、1860年代に国家が南北に分裂し、農奴地域で貧しい地域が多い南部と、工業地域で裕な北部が対立し、「美国南北戦争」と呼ばれる内戦に至った。

事の発端は、美国大統領が裕な北部ばかりを優遇し、貧しい南部を冷遇していることに不満を募らせた南部の農民が、待遇の好転を求めてホワイトハウスに押しかけたことである。これに対して、北部選出の大統領は「奴隷ばっかりの南なんてつまらない。君たちも裕な北に住みたまえ。」と吐き捨てた。これにブチキレた南部の農民は軍事同盟を結成。「北なんてフルボッコにしてやる!」と干戈を持って決起したのである。


関連項目[編集]

一般[編集]

朝鮮史関連[編集]