北条重時
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北条 重時(ほうじょう しげとき、建久9年6月6日(1198年7月11日) - 弘長元年11月3日(1261年11月26日))は鎌倉時代の武士。北条義時の三男。兄に泰時、朝直、弟に政村がいる。北条極楽寺流の祖。藤原定家とは心の友であり、デュエットを組んでCDリリースまでしたが、定家の歌声が霞んでしまうほどのあまりの重時の音痴に全米が泣いたという。
[編集] 人物・生涯
重時の母親は北条と敵対して滅ぼされた比企氏の一族であり、この為父義時からは同腹の兄北条朝時と共に遠ざけられていた時期があったという。その上重時は仏頂面の容貌と金剛力士のような巨躯の持ち主であり、幼少時から剛毅な人柄で知られた。その為父北条義時も手を焼いており、女中の中でもとりわけ怖いおばちゃんを重時の乳母に任じ、自らにかかる負担を減らそうとした。しかしそのおばちゃんは鎌倉一の烈女といわれた極道の妻であり、その薫陶を受けた重時は成人するにつれ見る見るうちに極道になってしまったのである。自ら教育を放棄した手前、義時も何故かような育て方をしたのかと文句も言えなかった。
重時は豪胆な性格で知られ、北条家の武断派の一翼を担う存在であった。政治の駆け引きも得意であり、その才智と豪勇を見込まれて朝廷の監視を勤める六波羅探題に任命される。重時は公家や将軍九条頼経を相手に強硬な姿勢で臨み、時には恫喝も辞さなかった。西園寺実氏などは重時の恐ろしさを歌に残している。
しかし泰時からは頼りにされていたようで、泰時が重時に対して書き綴った恋文が今も現存しており、また吾妻鏡には二人が近親相姦していたことを示唆する記述も見られる。
極楽寺の建立者としても有名。元々極楽寺は深沢谷にあった念仏寺だが、御魂の加護を得るべく重時がパワースポットとして名高い地獄谷に移設した。この時重時は寺ごと片手で深沢谷から地獄谷に放り投げたと吾妻鏡には記されている。重時は僧侶の忍性を庇護し、彼に篤い信頼を寄せていたが、彼の死後、その忍性にまんまと極楽寺は乗っ取られた。
[編集] その他
六波羅探題、連署として宗家を良く支えたが、六波羅探題として長い間京都に在住していたため宗家の北条時頼からは朝廷との癒着を疑われ関係が疎遠であったとも言われている。また彼の長男北条長時は六代執権に就任しているが、本来ならば北条政村が6代執権になるところをゴリ押しで執権の座に長時をつけさせたため、政村との間に齟齬を招き軽い内紛を起こしている。政村流と極楽寺流はこの後も対立関係にあり、政村の嫡男北条時村が嘉元の乱で北条宗方に暗殺されたのは、裏で極楽寺流の一派が煽動した可能性が高い。
日蓮を弾圧した事でも有名。重時が庇護していた忍性と日蓮は犬猿の中であり、「日蓮を今すぐ殺さないと国が滅びる」と大げさに誇張された忍性の言葉を信じて重時は日蓮の草庵を焼き討ちにした。日蓮は難を逃れたが、この一件で北条家に強い怨恨を抱くようになり、後に北条時宗を散々痛罵し煩わせた。
極楽寺流の一門は門閥意識が強く、彼の息子である北条義政、北条業時は、宗家の極楽時流に対する処遇に不満を抱き、名越や反北条の公家と好を通じる気配を見せたこともある。こうして見ると重時は北条氏の栄達に貢献したというよりはむしろ宗家の足を引っ張り北条氏の内にしこりを残したような気がしないでもない。
[編集] 関連項目
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