北条綱成

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索

北条 綱成 (ほうじょう つなしげ、永正12年 (1515年) - 天正15年5月6日 (1587年6月11日)) は戦国時代の武将。元は今川家に飼育されていたアシカだが、幼少期に相模のショタコン北条氏康に拉致され、そのまま小田原城にお持ち帰りされて北条一門に加えられる。以降は北条家の武将として活躍した。

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「北条綱成」の項目を執筆しています。

生涯[編集]

元々は今川義元のペットであり、義元の蹴鞠の相手を勤めていたとの文献が残っている。蹴鞠の球を容赦なく顔面めがけて直撃させる義元との間に齟齬を起こして脱走した先で氏康に拉致された、或いは冬眠中に何らかの手法で氏康に連れ去られたとの説が主流だが、元々は今川家家臣福島氏のペットであり、今川家の後継者争いである花倉の乱で最初の飼い主福島正成らが粛清されて綱成は捕らわれ、この時一時的に今川家のペットにされ、その後北条との和睦の為の貢物として差し出されたとも言われるなど、北条家に拉致されるまでの経緯は判然としない。いずれにせよ、元服までには既に氏康の魔の手に落ち、その毒牙に罹っていた事は間違いない。顔に下心をむき出しにして迫る氏康に対し、物分りの良い綱成は抵抗することなくその身体を捧げた。やがて綱成は氏康と獣姦行為を重ねる内、その男気に惚れこむ様になってゆき、いつしか二人は決して途切れる事のない絆で結ばれるようになった。この二人の主従関係は、後世の調教師(アシカのみならず、あらゆる動物の)達の模範的存在となった。

綱成は武勇の誉高く、扇谷上杉氏との合戦などで各地を転戦、武功を重ね、さらに篤い信頼を得た。アシカのくせに。一時期はSMクラブばかりに通い少年誘拐などの奇行を重ねる氏康に代わり当主に据えようとする勢いもあったほどである。アシカのくせに。だが篤実な綱成はあくまで本家の補佐役に徹し、この誘いを辞退した。アシカのくせに人間以上に謙虚である。綱成は仲間のビーバーやラッコらに築城の幇助を要請し、荒川の中州に河越城を築城。関東攻略最前線の拠点とする。氏康は綱成の偉業を褒め称え貝殻500枚を与えたと言う。氏康の脳内ではラッコとアシカが混同されていたらしい。1546年、扇谷上杉、山内上杉、古河公方足利氏が大挙して押し寄せるが、自宅警備を十八番とする北条の将兵らは半年に及ぶ篭城戦にも軽々と耐え抜いた。この間綱成は玉乗りなどの曲芸を披露し城兵の指揮を日夜鼓舞したと言う。川の中州に聳え立つ天然の要害である河越城は容易には落ちず、綱成は城に生えていたイチョウから銀杏を採取し、川を渡って攻め寄せる城外の敵に投げつけて応戦。あまりの悪臭に敵は綱成の篭る河越城に近寄ることさえ叶わなかったと言う。そして敵勢が疲弊し、息抜きしている所、救援に駆けつけた氏康の部隊の馬蹄の音に即座に呼応し、連合軍を挟撃、暗闇の中奇襲を仕掛けられた敵は総崩れとなった。この戦は後に河越夜戦と呼ばれる。この夜討ちで綱成は果敢にも自ら先陣に立ち、巨大な玉に乗り戦場を駆け抜け、敵兵を悉く押しつぶしたと言う。この戦勝により北条氏は関東の覇権を手中に収めることとなる。無論、綱成が最大の功績者であった事は疑いようがない。アシカのくせに。この勝利によって綱成は「玉乗八幡」の異名を全国に轟かせる事となった。アシカのくせに。

その後も綱成は里見義堯武田信玄などの強豪を相手に合戦で活躍。1571年、敬愛する飼い主、北条氏康の逝去に伴い剃髪・出家。アシカのくせにどうやって頭の毛を剃ったんだ? その後隠居するも、病没するまで北条幻庵らと共に北条家を支えた。享年73、アシカにしては異常な長寿であった。アシカのくせに。

綱成の功績[編集]

綱成は戦国有数の戦上手として知られており、野生の勘ならではの奇抜な戦術、戦法を多種多様編み出して実践に用い、北条氏を勝利に導いた。

しかし綱成の最も賞賛されるべき功績は、氏康に水泳を骨の髄まで教え込ませた事であろう。何を隠そう、少年期の氏康は、浮き輪をつけても溺れてしまうほどのカナヅチであった。しかし綱成が水練を施したことにより、僅か2年足らずで人魚のように海原を遊泳し、綱成と水中で華麗に獣姦ができるほどになったのである。氏康にとって、水練の技術を身につけたことは、後の里見氏らとの合戦に多いに役立つところとなった。何より、弱点であるカナヅチを解消した事で、男としての株を上げたのである。その意味でも綱成は氏康にとって大恩ある武将と言えよう。

人物・逸話[編集]

  • 好物はサーモンと銀杏。就中、塩鮭の銀杏添えは大好物。部下にも銀杏を食うことを強要した。銀杏のあまりの臭さにショック死する部下もいたとか。
  • 彼をイメージした銀杏とアシカのマークは川越市のシンボルになっている。
  • 獣の姿では支障があるため30代半ばに整形を施し人間として生まれ変わった、しかし中途半端な整形であったため人魚になってしまったと言う逸話がある。
  • 元々は南極に生息していたが、慰安旅行に来た今川義元に気に入られ、お持ち帰りされた。
  • アシカだが足利氏とは全く関係ない。
  • 無論麻疹とも全く関係ない。しかし彼は斑模様のアシカであった。
  • 実はアシカではなくペンギンだったのではないかとも言われている。
  • 武器はモリであり、これを投擲して攻撃する他、サーモンハンティングの手段にも使っていた。
  • 天敵は熊である。

アシカ作戦[編集]

北条家は安房の里見家を滅ぼすため、房総半島上陸作戦、すなわちアシカ作戦を計画した。もちろんこの「アシカ作戦」とは、北条綱成が作戦の指揮を取る事によってついた名称である。結局北条家は制空権の獲得、沿岸防衛施設の破壊、里見水軍の壊滅という、上陸の最低条件を満たす事ができず、作戦は断念された。

だが、綱成としてはかなり未練があったようで、何としても作戦を再度実行したかったようだ。それに際しての演説が、今も残っている。

綱成の演説[編集]

諸君 私は戦が好きだ
諸君 私は戦が好きだ
諸君 私は戦が大好きだ

殲滅戦が好きだ 電撃戦が好きだ 打撃戦が好きだ 防衛戦が好きだ
包囲戦が好きだ 突破戦が好きだ 退却戦が好きだ 掃討戦が好きだ 撤退戦が好きだ

平原で 街道で 籠城で 草原で 凍土で 砂漠で 海上で 空中で 泥中で 湿原で
この地上で行われる ありとあらゆる戦争行動が大好きだ

戦列をならべた 騎兵の一斉突撃が 轟音と共に敵陣を 蹴散らすのが好きだ
死に物狂いで逃げようとした敵兵が 猛将の大太刀で真っ二つになった時など 心がおどる

弓兵の操る 大弓の火矢が 敵の櫓を撃破するのが好きだ
悲鳴を上げて 燃えさかる櫓から 飛び出してきた敵兵を 種子島でなぎ倒した時など 胸がすくような気持ちだった

槍先をそろえた 足軽の横隊が 敵の戦列を 蹂躙するのが好きだ
恐慌状態の若武者が 既に息絶えた敵兵を 何度も何度も刺突している様など 感動すら覚える

敗北主義の 逃亡兵達を磔台に 吊るし上げていく様などはもうたまらない
泣き叫ぶ虜兵達が 私の振り下ろした手の平とともに 突き上げられる大槍に 貫かれるのも最高だ

哀れな農民達が 雑多な農具で 健気にも立ち上がってきたのを
大筒の百匁弾が 都市区画ごと木端微塵に粉砕した時など 絶頂すら覚える

上杉謙信の越後兵に 滅茶苦茶にされるのが好きだ
必死に守るはずだった村々が蹂躙され 女子供が犯され殺されていく様は とてもとても悲しいものだ

豊臣秀吉の物量に押し潰されて 殲滅されるのが好きだ
豊臣の火縄銃にに追いまわされ 害虫の様に地べたを這い回るのは 屈辱の極みだ

諸君 私は戦を 地獄の様な戦を望んでいる
諸君 私に付き従う黄備え戦友諸君 君達は一体 何を望んでいる?
更なる戦を望むか? 情け容赦のない 糞の様な戦を望むか?
鉄風雷火の限りを尽くし 三千世界の鴉を殺す 嵐の様な闘争を望むか?

『戦!! 戦!! 戦!! 』

よろしい ならば戦だ
我々は満身の力をこめて 今まさに振り下ろさんとする握り拳だ
だが この暗い川越城で 半世紀もの間 堪え続けて来た我々に ただの戦ではもはや足りない!!

大戦を!! 一心不乱の大戦乱を!!

我らはわずかに一個大隊 千人に満たぬ敗残兵に過ぎない
だが諸君は 一騎当千の古武者だと 私は信仰している
ならば我らは諸君と私で 総兵力100万と1人の軍集団となる

我々を忘却の彼方へと追いやり 眠りこけている連中を叩き起こそう
丁髷をつかんで 引きずり下ろし 眼を開けさせ 思い出させよう
連中に恐怖の味を 思い出させてやる
連中に我々の 草履の音を思い出させてやる
天と地とのはざまには 奴らの哲学では思いもよらぬ事がある事を思い出させてやる
一千人の北条武士団で 関東を燃やし尽くしてやる

全艪漕ぎ出し開始 旗艦大安宅始動
離岸!! 全係船索 全錨 解除
「玉綱城代 地黄八幡より 全北条艦隊へ」
目標 房総半島 国府台城沿岸!!
第二次アシカ作戦 状況を開始せよ

征くぞ 諸君