北条氏照

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北条 氏照(ほうじょう てるのり)とは、戦国時代の武将。小田原北条氏三代目、北条氏康の子で、兄に四代目当主北条氏政、弟に北条氏邦北条氏規、そして氏照と濃密な関係にあったと言われる上杉景虎がいる。武勇に長けていたこと、秀吉からの従属命令に対して、兄氏政と共に強硬な態度を取ったことなどから、猪突猛進、タカ派の脳筋武将という印象が強いが、外交手腕も優れており、織田信長伊達政宗らとの折衝、同盟締結に尽力した紳士である。現代に生きていたら、きっと背広やタキシードが似合うキャリアマンであろう。

兄の氏政が二度汁のエピソードなどでマイナスの印象が強い事と、腐女子の聖典、「炎の蜃気楼」のおかげで、特に腐女子からは「兄よりも聡明で、勇壮で、カッコイイイケメン武将」として称賛されている。

人物[編集]

1540年、氏康の三男として誕生した氏照(幼名源三)は、北関東の豪族大石定久の下へ養子に入れられる。大石氏の跡取りとして武勇、学問の研鑽を積んで成長した氏照は、やがて大石氏を乗っ取り北条氏に併呑させる。同じく、北関東の豪族藤田氏の下に養子に送られた下の弟氏邦は、藤田氏の一族を粛清するという凄惨かつ粗暴な手段で藤田氏を乗っ取ったが、氏照は穏便に大石氏を乗っ取り、その後も大石一族を厚遇している。流石紳士である。

その後は父・氏康、兄・氏政と共に里見氏や武田氏との合戦に従軍、遮二無二奮戦し数々の武功を挙げる。武田氏との三国峠の戦いでは武田勝頼と一騎打ちを行い、激戦の末勝頼生け捕りに成功し、城に連れて帰ってヒーヒー言わせてやろうと企んでいたが、信玄に背後から奇襲されて逆に氏照が危うく貞操の危機に陥り、ドサクサに紛れて勝頼にも逃げられてしまった。その勝頼は後年、思わぬ形で氏照にこの時の仕返しをすることになる。

1570年、北条は上杉と同盟を締結するが、その際、弟三郎が人質として上杉の下に差し出されることとなった。氏照は三郎を入れても痛くないほど可愛がっており、人質に出す事に最後まで大反対したものの、氏政や他の兄弟達の説得によりついに妥協せざる終えなかった。人質に出されてからもなお、三郎の身を案じ度々手紙を出したりしていた氏照だが、事もあろうにその翌年氏政は上杉から鞍替えして武田勝頼と同盟を締結。当然上杉との同盟は反故されたこととなり、人質である三郎は殺されるのが必定であった。兄のあまりの仕打ちに氏照は憤激し、氏政と口論、果ては乱闘にまでなり、暫く兄弟仲は険悪なものとなった。

しかし、義の人こと謙信は三郎に憐憫の情を抱いて彼を厚遇、自分の嘗ての名である「景虎」の名を与えた。景虎は聡明で眉目秀麗な人物であったことから人望を集め、世継のいなかった謙信の後継者の最右翼候補とさえ言われるほどになった。この風聞は関東にも伝播し、氏照は弟が謙信から厚遇されていることを知り安堵し、また越後の諸将に慕われている事を誇らしく思っていた。

1578年、謙信が急死すると、後継者を巡って、景虎と上杉景勝との間で御家騒動、所謂御館の乱が勃発する。当然のことながら、北条氏は自らの弟である景虎の側に与する。愛する弟の危機に氏照は兄氏政に援軍を派遣する事をしきりに督促したが、険峻な山と冬季の豪雪に遮られ進軍が難儀すること、里見、佐竹など他の敵対勢力への対策なども勘案して氏政は消極的にしか行動しなかった。兄の消極的態度に激昂した氏照は自分の手勢を率い、上野、北信の峠を越えて弟の救援に向かおうとしたが、登山セットを整えていなかったため頓挫した。そうこうしている内に同盟関係にあった武田勝頼が黄金に篭絡され景勝側に寝返り、武田と上杉に挟撃された景虎は進退窮まって自害した。愛する弟が非業の死を遂げた事で氏照は悲嘆し、二、三年ほど居城の八王子城に篭りっぱなしで氏政の招集命令にも応じないほど憔悴してしまった。

この後、氏照は弟の命を奪った上杉景勝、並びそれに加担した武田勝頼を不倶戴天の敵を忌避し、彼らを「潰す」ことにあらゆる権謀術数を尽くすようになる。織田信長に鷹を献上するなどして誼を通じ、勝頼を挟撃する包囲網を調えたり、北の伊達や蘆名と連携を図り上杉景勝に東南から攻撃を仕掛けた。武田勝頼が小山田信茂に土壇場で背信され、天目山で自害したというのは有名な話だが、北条方の一部史料には、妻の実家である北条を頼って関東に入ったところ、待ち伏せていた氏照に殺されたと記されている。真贋は定かではないが、それだけ弟の仇として勝頼を憎悪していたのだろう。

勝頼は死に、弟の仇は上杉景勝一人となった。その景勝も、織田、北条に挟まれ風前の灯であった。しかし、ここで本能寺の変という思わぬアクシデントが発生し、信長が頓死したことで景勝は窮地を脱する。信長の死後、彼が切り取った甲信地方は上杉、北条、徳川が入り乱れて角逐し、やがて西国を席巻した秀吉が惣無事令を発布、徳川、上杉は恭順するが、これに叛いた北条が小田原征伐を受け、滅亡すると言う形で関東、甲信における闘いは収束する。

この過程で、氏照は秀吉に対して徹底抗戦を主張した。何故かと言うと、弟の仇である上杉景勝が秀吉に恭順していたからである。弟の仇と肩を並べるなど、ブラコンの氏照にとっては耐えがたきことであった。織田信長や伊達政宗と度々交渉を執り行い、時流を見る目があったはずの氏照が秀吉への恭順を徹底して拒んだのも、全ては景勝憎しによるものである。その最期についても、通説では兄、氏政と共に切腹して果てた、ということになっているが、実際はもっと凄惨であり、味方の兵を装って上杉景勝の陣に忍び込み、指呼の間まで正体を偽り、にじり寄ってから斬りかかるも、感づかれ、景勝と直江兼続二人との斬り合いの末斃れるという壮絶な最期であった。享年五十一、ただひたすら弟の為に生き抜いた生涯であった。

尚、何故この史実がさほど浸透していないのかというと、易々本陣に敵の侵入を許したという、景勝のみっともない醜態が露顕することを恐れた上杉家臣が「火消し」に躍起になったためである。

評価[編集]

黒田基樹小和田哲男などの歴史家達は、概ね「武将としての器量は申し分なかったが、弟の三郎景虎を溺愛し過ぎていたがゆえに視野狭窄に陥り、対極的な判断が出来ずに北条氏滅亡の一翼を担ってしまった」と指摘し、北条の家より弟の身を案じた氏照の唯一にして最大の瑕謹さえなければ、北条氏は間違いなく天下を統一できていたであろうと悲嘆している。戦国好きの腐女子の間では一途に弟の身を案じた良き兄として人気が高く、「氏照兄」という愛称で親しまれ、あるいは崇拝されており、同人界での人気は後北条氏の中でも一頭地を抜いている。八王子城跡にある氏照の墓には、いつも参拝に訪れる学会員腐女子が蟻のように群がり立錐の余地もないほど雑駁している。

景虎を結果的に見捨てたことで関係に一時深い亀裂が生じてしまったものの、兄氏政とは概ね良好な中であったらしく、兄の片腕として彼を盛り立て、後北条氏の隆盛に尽力した。後北条氏を語るに置いて欠かせない人物なのだが、大河ドラマでは毎回存在をスルーされている。登場が期待された天地人でも全く登場しなかった。おそらく、景虎を溺愛していた氏照を登場させると、視聴者が一応は敵役である景虎に感情移入してしまい、主人公である兼続や景勝が悪役のように見られてしまうことを憂慮した小松大先生の大英断であると考えられる。

氏照が拠点を置いた八王子城は甲信地方と関東平野の玄関口であり、必然的に氏照の率いる軍団は武田と干戈を交える事が多かった。その氏照の弁によると、「武田騎馬軍団とか言ってるけど、こっちの方が騎兵の数が遥かに多かった」らしい。

一部強烈な氏政フリークからは「氏照兄じゃなくて氏照は弟だろ」「氏政の的確な指示出しがあったからこそ活躍できただけ」「真の実力者は氏政」といった負け惜しみのような声も聞こえる。

参考文献[編集]

  • 「炎の蜃気楼」(桑原水菜)