北条時房

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北条 時房(ほうじょう ときふさ)は鎌倉時代前期の政治家。初代連署。2代目執権北条義時の弟。通称は相模五郎。良く言えば臨機応変で誰からも好かれる好人物、悪く言えば八方美人で腹黒野郎、兄貴の走狗。いずれにせよ有能な人物であることに変わりはない。

母親は不明、妻は足立遠元の娘である(彼女との間には大仏流2代目当主北条朝直を設けている)。

生涯[編集]

1175年、北条時政の三男として生まれる。三男なのに何故か通称は五郎であった。尚兄の義時は次男なのに四郎、石橋山の戦いで戦死した長兄宗時は長男なのに三郎である。おそらく宗時の上にも史料から抹殺された太郎と次郎の男子二人がいたと推測される。

軟派な青年時代[編集]

少年時代の時房は軽薄で軟派な人物で、蹴鞠が大好きという絵に描いたような放埓な三男坊だった。しかし人当たりのよさのおかげで高い社交性が涵養され、幅広い人脈を築き、北条氏と他氏との間のパイプを構築するのに貢献した。1189年、三浦一族の佐原義連を烏帽子親に元服、義連から一文字を拝領して時連(ときつら)と名乗る。時連にとって義連は弓術、馬術の師で、指南を受ける一方両者の間には肉体的な関係もあったとされている。時連と義連の交流は、ひいては北条氏と三浦氏の関係を円満にさせ、後の北条氏の政治基盤の安定化に繋がった。

1199年、源頼朝が死去し、嫡男頼家が2代将軍となると、時連は側近として頼家に近侍するようになる。この頃頼家の愛妾若狭局の父親である比企能員が将軍の岳父として権勢を拡大し、頼家と若狭の局の間に嫡子一幡が誕生すると比企一族は益々幅を利かせていき、反面北条氏は疎外されていた。

時連は北条氏の中では一番頼家の覚えがよかった。端的に言えば、時政や義時のような狡猾さがなく、篭絡しやすい単純な奴と頼家から思われていたのである。時房は北条家の地位向上の為色々手を打ち、比企氏に掣肘を加えねばならないところを、何と比企の息子達とつるみはじめ、共に酒宴や蹴鞠に興じて遊び惚ける体たらくであった。時政は憤慨し、時連を放逐しようとまでしたが、義時に説得されて思いとどまった。

比企の息子達と蹴鞠に興じている最中、比企能員の三男三郎から「時連の「連」という字は八色の姓で下から二番目の連に該当するから出世に縁起が悪い、いっそのこと紀貫之から一文字とって「時貫」に改名してはどうか」と提案された時連は勝手に名前を時貫と改めてしまう。この改名に自分の与えた一文字を捨てられた佐原義連は激怒して義時に訴え出た。義時も弟の勝手な改名に「比企の郎党にそそのかされて改名するとは何事だ!」と憤り、時貫は罰として「アホウの守(安房守)」に任ぜられた上、「アホウ(安房)」から一文字とって時房に改名させられた。ちなみに佐原義連はその1年後嘆きのあまり憤死したという。

有能で忠実な兄貴の駒に豹変[編集]

そんな時連、改め時房だが、義時に叱責されて改心したのか、ここから端倪すべからざるしたたかさを発揮する。1203年、幅を利かせていた比企能員は北条氏の命を受けた仁田忠常によって暗殺され、比企一族も北条時政義時に屋敷を奇襲され滅亡した。

この時比企能員を誘い出して殺し、比企の屋敷を襲撃する提案をしたのは、義時と、比企の息子達とつるんで遊んでいた時房であった。比企の屋敷に向かった時房は一緒に酒でも飲まないかと言って門を開けさせると郎党を率いて屋敷内へなだれ込んだ。比企の息子達は飲み仲間である時房に殺されるなどとは思ってもいなかったようで武装も何もしておらず次々に討ち取られていった。

これ以降、時房は兄義時の忠実な狗(イヌ)として北条氏の栄達の為に邁進してゆく。畠山重忠の乱、父北条時政の追放、和田合戦と、義時に従い彼を輔佐し、遠江守、武蔵守、政所別当と飛ぶ鳥を落とす勢いで出世する。この間、祖父であり、義父でもある足立遠元に対して「このままでは貴方も梶原や比企のように血祭りに上げられますよ」と言って穏便に隠遁に追い込むという、人情味溢れる話が伝わっている。

承久の乱における活躍[編集]

3代将軍源実朝が暗殺され、源氏の直系が途絶えると、皇族から将軍を迎え入れるという義時の命を帯び上洛、しばらく在京して交渉に当たるが頓挫し、代わりに九条家の三寅を連れて鎌倉へ帰る。時房は在京中に公家達とも親睦を深め、度々蹴鞠に興じた。

人柄の良さから後鳥羽上皇や公家衆の覚えも良く、懇ろな関係を気付いており、この後後鳥羽上皇が摂津長江、倉橋荘の地頭を廃止するよう院宣を下してきた時には、義時は時房を交渉に当たらせている。上皇の時房に対する信頼は相当のものだったようで、承久の乱の際、上皇は各地の武士に北条を離反して自軍に与するよう綸旨を飛ばしたが、綸旨が送られた御家人の中には時房も含まれていた。上皇は時房が兄を離反して自分についてくれると本気で期待していたようだ。だが上皇は肝心な事に気付いていなかった。

時房は義時のイヌである。


後鳥羽の期待の反して、時房はむしろ上皇討伐の急進派として積極的に活動した。「吾妻鏡」によると、時房は御家人達を前に「院宣?そんなもんトイレットペーパーにして糞と一緒に肥溜めに捨ててしもうたわ!」と叫び、東国武士達を奮起させたと伝わっている。時房は甥の北条泰時と共に京都へ進撃して上皇軍を蹴散らし、承久の乱を制する。戦後処理の後は六波羅に別荘を構えて泰時と共にしばらく京都に居座った。これが六波羅探題の始まりである。

だが別荘生活は長くは続かなかった。鎌倉で兄義時が急逝したため、時房は泰時と共に帰還。泰時が執権に就任すると、泰時から執権の輔佐役である連署に任ぜられる。以降、時房は義時のイヌから泰時のイヌとなり、泰時との二人三脚で鎌倉幕府の基盤を築いてゆく。1240年に卒中に倒れ死去したという風聞が京都を中心に飛び交ったが、実は己の死後の世評がどんなものか聞くため死んだふりをして隠遁していたことが「増鏡」により暴露された。隠遁後の時房は酒飲み三昧の享楽的生活を送り、2年後、共に辛酸を舐め支えあった泰時に僅かに先んじてひっそりと世を去った。

兄義時、甥泰時を支え、北条政権を磐石にした時房は、賢弟の模範として後世顕彰されたが、時房の後裔大仏流は、時房がこれだけの業績を残したにも拘らず北条氏の中での家格は一番下に置かれていた。これを不満に思った孫の北条宣時が「鎌倉は得宗殿(義時の法名)の子供(極楽寺流政村流など)が幅を利かせている」と皮肉ったことから「得宗専制」という言葉が生まれた。

人物[編集]

時房という人物の不思議なところは、つまるところは義時、泰時の走狗であるのに、全く卑屈さを感じさせず、周囲からは全然走狗と思われていなかったことに尽きる。比企能員の息子達や後鳥羽上皇は、最後まで時房は自分の味方だと信じていたし、和田合戦で滅びた和田義盛も、時房の合力を期待していた節が有ると言う。彼の人徳と高い社交性の為せる業である。

逸話[編集]

  • いくつかの史料によると、時房は少し変人の気があったと伝わっている。時房の変人っぷりが端的に現れている逸話としてこんなものがある。北条泰時が病で重篤な状態にあった時、泰時が寝ている向かいの邸で時房は御家人達と酒宴を催していた。常識的に考えればこのような行動はあまりに不謹慎である。が、この話には続きがあり、時房が向かいの邸で酒宴を催しドンチャン騒ぎをやったところ、泰時の病状は日に日に平癒していったと言う。人々は時房の馬鹿騒ぎが泰時の身体に蔓延る病魔を退散させたと称揚した。褒められた時房は調子に乗り、「健康に気を使うとむしろ病が寄ってくる、病魔を退けるにはむしろ飲んだほうがいい」とおかしな理論を展開し、大酒を飲むことを奨励し、自らも飲みに飲みまくった。その結果、2年後に脳卒中でポックリ逝ってしまった。
  • 時房には何人かの息子が居たが、家督を継承したのは四男の北条朝直である。長男北条時盛は別家(佐介流)を立て、次男時村、三男資時は突如出家した。三人とも時房の変人ぶりについていけなかったと推察されている。