北条早雲

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北条早雲(ほうじょう そううん)とは、戦国武将・戦国大名。いわゆる「下克上」と呼ばれる風潮の先駆け的存在であるが、織田信長とは時間的に遠い時代に亡くなってしまったことから、イマイチ知名度に欠ける人物である。

など、「北条早雲」は本名ではないのだが、面倒くさいので本ページでは「早雲」と呼ぶことにする。こまけぇこたぁいいんだよ!

概要[編集]

下剋上に象徴される戦国時代の申し子(ほか斎藤道三松永久秀が有名)であるが、織田信長とか豊臣秀吉とかと比べるとガクンと知名度がおちる。肖像画なども剥げたおっさんと描かれていることが多いので、多分歴女の大半は全く知らないだろう。

生涯[編集]

生誕[編集]

(1456(康正2)年 - 1519(永正16)年9月8日(旧8月15日))とか諸説あるが、誰も気にしない。本名は伊勢盛時(いせ もりとき)で通称は新九郎(しんくろう)、後に出家して宗瑞(そうずい)と号した。「北条」という姓を名乗るようになったのはかつて鎌倉時代に権勢を振るった執権北条氏にあやかるためであると言われている。まぁ、改姓したのは息子の氏綱からであって、本人は生涯「伊勢」で通している。名乗れなかったのか、あえて名乗らなかったのか、そのへんは良く分からない。

桃園の誓い(のパクり)[編集]

備中荏原荘の出身であるとされる早雲、通称ドック(先生)は、代々室町幕府の政所執事をつとめた伊勢氏の末裔を名乗っていたが、実際は単なるごろつき上がりの浪人気取りであり、当時の悪童仲間にして後に家臣となるグランピー(おこりんぼ)、スニージー(くしゃみ)、スリーピー(ねぼすけ)、バッシュフル(てれすけ)、ハッピー(ごきげん)、ドーピー(おとぼけ)らを引き連れて遠路伊豆へと旅立った。北条厨は「源頼朝にあやかって関東に天下統一の地盤を築くため」としているが、実際は放蕩三昧が過ぎたために故郷にいられなくなっただけの事である。後北条氏の人間は征夷大将軍に任官しようとした形跡が全くなく、執権の北条姓すら名乗ろうとしなかった早雲には、幕府を開く意思などこれっぽっちもなかったであろう。が、そんなことを気にしていては天下など奪れないというものである。

旅立ちに当たって7人は酒宴を開き「我ら愉快な仲間たち、生まれた月日は違えども、志遂げる日や必ず倶(とも)にせん。一人一国一城領せん時は、六人ことごとく従わん」という誓いを立てたとされているが、結局そんなものは後づけに過ぎないことは歴史が証明する例に洩れないことは言うまでもない。ていうか、三国志の桃園の誓いとかなんかのパクリだよな。ともあれこの七人は終世仲良く主従関係を保ち、北条氏ゆかりの彼らを称えて「御由緒六家」と人々は呼んだのであった。

魔神英雄伝ソウウン[編集]

こうして早雲は志を立てたものの、特にやれる事もなかったので、たまたま妹(姉という説もあるがここでは妹で統一する)の嫁ぎ先だった今川家に転がり込む。だが、いくら戦国の世とはいえ、素浪人の家から、んな玉の輿がでるとは流石にご都合主義がすぎる。よって真実は、ガチの素浪人ではなく、そこそこ家柄のいい小金持ちの若造であったと思われる。それが愚連隊のようなものをやっていたのだろう。三国志劉備とかと似たようなもんだな。

これだけなら単なる居候と終わってしまうところだが、まるで見計らったかのようなタイミングで、妹の旦那である今川義忠が戦死。ここぞとばかりに跡目争いに首を突っ込んだ早雲は、反対勢力を叩き潰し、あるいは巧みに和睦し、義忠の嫡男「龍王丸」という甥っ子を、跡取りの座につけることに成功。そして自分はちゃっかり後見人の座におさまり、実権を握ってしまった。

この時点で既に旧・今川義忠の領地は早雲の手に落ちていた、といっても過言ではないだろう。

茶々丸無惨[編集]

名義上は甥っ子のものとはいえ、実質的な領土と戦力を手に入れた早雲は、ただちにその領土拡大のための侵略を開始する。当時まだ戦国時代は始まったばかりであり、先祖からの土地と役職を受け継いだだけの二代目三代目社長か政治家のようなボンクラ大名や管領など、後の戦国大名の先駆けともいえる早雲の敵ではなかった。

まず新九郎が目を付けたのは隣接する伊豆の堀越公方「足利茶々丸」だった。名前から分かる通り、この茶々丸はまだ成人しておらず、日本史にはよくある「名ばかりの公方」だったため、早雲の野望など全く察知できていなかった。早雲は、茶々丸が山内上杉氏の要請で上野国に出兵したところで、伊豆に陸と海の二面から攻め入り、茶々丸を簡単に滅ぼした。

この戦いは、「敵が留守にしたスキに空き家を狙う」というシンプルな作戦で伊豆国をかすめ取ったため、のちに「シンプル伊豆ベスト」と絶賛されることになる。

猿×提灯×小田原城[編集]

伊豆をおさえて喜び踊る早雲だったが、彼の野望はまだまだこんなものではなかった。

当時の関東管領だった上杉氏は身内同士の争いに忙しい内部分裂状態でもっけの幸い。早雲はこれを次のターゲットに定めた。

とはいえ、仮にも相手は関東管領。その力はいまだ侮りがたく、迂闊に攻め入れば、逆にその結束を促すことにも成りかねない。

早雲はまず外縁勢力の切り崩しを開始した。その矛先が向けられたのが、大森藤頼がおさめる小田原城。足利茶々丸と同様のボンクラ跡取りだった藤頼に対して、早雲はまず貢ぎ物などの外交戦略をもって懐柔に成功。さっそく早雲は「狩りをしたいので鹿を追い立てるための勢子を領内に入れさせて欲しい。」と申し出る。藤頼が二つ返事でこれを了承すると、早雲は勢子に擬装させた精鋭を藤頼領に山中に潜伏させる。そして夜の小田原城城下に、山中で捕らえた数百匹の提灯をぶら下げ、一気に解き放った。

城下が無数の提灯で賑わっていることに気づいた藤頼は、領民が祭りを開いていると勘違いし、屋台の鯛焼き綿飴目当てに城下に繰り出してしまう。これを猿の中に紛れ込んでいた精鋭達が生け捕ることに成功。

ほぼ同刻、早雲率いる主力部隊が小田原城を強襲する。城主のいない小田原城は抵抗できず、早雲の手に落ちた。

その後[編集]

その後は色々あってあっちこっちで戦争しまくって相模を手に入れたんよ。そんで死んだ。

関連項目[編集]

Wikipedia
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