北大路魯山人
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北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん、男性、1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は日本の芸術家であり美食家、在日ロシア人。日本人には魯山人よりも魯山人の愛弟子の方が何故か知名度が高い。
[編集] 美食家として
オオサンショウウオを煮込んで食ったり、タニシを生煮えで食ったり、 ニホンザルの肉を食ったりと、凄まじく食の幅が広い食通として知られる。マジで。
中でもフランスはパリの高級レストラン、トゥール・ダルジャンで、出された鴨を わさび醤油で食べた一件は有名である。
トゥール・ダルジャンでは本格的に鴨に調理をする前に、半生状態で火が通った鴨を見せて 「アンタは金だけ出してカモられる客じゃありませんぜ」という事を示す風習があるそうなのだが (俺もそこで食った訳じゃないんで伝聞だよ畜生)、そこで魯山人はおもむろに御付きの者に オリーブの首飾りをラジカセで流させ、卓上にふぁさりとハンケチを落とすと、 そこから自作の醤油指しを何もない処から登場させてパリっ子を驚かせたのは有名な話である。
え?フランスにはわさびが無い?ああ、それなら卓上の酢で粉わさび練って作ったの。粉わさび(笑)
また、ツンギレ眼鏡っ子としても知られ、魯山人風すき焼きを「シャブスキー」として 勝手に改名した山岡士郎、その父親である海原雄山に「制裁っ…制裁っ…!」と 激怒し、すき焼き鍋で額をすき焼き土下座させたことでも知られる。
[編集] 陶芸家として
芸術家としての魯山人だが、ろくろ仕事はかなりを専門の職人にやらせていたという説がある。 というか魯山人の生涯作品数は小物やセットを逐一数えると数千点に上るので、さすがに一々全てを 自作はしてらんねえのである。つまり、村上隆のようにプロデューサーとして職人を監督し、 最後の仕上げというオイシい部分を〆ていたという事になる。あまりに多作の為に税金払うの 忘れて、税務署に踏み込まれた事もあるくらい多作なので、意を汲んであげて欲しい。
学校には旧制小学校までしか通っていないが、濫読をしていた為に意外と博識である。 具体的には呉学人くらい博識であったといわれ、逗留先の金沢で、篆刻を学ぶ者なら 必携とされるある書物を読んでいない事を指摘されて「わしのおごりだ…」と負けを認めるくらい。
[編集] 美術評論家として
魯山人は、主に自らが主宰する料亭「星岡茶寮」が発行するミニコミ誌上にて多くの美術論を ぶち上げているのだが、その殆どが古美術(とパトロンの書蹟)を礼賛し、同時代の美術作家を ディスりまくるものである。
「轆轤引きを4、5年もやれば陶芸的に完成するだろう。」
「俺の作品に日本の美を感じない奴は二度と日本美術の本質に触れられない」
「北大路家は代々カンヌシの魂を持った家系」
「夢はでっかく持ちたいからアメリカ進出♪ 言葉の壁はないから……(実際、個展を開催) 向こうでどこまでやれるか試してみたい。向こうの奴らは日本人をバカにしてる所があるからね。 日本人をなめるなよって所見せたい」
「俺、昔、帝展受かったんですよ。でも日本の書道なんてウゼーと思って……」
「俺は本場の書蹟を見て修行したから、中途半端な書だけは絶対見せられない。」
「今好きな人?いない…いや、ひとりだけいる。良寛さま」
「良寛さまはもっと評価されていい。「聞之則卒」の筆跡は、俺にも書けない」
「本当の陶芸は高麗でもなく明朝でもなく桃山にある」
「古田織部が生きていたら、俺に嫉妬しただろうか」
「加藤唐九郎も荒川豊蔵もオレの星岡茶寮時代の舎弟だぜ。 ピカソだったら個展の前座に出展(だ)してやってもいいかな」
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