北大路魯山人

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北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん、男性、1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は日本の芸術家であり美食家でロックアーティスト、在日ロシア人。日本人には魯山人よりも魯山人の孫弟子の方が何故か知名度が高い。

美食家として[編集]

オオサンショウウオを煮込んで食ったり、タニシを生煮えで食ったり、ニホンザルの肉を食ったり、朝鮮半島に渡ってを食ったりと、凄まじく食の幅が広い食通として知られる。マジで。

オオサンショウウオだの生煮えのタニシだのニホンザルだの軒先に吊るしてある巨大なイノシシだの物騒なものばかり喰っているように思われているが、中でも特筆すべきは朝鮮食べ歩きである。

1908年(明治41年)に魯山人は、何を思ったか妻子を置いてけぼりにして、朝鮮半島に渡って日本の韓国統監府で働きながら現地の古碑を鑑賞し、その後上海まで墨蹟と篆刻の名品を見て回っている。その当時の思い出として、「朝鮮の飯は不味かったが、鯛だけは旨かった」と書き残している。

だがその当時、朝鮮半島の衛生状況は極め付きにあれあれであり、日本から外交使節として朝鮮に渡った明治政府の役人が、李氏朝鮮政府から歓待を受けた飯のあれあれっぷりに、食中毒で亡くなっているという惨状であった。

その朝鮮半島に長期間滞在し、極め付きにあれな衛生環境の中で様々な飯を現地で食べ歩いておいて「朝鮮の飯は不味かった」で済ませておく魯山人の鉄の胃袋は脅威と言うほかない。魯山人の強靭な胃袋は、朝鮮での修行において養われたと言えよう。

そうした魯山人の美食に関する逸話としては、フランスパリの高級レストラン、トゥール・ダルジャンで、出された鴨をわさび醤油で食べた一件は有名である。

トゥール・ダルジャンでは本格的に鴨に調理をする前に、半生状態で火が通った鴨を見せて「アンタは金だけ出してカモられる客じゃありませんぜ」という事を示す風習があるそうなのだが(俺もそこで食った訳じゃないんで伝聞だよ畜生)、そこで魯山人はおもむろに御付きの者にオリーブの首飾りをラジカセで流させ、卓上にふぁさりとハンケチを落とすと、そこから自作の醤油指しを何もない処から登場させてパリっ子を驚かせたのは有名な話である。

え?フランスにはわさびが無い?ああ、それなら卓上の酢で粉わさび練って作ったの。粉わさび(笑)

また、ツンギレ眼鏡っ子としても知られ、魯山人風すき焼きを「シャブスキー」として勝手に改名した山岡士郎、その父親である海原雄山に「制裁っ…制裁っ…!」と激怒し、すき焼き鍋で額をすき焼き土下座させたことでも知られる。

魯山人のツンギレっぷりを表すものとしては、作品社が出版している日本の名随筆26「肴」の中の魯山人の文章を読むとよくわかる。「酒の肴」に関する著名人の名随筆を集めたもののはずなのに、なぜか魯山人だけ「日本料理を作るやつでも(俺様を除いて)碌な奴がいないが、日本料理を食う側にも碌な奴がいない。魚を焼いて添え物に牛蒡を置くと、この牛蒡を残す馬鹿が本当に多い。しかしこれは京都で取れた大変よい牛蒡なのだ。アホちゃうか」と、酒の肴のうまい食い方などには一切触れずにただ一人で愚痴っている。死後編集されたものではあるが、こんな文章をあえて選んで載せる池波正太郎もさすがである。

ぶぶ漬けと納豆と雑炊[編集]

魯山人は、京都上鴨生まれの生粋の京都人であったが、お茶漬けに対するタブーを全く感じさせないお茶漬けマニアであった。

京都人にとって「ぶぶ漬けでも、どうどすか?」は「さっさと帰れこのKY」を意味する最大級の侮蔑を意味し、それを本当に出された時点で京都人としての退転を誤った事に他ならない。

ぶぶ漬けを本当に出されてしまった瞬間、例え口にしなくとも近所中から「ややわぁ、あの人ほんまにぶぶ漬け出されるまで居座らはって」と陰に日向に囁かれ、事実上、京都、特に洛中から居られなくなることを意味する。

だが生来KYなところのあった魯山人にとってそうしたお茶漬けに対する恐怖心はなく、むしろお茶漬けは純粋に味を愉しむための料理として昇華されていく。中でも、普通の食通ならスタンダードな食べ方でしか怖くて食べられない様な食材を敢えて佃煮にするような、チャレンジングな食べ方を好んだ。

具体的には、最高級の活けクルマエビをそのまま酒と生醤油で二時間ほど煮てクルマエビの佃煮にし、その佃煮を飯の上に乗せて煎茶を掛けて供するクルマエビの佃煮茶漬けや、清流に棲む小型のカジカである超高級魚、鮴(ゴリ)の佃煮茶漬けなどである。

また、更に恐るべき点として、京都人、すなわち関西人でありながら、魯山人は納豆を平気で食した。恐らくは先述の朝鮮修行時代に大抵のものは旨い不味いに関わらず喰おうと思えば喰えるようになったと考えられる。

魯山人は納豆をよく練ったものを、茶漬けにしたり雑炊にしたりと納豆の臭いを全く恐れることなく愉しんでいる。元々魯山人は京都ではなく金沢で料理の修業をしただけあって、全く意に介していなかったと思われる。

そして最も恐るべき魯山人の美食遍歴とは、何を隠そう雑炊である。先程、魯山人が納豆を雑炊にして食していたことは既に述べたが、他にも数十種類の雑炊を愉しんでいた事が挙げられる。その中でも特記すべきものを挙げる。

・もち雑炊…お粥の中にを入れて雑炊にして食べる。炭水化物の重複を意にも介さない、魯山人の関西人の片鱗を見せた一品。

・若鮎の雑炊…「鮎は塩焼きに限る」と名言しておきながら普通に雑炊にしても食べている。汚いなさすが魯山人汚い。

カレー雑炊…この雑炊について挙げたのは1939年、今から約70年前のことである。戦前にカレー雑炊とは、魯山人の始まりすぎな一面が伺える。

・木の芽雑炊…もはや魯山人の前には、ありとあらゆる木の芽が雑炊の具材と化す。

このわたの雑炊…どのわた?

独活の雑炊

他にも牡蠣やら猪肉やら蟹やらナメコやらの雑炊のレシピが存在するが、普通の雑炊なので殊更には述べない。ちぇっ。

陶芸家として[編集]

芸術家としての魯山人だが、ろくろ仕事はかなりを専門の職人にやらせていたという説がある。というか魯山人の生涯作品数は小物やセットを逐一数えると数千点に上るので、さすがに一々全てを自作はしてらんねえのである。つまり、村上隆のようにプロデューサーとして職人を監督し、最後の仕上げというオイシい部分を〆ていたという事になる。あまりに多作の為に税金払うの忘れて、税務署に踏み込まれた事もあるくらい多作なので、意を汲んであげて欲しい。このような制作形式のために、魯山人の死後も数年間にわたって、窯の中の人が魯山人の銘を勝手につけて量産し売りまくられていたという事実もある。そのため、魯山人の陶器は本物であることはもちろんだが、いつ頃作られたものなのか(本当に魯山人本人が生きている時代に作られたものか)の鑑定が非常に重要になっている。

学校には旧制小学校までしか通っていないが、濫読をしていた為に意外と博識である。具体的には呉学人くらい博識であったといわれ、逗留先の金沢から足を伸ばした富山で、篆刻を学ぶ者なら必携とされる書物を全然読んでいない事を指摘されて「わしのおごりだ…」と負けを認めるくらい。おかげで、「富山だけは二度とごめんだ」とまで富山に対してビビっていた。

美術評論家として[編集]

魯山人は、主に自らが主宰する料亭「星岡茶寮」が発行するミニコミ誌「星岡」などで多くの美術論・時評をぶち上げているのだが、その殆どが古美術(とパトロンの書蹟)を礼賛し、同時代の美術作家をディスりまくるものである。そのディスりっぷりは後世のラッパーにも大きな影響を与えたとされ、かのお塩大先生もその言行に影響を受けているとされる。

「轆轤引きを4、5年もやれば陶芸的に完成するだろう」

「俺の作品に日本の美を感じない奴は二度と日本美術の本質に触れられない」

「北大路家は代々カンヌシの魂を持った家系」

「夢はでっかく持ちたいからアメリカ進出♪ 言葉の壁はないから……。向こうでどこまでやれるか試してみたい。向こうの奴らは日本人をバカにしてる所があるからね。日本人をなめるなよって所見せたい」

「俺、昔、帝展受かったんですよ。でも日本の書道なんてウゼーと思って……」

「俺は本場の書蹟を見て修行したから、中途半端な書だけは絶対見せられない」

「今好きな人?いない…いや、ひとりだけいる。良寛さま」

「良寛さまはもっと評価されていい。「聞之則卒」の筆跡は、俺にも書けない」

「本当の陶芸は高麗でもなく明朝でもなく桃山にある」

古田織部が生きていたら、俺に嫉妬しただろうか」

「加藤唐九郎も荒川豊蔵もオレの星岡茶寮時代の舎弟だぜ。 ピカソだったら個展の前座に出展(だ)してやってもいいかな」

徳川さん、字ぃ上手いっすよね~。おれは帝展一席だったんすよ~。弟子は金沢・美濃・鎌倉なんかに5~600人はいますね~。今でも街歩いてると見知らぬ書家から挨拶されますよ~」

御舟さん、絵は上手いみたいですけど、字は下手っすね~(笑)」

「三歳頃、義母と上賀茂神社の裏山、神宮寺山のツツジ見に行った時、将来こういう美しいものを作る男になりたいと思った」

「向こうではいろんな書体をやらせるんだよ。篆書でも隷書でも学校で習わさられるの。でも篆刻は日本に来てから始めたもの。楷書やろうとしたら著名な書家に弟子入りしろって言われて、それが嫌でさ(笑)」


え?こんなの嘘だって?ありえないって??

魯山人は死後五十年が経過しているので、書いたものの一部は青空文庫で公開されているよ!

読むなよ![編集]

決して読むなよ![編集]

海原雄山.jpg 女将を呼べッ!なんだこの北大路魯山人は!!
よくもわたしの前にこんなシロモノを出したな!
今すぐ作り直せ!!ジュンサイの旬は初夏だ! (Portal:スタブ)