勝海舟

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「ろまんち?」
勝の美学 について、山岡鉄舟
「彼は英雄?いいえ、道化です。」
勝海舟 について、徳川慶喜

勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日1823年3月12日) - 明治32年(1899年1月21日)は、幕末期のピエロ。英雄になりたいという利己心で学問を学び、幕閣になり、咸臨丸アメリカまで渡った男。そういう点では国のためとか綺麗言言ってる他の連中とは違うのさ、とは本人の弁。自称19世紀で一番のロマンチシストで、「ロマンの無い奴は人間の屑だ」という彼の言葉は、後に夏目漱石に「こころ」の中で「向上心の無い奴は屑だ」とパクられるほどの名言となった。しかしそのロマンチシズムも他人から見れば変節漢の風見鶏にしか見えなかったようで、福沢諭吉先生などからは特に嫌われ、批判された。勝本人もこれらの批判に対し「俺は英雄になりたいという自分の夢の為にしか動かなかった。幕府や国がどうなろうが知ったこっちゃない。俺に対する批判も知ったこっちゃない」と開き直っている。山岡鉄舟高橋泥舟と並んで幕末の三舟と呼ばれているが、勝本人は、「泥や鉄と比べたら海は遥かに規模が大きく壮大さも比較にならない」と、暗に他の二人を馬鹿にするコメントを残している。

生涯[編集]

ろくでもない不良旗本勝小吉の長男として生まれる。 3歳児の頃に広大な海を見ている最中に気が触れ、俺はフランシス・ドレイク村上武吉辺りの生まれ変わりだとおかしなことを口走るようになる。また「ポセイドンに会いに行く」といって断崖絶壁から海に飛び込み、たまたま周囲を通りかかっていた漁師の船に助けられるなど、とにかく海に対する憧れが強かったようである。少年の勝は来航する外国船などを目の当たりにして軍艦や造船技術に興味を持ち、「ぼくがつくったさいきょうのぐんかん」の設計図を徹夜で書いて街の奉行に提出したが、子供の落書きと見做されて破り捨てられた。貧乏であった勝は自分が貧困層だからアイデアが受け入れられなかったと思い、世の中金と地位がないと何も出来ない現実を痛感する。

下積み時代は、島田虎之助の道場で剣術を学び直心影流の免許皆伝となったが、勝はこの剣の腕を金を稼ぐ為の辻斬り追い剥ぎに利用していた。師匠の虎之助は知らなかったが、後に出世した勝が、虎之助も亡き人になったのをいいことにあたりに言いふらしたため今では知らない人はいない有名な話である。またこの頃佐久間象山とも知り合い「ぶっちゃけ、今の時代名を高めたいならテロ活動でもやった方がいい」と、幕末の真理を教授される。しかし、他の連中とは違った事をやりたいと願ってやまないカブキモノの勝は、維新側よりも斜陽の徳川幕府に仕えたいと願うようになる。勝はオランダ語をよく学んだが、その動機は杉田玄白の「解体新書」をちょっと読んで、自分もバラバラ殺人をしてみたくなったという衝動にかられ、名家のボンボンに蘭癖大名と呼ばれる者が多くいることを知って、蘭学を勉強すれば俺も楽に金持ちになれるかもしれないと勝手に思い込み、そして佐久間象山の「オランダには美人がたくさんいる」という出任せの嘘を妄信したことが決め手となり、蘭学を学ぶ決意を固めるに至った。蘭学を勉学中、勝は辞書「ドゥーフ・ハルマ」を無数に複写し、師匠の永井青崖やその他学友達に法外な金で無理矢理売りつけて金を稼いでいた。明らかに違法コピーであり、押し売りであるが何故か今日では偉業のように語られている。英雄は何をやっても許されるということであろうか。「阿蘭陀名」として「ヴィクトリー・シーシップ」を自称。

1853年、イケメン老中としてスキャンダルの噂も多かった阿部正弘が女と密会しているところを盗撮して弱みを握る事に成功し、正弘を脅して念願の幕僚入りを果たす。その後、長崎の海軍伝習所に入門するが、ここで島津斉彬西郷隆盛大久保利通らと知り合い、勝は彼らとの交流を経て、幕臣として働くと見せかけて、維新側のテロリスト達にも力を貸し、死の商人のように日本を引っ掻き回してやろうという危険思想を懐くようになる。無論、最後に笑うのは勝自身という構図が彼の脳内には出来上がっていた。ちなみに新撰組を描いた某漫画では徹底的な悪役キャラとして造形されている。

1860年咸臨丸自称キャプテンとして乗船渡米する。しかもこの太平洋横断を日本人としては初めてと宣伝したが、実際は支倉常長がそれより250年も前に行っていたので事実歪曲である(まあ、勝もその事を知らなかった可能性もあるが)。この時、勝は咸臨丸に波動砲を装備させろ、先端にドリルをつけろ、巨大ロボットへの変形機能を入れろなどと言いたい放題我侭を言い、軍艦奉行木村芥舟を辟易させた。この咸臨丸での渡米は勝の晴れ舞台となるはずだったが、道中勝はキャプテン(自称)でありながら船酔いに魘され、船員を統率するどころかお荷物になってしまい、醜態を晒してしまった。なお、渡米中に同船していた福沢諭吉に勝がゲロを吹きかけてしまい、これが原因で福沢は勝を毛嫌いするようになる。だがこれには異説もある(後述)。

帰航後、勝は軍艦奉行に就任。勝はその立場をいいことに西郷や大久保にありったけの兵器や軍艦を横流しする。倒幕を幇助していたわけではなく、敵が弱すぎるとつまらないからと言う気まぐれな動機であった。これを察知した融通の利かない忠臣小栗上野介は奸物の極みと憤慨し、将軍徳川慶喜に勝の誅殺を進言したが、慶喜は罰するどころか「敵に塩を送るなんて、紳士的じゃないか」と勝を褒め称える始末であった。慶喜は変節漢な気質があるなど人間性で勝と似通っているところがあり、彼とは馬が合ったのである。

1868年、朝廷から倒幕の勅命を受け、官軍となり勢いづいた薩長の連合軍が押し寄せる。軍艦奉行でありながら自らの指揮する艦隊が活躍の場を与えられない事を不満に思っていた勝だが、その艦隊を活躍させる機会がようやく訪れたのである。小栗上野介は箱根で海と陸から官軍を挟撃すべしと提起したが、勝はこれを手緩いと批判、江戸城に焦土作戦を展開した上で、自らの指揮する最強の艦隊に江戸を砲撃させようとしていた。江戸城無血開場のため西郷、大久保らとの交渉に腐心した、こんな俗説は全くの嘘である。むしろ実際のところは篤姫和宮が交渉に腐心したのである。この事実の捻じ曲げは、これぞまさに男尊女卑である。

日進月歩の勢いで発展する日本が大陸に喧嘩を売るようになると、日本が大陸に勝てるわけがないと計算した勝は李鴻章などと気脈を通じて中国ロシアに媚を売り、コテンパンに返り討ちにされ、列強の干渉を受けた時自分ひとりだけなるべく優位に立てるよう画策したが、日本がまさかの大勝を遂げてしまいヤマが外れた。晩年は意味不明な著書を執筆し、旧知の人々から「元から気が触れてたけど、遂に一線を越してしまったか」と憐憫されるようになる。1899年1月19日、風呂上がりにブランデーをかっくらってぶっ倒れ、2日後の1月21日死去。辞世の句は「コレデオシマイ」であった。英雄になるため邁進してきたけど、終わってみればとんだ道化でした、と言う自嘲の念が込められた一句である。

逸話[編集]

  • 「英雄、色を好む」と言う諺通り、勝も歴史上の数多の英雄達に漏れず好色であり、幼い頃から性欲旺盛であった。しかし勝の家は家計が窮迫しており風俗に通う金もなかった。父親からレイプはいけないことだと教わっている、そこで勝は道端の野良犬や猫を襲って獣姦することで性欲を発散させることに成功したのである。勝は日本に獣姦の概念を広く普及させたことでも名高い。しかし調子に乗りすぎたのか、ある時野良犬相手にフェラチオをやらせようとしたところ金玉を噛み砕かれてしまい一月ほど彼岸を彷徨った。後に勝はこの体験をさも武勇伝のように吹聴し、周囲の失笑を買ったという。だが坂本竜馬だけはこの話を聞いて感嘆したらしい。
  • 13代将軍正室篤姫と14代将軍正室和宮は、世の嫁姑の例に漏れず、大変仲が悪かった。「海舟座談」には、勝が「おまえら俺の姉妹なんだから、いい加減仲良くしろ」と一喝したら、ますます仲違いがひどくなった、とある。
  • 咸臨丸の中で船酔いした勝が福沢にゲロを吹きかけてしまった事で以降不仲になったという福沢諭吉との因縁が良く知られているが、実は福沢が勝に恋心を懐いており、勝が福沢を振ってしまったことで福沢から憎悪され、以降粘着されケチをつけられるようになった「福沢諭吉ヤンデレ説」がある。この説によれば、前々から勝を恋慕していた福沢が咸臨丸の中でラブレターを渡したが、勝は「悪いな、俺ノンケなんだ」とラブレターを破り捨ててしまった。その為福沢は勝を以降憎悪するようになったという。

迷言集[編集]

  • 「本当の英雄ってのは国だの忠節だのそんなちっぽけなものには拘らないのさ」
    • 要約すると「私は不義者です」と言っている
  • 「小栗君頭固すぎwwwwwwそんなんじゃ長生きできないよ石田三成みたいにwwwww」
    • 頭の固い忠臣小栗上野介に対して。事実、小栗は維新後逆徒の烙印を押され処刑される。
  • 「苗字が勝にも拘らず、俺の親父も祖父も人生の負け組だった」
    • 自ら親不孝者と公言している。
  • 「今までは人並みなりと思ひしに 五尺に足りぬ四尺なりとは」
    • 子爵の爵位を贈られることになって、それを辞退した時に読んだ歌。五尺とは人間の体、四尺は子爵の掛詞。要は「そんな低い位じゃヤダ!」という単なる駄々であり、後にそれより上の伯爵を贈られた時はきちんと受けている。ちなみに勝海舟の身長は156cm(5.15尺)であるという。

関連項目[編集]