加藤嘉明

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加藤嘉明(かとう よしあきら、永禄6年(1563年)-寛永8年(1631年))は、戦国武将であり秀吉旗下で有名な賤ヶ岳の七本槍の一人である。沈勇の士と云われた冷静かつ合理的思想の持ち主であった…が為にか今一つキャラ立ちが悪く存在がパッとしない名将である。とくに同じグループに同姓でリーダー格の加藤清正がいる為に七本槍の加藤さんだと「ちょっちゅね」(漫画『へうげもの』・版)で有名な方だと勘違いされてしまう。

何度、人気戦国アイドルグループ「賤ヶ岳の七本槍!!」を脱退しようかと寡黙な表情の裏で悩んだのかわからない筈であり、この悩みは多分元SMAPの森くんなら解るであろう。

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幼少期[編集]

父親が三河の徳川家康家臣であったが、嘉明が生まれたその年に一向一揆で家康に敵対。その後一揆敗北で三河を離れ流浪することになる。この幼児体験からか彼の人生からは派手とかスタンドプレーという言葉が消え「堅実性」という言葉が焼き付く。

賤ヶ岳の七本槍としてデビュー[編集]

秀吉の小姓として下積み就職。柴田勝家羽柴秀吉の間で行われた織田家最大の内紛である賤ヶ岳の戦いで活躍。アイドルグループ『賤ヶ岳の七本槍!!』として売り出される。

七本槍結成時のエピソードで嘉明は「槍持って皆でプロモ撮影するとき、遅い清正を待っていたらアイツ異常に長い兜で片鎌の槍なんて奇妙な物もってきたからアイツがリーダーみたいな扱いになった」と後年述べる。

豊臣系大名として生きる[編集]

この時期アイドルグループ七本槍は多忙であり、「四国征伐」「九州征伐」「小田原征伐」といった戦国時代最後のイベントが目白押しであった。嘉明はその多くに参戦し地味で堅実な武功を立てた。野球に例えると守備が巧く6~7番あたりで必ずヒットを打つタイプである。微々たる加増が続きこうして秀吉旗下のシングル大名として見事にデビュー。

デビュー曲は「男 涙の流浪坂」。しかしCDを買ったのは家臣だけという噂がありオリコンチャート705位であった。福島正則から「ぶひゃひゃwおまww馬鹿じゃねww!」大坂城で笑われ僕は市松(正則の幼名)はきっと将来改易されると思うなと言い返しなんだと!俺は改易なんてされん!と天守閣を揺るがす大喧嘩になり北の政所に説教される。以後寡黙な沈勇の士になったとか。

秀吉政権最大の戦にして戦国エクストリームスポーツ朝鮮征伐」で李舜臣率いる水軍と交戦。当時家臣で従軍した塙直之氏に言わせると「浸水で水をかき出すわ、いつも船を漕いでいたり、帆に付いた火を消したりで全然男の戦じゃない。え?CD??んなもんワシは買ってないわぃ!」」という過酷な戦場であった。二度目の朝鮮征伐では元均率いる朝鮮水軍を撃破することに成功。蔚山城の戦いで孤立無援であった加藤清正軍を救出する見事な戦功であった。ここまで働いて彼の石高は10万石だっていうんだから秀吉は気前がいいなんて嘘だろう。

関ヶ原の戦いとそれ以後[編集]

石田三成とは当然仲が悪く、清正らが三成襲撃事件を企てたときには当然参加している。(勿論地味だから…以下略)1600年の関ヶ原の戦いでは東軍として参戦。初戦では見事に岐阜城大垣城攻めを行い堅実な武功を立てる。決戦である関ヶ原での野戦では参加するも肝心な目立つ部分で福島勢のような活躍をしておらずこの人物らしい結果となった。戦後伊予松山二十万石を封じられる。

大坂の陣では家康の警戒を察知して冬の陣では態と留守居役を務めて後、夏の陣で徳川秀忠と供に参戦した。元和5年(1619年)の福島正則の改易で広島城の接収をおこない昔大坂城で笑われたのを覚えていたのか

「おお!市松!僕はきっと市松はこーなると思っていたよ。」「ぬ、ぬぅ…!」「ははははは!市松、市松!!(笑)」(作画・吉田戦車)と久々に大声で笑ったという。

寛永4年(1627年)遂に会津へ移封され会津藩四十万石の大大名となる。その四年後の寛永8年(1631年)に六十九歳で江戸にて他界。

地味であったが堅実性が報われた生涯であった。

その人物像や塙団右エ門との確執[編集]

このように嘉明の人生を見れば決して人並みの人物どころか、浪人から会津四十万石まで大出世をした傑出した才人であり、本来はそのスキのない万能性を某ゲームでは真田昌幸並に評価されてもいい人物であるが、「賤ヶ岳七本槍の加藤くん」では清正の方が知名度と勇猛性が上であり、清正が肥後の国を中心に国民的人気を持ってしまった為に裏加藤として日陰的な存在である。

嘉明の戦ぶりをみると勝率と堅実性が目立ち仙石某のように致命的な大ポカを一度もしていなければ、内政では福島正則のように存命中に改易の憂き目にあってもいない。サッカーで得点王のフォワードにタイミングの良いパスばかりする地味な選手や図書委員の様なその縁の下の力持ちぶりは涙ぐましいものさえある。

華々しい戦ぶりがなかった為か?派手好みの豊臣秀吉政権では大大名になることは出来ず、彼の実力を客観視してみればむしろ万能ぶりを警戒した秀吉に黒田如水二号機として扱われ小大名として封じられた疑惑すら出てしまう。

事実、嘉明は関ヶ原の戦いと大坂の陣では堂々と家康側へ付いている。が、もしかしたら地味な自分をやっと評価してくれた堅実嗜好の家康とやっぱり三河者同士相性が良かったのであろうか?豊臣政権と違い徳川政権が二百数十年続いたことを考察すれば、このように学校でも職場でも目立たないんだけど役に立っている地味な人を巧く評価しないと組織ってものは長続きしないのだ。

また嘉明の不幸をもうひとつ上げるとすれば塙直之(塙団右エ門)という戦国一の魁!!問題児と因縁を持ってしまったことであろう。後年、塙団右エ門が豪快な豪傑として名声を得れば得るほど、嘉明はそれを遣いこなさなかった人物という評価になる。が、塙直之を遣いこなせる人物だったらそもそも三河的堅実性という言葉とは無縁であろうし、塙直之が嘉明の前に他の大名に仕えても長続きしなかった側面も忘れてはならない。…が直之に奉公構を出して他家に仕官することを阻害し浪人への道を突っ走らせたのもまた嘉明であることも忘れてはならない。

不肖の息子 加藤明成による加藤家の最後[編集]

二代目加藤明成の時代、家老堀主水が武装した郎党を率いて鉄砲を撃ち放ちながら加藤家を出奔するという前代未聞の騒動が発生してしまう。

事件の原因は不明な点が多かったが、まだこの時代の武士は主君に対する絶対的な忠義を美徳とする風潮以外にも己の面子が大切であり、それを汚された場合は出奔しても構わないという不文律があった。が武力行使を伴う組織的出奔は「もう戦国時代ではない」という家臣屈服の常識を植え込む政策の江戸幕府には政治的問題として大きく扱うべきものとなった。

家老 堀主水は捕縛され加藤家によって処刑されたが、この責を問われ加藤家は改易された。二代目で先代の汗と苦労があっという間に消滅するのは今も昔も変わらない。

フィクション作品での扱い[編集]

片桐且元などの方が目立つ舞台での苦労人としては遥かに上であり、武勇と石高では加藤清正福島正則が上。しぶとさでは関ケ原の土壇場で寝返り江戸時代は外様であるのに譜代並の家格で明治維新まで家を残した脇坂安治には及ばない[1]。というキャラであるため名将であるにもかかわらず賤ヶ岳の七本槍のメンバーでは、大名になれなかった平野長泰、関ヶ原の戦いで西軍に付き改易された糟屋武則と並んでえ?そんな人いたっけ?という扱いである。


信長の野望』などではモブキャラといっていい武将であり、武将能力値低下気味の戦国時代後期では辛うじて有能である方という「沈勇はどこにいったんだ!?」といった扱いである。皮肉にも目立ってもいない加藤家が現在も脚光を浴びるのは彼の息子、加藤明成が改易される騒動を起こした部分が大きい。

豊臣の寵臣は「不祥事を起こせば容赦なく幕府から処罰される」という見せしめでは賤ヶ岳七本槍の看板を持ち、会津に大封されていた加藤家は格好の存在だったのであろう。講談で英雄化した塙団右エ門との確執もあり一番損な役回りである。

魔界転生』で有名な作家山田風太郎は、柳生十兵衛三部作の第一部『柳生忍法帳』で加藤家改易までの騒動を、乱心した暗愚な加藤明成と悪の腹心加藤家の会津七本槍が、仇討ち女性たちと助太刀の柳生十兵衛によって退治される物語として軽快に書いている。

そしてフィクションとは少し異なるが、かつて城主をつとめた松山城にて、マスコットキャラ・よしあきくんとしてめでたく転生を果たす。槍投げが得意らしい。残念ながらイカっぽくはない。

イカ[編集]

その正体は黒いイカである。疑う奴はググれ

脚注[編集]

  1. ^ 嘉明の曾孫の明英は譜代の格式を与えられて若年寄にまでなったがポカをやって冷や飯を食わされその後はお察し下さい。後を継いだ甥は近江の山奥に左遷…やっぱり損な役回りである

関連項目[編集]