劉封
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
劉封(りゅうほう、Liu Feng、189年? - 220年)は、蜀漢の公子で、みみづく野郎の劉備の養子…らしい(長男の説もある)。字は不詳。尊称は「封君」、蔑称は「漢王室の反逆児」。嗣子は劉琳(劉林、蜀漢滅亡後、洛陽に赴いた叔父の劉禅一行に同行せず、洛陽の北方にある河東郡に移住した)。
徳川信康・孫策・曹彰と比較されるほど、短気で気が荒い無骨バカである。同時に格闘技マニアで、喧嘩が大好きの皇族武将でもある。彼はバーチャルに嵌まっており、その気分に浸って弟の劉禅に対して、末弟の劉永と組んで「阿呆~!! 俺たちの格闘技の受けてくれよ」と嘘ぶきながら半殺しを楽しむのが日課となっている。
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[編集] 人物・略歴
[編集] 概要
明初期の文人の羅貫中(羅本)著の『三国志物語』によると、もともとは荊州の樊城県令劉泌の甥っ子で羅候氏の子という。ある日、劉泌と面会した劉備が「たくましい若者じゃないですか。私にくださいよ」と言って養子にもらわれた。しかし、劉備の義兄弟の関羽が養子となった劉封を見て「兄者は阿斗(劉禅)がいるじゃあないか。俺はこんなクソ生意気なガキ好かん。劉泌のバカに返して来い」と叫んだそう。くわばらくわばら。
以降も関羽は劉封とすれ違うと「養子のくせに図に乗るな!!」と絡んではそのいじめを楽しんでいた。最初は気さくに接した劉封も心の奥ではいつか報復してやろうと誓っていた。ちなみに張飛と趙雲は劉封に対しお約束のスルー(※あくまでも羅の字の妄想なので…でも、そんなの関係ねぇ~!!)。
一方、チャンコロの『民間伝承』では、字は「公然」(モルア野郎の字と関連がある)とされ、母方は後漢の元勲・寇恂の末裔とする言い残りがある。さらに嫁が鄧芝の妹にあたると記されている…らしい。
後に養父(実父?)の益州討伐に参加し、この時二十余歳だった劉封も親友の関平(字は坦之、関羽の庶長子。父を補佐するために中途で江陵に帰還)、無骨者の魏延と黄忠爺さんを従えて大活躍した。これを見た軍師の龐統と新参者の法正も「素晴らしい若殿だ」と喝采したという。しかし、212年~213年あたりに龐統が雒城で流れ矢に当たり戦死し、法正も220年に病死すると彼を支える人物はいなくなった。しかも諸葛亮は李厳とグルになって「公子封は危険な人物。わが君(劉備)に奏上して、これを粛清しないと、阿斗さまがお可哀相だ」と好き勝手に言い出す始末で対決していた。これに頭を痛めた劉備は劉封を上庸の太守にし、その下に孟達をつけた。しかしこの孟達は実は諸葛亮派の派閥の人物だったのだ。陰険な諸葛亮は自分の息にかかる人物を劉封の補佐として監視したのである。
孟達は諸葛亮に忠実で、連日に劉封を監視した。これが面白くない劉封はある日「おい、孟達…諸葛亮の下僕よ。そんなに俺をストーカーするのが楽しいのか? 哀れな犬だよな」と言い、この言葉にキレた孟達は「今の若様のお言葉を諸葛孔明に報告しますよ。これであなたも終わりですね」と反論した。これにキレた劉封は持ち前の短気な性格が出てしまい孟達をフルボッコによる袋叩きにした。孟達からの報告を聞いた諸葛亮はひそかに荊州にいる関羽に「美髯公が援軍要望と称して、封公子を荊州にお呼びなさい。その時に封を将軍が斬るのです」と孟達を密使として派遣させた。しかし、ここで少々の誤算が生じた。荊州に着いた孟達は関羽に面会し諸葛亮の伝言を伝えた時である。いきなり関羽は「新参者の分際でワシに意見を出すな。引っ込んでいろ。諸葛亮への返事は追ってワシが出す。お前はさっさと戻って、あのガキを見張っておればよい!それからな、無断で援軍は無用ぞ!!」と孟達を好き放題に罵倒した。
今までにない屈辱を受けた孟達は「けっ! あのヒゲ爺いが。やってられんわ。ひとつ痛い目に遭わせるか…」と唾を吐いた。これが関羽の身の破滅の要因となる。翌年秋8月に、関羽がもう一息で荊州全域を制覇する直前に、樊城で頑強に籠城した曹仁と、郟県の摩陂から進撃した徐晃、趙儼らの十万の魏軍に挟撃され大敗し、止むなく麦城に籠もった。その時に家臣の廖化を呼び、上庸にいる劉封に援軍要請の使者として派遣した。その時、劉封は待ってましたとばかりに日頃は犬猿の仲の孟達と組んでこれを無視し援軍を出さなかった。
こうして、関羽は当陽県南部の漳郷で、魏と盟約した呉の孫権の武将潘璋、朱然とその配下の馬忠 (呉)ら呉の軍勢によって、子の関平をはじめ、呂布 (蜀)、趙累とともに捕獲された。219年10月14日に関羽一行らは臨沮で呂蒙、孫皎(孫権のいとこ)らによって、哀れにも処刑された。齢60前後という(その首級は曹操に送られた)。
劉封の態度に憤激した廖化はやっと諸葛亮に対面し「封公子は美髯公を見殺しにしました。今のうちに処分しないとまずいですよ」と憤激して進言した。しかし、諸葛亮は腹心の孟達が関羽の見殺しにしたことが誤算だったのでしばらくは様子を見た。しかし、劉封の末路は逸早く来た。それは、劉備の怒りを買うことに懸念した劉封が孟達の軍楽隊(親衛隊)を強引に奪い取る事件が発生した。怒り狂った孟達は諸葛亮に密使を出したのである。これに対して諸葛亮は「君は関羽見殺しの件でわが君の怒りを買っている。ここは取り合えず魏に投降し、封を追い詰めなさい。あとは私がやるから」と返事を出した。
こうして、孟達は嫁の甥・鄧賢と腹心の李輔とともに魏に投降し、魏の文帝(曹丕)にその才覚を気に入られ、新城郡太守に任命された。間もなく彼は総大将として、徐晃、夏侯尚(曹操の甥)とともに劉封を討伐した。裏をかかれた劉封は、上庸城を奪われた挙句に劉備を頼った。面会した劉備は「お前は伯父さんを見殺しにした卑怯なやつだ。どう詫びるのじゃ?」と叫んだ。
この時、劉備の側にいた諸葛亮が李厳とともに、将来は劉禅の災いとなる剛毅な劉封を処分するよう進言した。しかし、有力将軍で漢中(南鄭)郡太守の魏延が「わが君の後継者の素質としては封公子がふさわしゅうございます!」と諸葛亮らを睨んで、峻烈的に異議を唱えた。これを聴いた劉備は魏延の直言に躊躇したが、諸葛亮と才子の楊儀らが「魏延が言うことは、所詮妄想です。彼は封公子と仲が良かったから、詭弁による弁護をしているに過ぎません!」と断言した。
こうして、劉封は廃嫡?された挙句に斬首された。このとき30歳とかそこらだった。こうして、蜀漢のお家騒動は悲劇的な終止符を打ったのである(魏延は終始このことに根を持った。同時に諸葛亮は魏延に向かって「魏延は反骨の相が出ているから斬首にすべきだ」と言い出した。そのため、お互いに罵り合い、対立が激化してしまったという)。
[編集] 余談
喧嘩相手の孟達は、自分を優遇してくれた曹丕の死後、亡父に疎まれた嗣子の明帝(曹叡)をはじめとして、魏の大臣たちから「他国者の分際で、先帝の寵愛を独占した狡賢いヤツだ!」と罵られて迫害された。窮地に陥った孟達は、かつての諸葛亮の密約もあり、227年の年末に約束通りに蜀漢に帰参する書簡を持った密使を出した。しかし、その甥の鄧賢(鄧芝のいとこ?)と腹心の李輔らが猛反対した。彼らは、隣接する申耽・申儀兄弟と組んで、孟達造反の事変を司馬懿に密告した。緊急時を悟った司馬仲達は直々に孟達を討伐した。翌228年春に孟達は先鋒総大将の徐晃を討ち取るも、仲達の電撃的進撃で殺害され、首から上がディスプレイされた。
陳寿曰く「封は武将としてはピカ一だけど、関羽と孔明と仲が悪かったの致命的だよね。なんでもう少し大人になれなかったんだろう。劉禅よりマシなのになあ…彼が皇帝になったら、俺も魏と晋の家臣にならずに済んだのに…ホントに惜しいよなあ。」とのこと。
[編集] 逸話
- 彼は徳川信康と似て気が荒い若者であり、孔明や養父(実父?)の劉備は恐れおののいていた。
- 吉川英治の『吉川三国志物語』に登場する鴻氏の娘で、劉備の初恋の人芙蓉姫は…実は劉封のお母さんらしい。
- 「黄髭」と呼ばれた曹彰(曹操の四男)との一騎討ちは、曹操・劉備の両息子による貴重な名場面である。
[編集] 各界の劉封評
~ 劉封 について、曹孟徳
~ 劉封 について、曹彰
~ 劉封 について、孫策
~ 劉封 について、劉玄徳
~ 劉封 について、劉禅
~ 劉封の賜死 について、諸葛亮
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