劉備

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劉備(Liú Bèi りゅうび、161年または162年 - 223年)は、王朝の後継者と称し、蜀漢季漢)を建て、中国制覇を狙った人物。字は有名な玄徳(「元徳」とも)。廟号は「烈祖」、諡号は「穆帝」(「先主」でもOK、ただし「昭烈皇帝」は誤り)。

劉備に化けた狡猾なの姿である。

概要[編集]

後世に残った劉備の肖像画の例。「耳が大きかった」と言うことは伝えられている。どうも寅年生まれなのが伝承に影響したのだろう。

家族・一族[編集]

子(養子?)は劉封、劉公仲(名は「悳」とも)、劉禅劉永劉理(孫の説もある)ら。孫(養孫?)は劉琳、劉璿劉㻣ら。正室は寇后?(先妻?/先主皇后)、孝穆皇后呉氏(後妻)。側室は麋夫人(ふたり娘の生母?)、甘夫人(劉禅、劉永の生母、皇思夫人/昭烈皇后)ら。

系譜・出自[編集]

彼は寅年豪族の子として、涿郡涿県楼桑村(現在の北京)に生まれた。

陳の字は前漢の中山靖王・劉勝(景帝の皇子)の子・陸城亭侯の劉貞の末裔だと法螺させた。実は後漢光武帝の長兄の武王・劉縯の庶子の北海靖王・劉興(なんとなく「中山靖王・劉勝」と発音が似ている)であり、詳しいことは劉縯を参照のこと。まあ、どちらにしても劉備は臨邑侯の分家出身なのである(『典略』にあるよ)。

祖父の劉雄は孝廉に推挙され、東郡范の県令(山東省東阿県)まで昇進した、父の劉弘(劉広とも)は州郡の官吏を勤めたが早世した。

その反面「みみずく野郎」、「狸親爺」の異名も持ち、呂布曹操に敗れて、平気で家族を置き捨てる放置プレイを楽しんだり、沛の住人の劉安殺害して、その「人肉」を平気で喰ったり(『三国物語』)、息子の劉封劉永を処刑したり、飼い殺しする冷酷な父親ぶりを鮮やかに表現している。嫡子の阿呆(劉禅)が幼児の時に、平気で地面に叩きつけたりしている(この行動の原因は幼少期に父を失い、父性の本質がわからないからという説がある)。

来歴[編集]

劉備の蜂起[編集]

幼い頃に父・劉弘を失った劉備は弟・劉亮(字は叔朗)といとこの劉徳然(名は冀)と麻呂皇族こと冀州刺史の劉焉(章帝の裔)の人質として過ごしたという。やがて十余歳になると人質から解放され、叔父さんの劉子敬(名も敬、お父さんの)に養われたらしい。

そして母方のいとこで竹馬の友の簡雍(耿雍)・田豫(田予)・傅士仁(または君義、名は不詳)らと共に組んで、近所の子供に向かって「俺たちは後漢のお偉いさんの子孫なんだぞ。お前らとは格が違うんだよ」と言った。当然、腹を立てた子供達と喧嘩に発展し、見事にボコボコにし、これを配下として「涿愚連隊」を結成し、涿郡周辺でブイブイ言わせた。どこぞの詩人兼花嫁泥棒とそっくりである。

不良行為を繰り返す息子の将来を案じた母は下僕とともに蓆と草鞋で生計を立てていた。玄徳少年が15歳の時に同郷で元九江郡太守の硬骨な学者・盧植の門下生とさせる。学費は小金持ちだった劉元起おじさん(名は「趙」、徳然の父、亡父のいとこ)が出してくれた。

勉学はそこそこに遊びまわり、今時の大学生を先取りしたセンスを発揮する。師匠の盧植から、居酒屋で会ったゴロツキ先輩の公孫瓚らに向かって「ええな? 伯珪(公孫瓚)に玄徳よ。朝廷の癌の宦官ちゅうオカマは殺さなあかんのや。お前もワシのように(おとこ)になったれよ。」と諭したという。

黄巾の乱が勃発すると、祖父の旧知の中山の豪商・張世平とその甥の蘇双の軍資金の援助、パトロン劉焉と岳父の寇恢(息子の妻が劉焉の娘である)と母方の簡(耿)氏の後盾により、若さとノリと勢いで義勇軍を結成し挙兵した。

弟の劉亮といとこの劉徳然竹馬の友簡雍田豫傅士仁をはじめ、飲み友達であった関羽張飛趙雲らと共に、いちおう活躍したが、ライバルの曹操と比較して地味だった。師の盧植が宦官の左豊の讒言で更迭され、やけになり公孫瓚と共に帰郷し、岳父の寇恢の居候生活で食客として過ごした。

『典略』によると、187年ころに青州刺史の何某(皇甫嵩?)が北軍中候(前職は校尉)の鄒靖を派遣し、中山郡太守・張純と泰山郡の相・張挙らの反乱を鎮めるためだった。

その時、平原郡の豪族・劉平が鄒靖に目通りし、劉備を推薦した。鄒靖は劉備を見て評価し、何進洛陽から派遣した親友の都尉・毋丘毅(毋丘倹の大叔父)の従事として配下に加えた(後に劉平は劉備を“忘恩野郎”と憤り、刺客を雇うも暗殺に失敗した)。

平原郡田野県で張挙配下で元黄巾党の頭目だった程遠志鄧茂の軍勢と戦い、弟の劉亮・いとこの劉徳然が戦死し、劉備自身も大怪我し、恐怖のあまりにクソを洩らして、死んだふりをしてさっさと逃げ出したのである。

ともかく鄒靖は劉備の奮戦を褒めて、辺鄙なに地方の中山国安喜県の尉(警察署長クラス、軍事長)の地位を与えた。しかし督郵(国の監察査察官)が遊びに来た際、何となく気分が悪かったのか柔らかくなるまで叩きのめしてしまう。さすがにこれは拙いと思ったのか、警察署長の地位を返上して、鄒靖のもとに逃亡した。

何をやっても上手くいかない期[編集]

戦争にならないと収入が無いので、いざ戦闘となるとこの様に浮き足立っていたらしい。

お人よしの鄒靖は、劉備を庇って官職を与えた。しかし、だらしない劉備の職場放棄のために焼け石に水だった。さらに無謀にも劉備は、青州黄巾党30万の精鋭に戦いを挑んで(糞洩らしあの不様な戦いのように)無様な大敗を喫し、恐怖のあまりにアレを洩らしたようで、さすがの鄒靖も匙を投げ「君の先輩の公孫瓚を頼りなさい」という始末だった。さらに田豫も劉備の肛門の緩さぶりに呆れてしまい、「母が重病なので…」という理由で離脱してしまった。

失意の劉備は191年に、ゴロツキ先輩の公孫瓚の元に身を寄せた。当時の公孫瓚は、残しておいたゴマ団子を勝手に食べた袁紹と対立しており、劉備は公孫瓚に従って何度かの喧嘩を経験している。このころに初恋の人の芙蓉姫と結婚し、悠々とアーン♥♥しながら、同年に劉封(定説では養子)が生まれた。

劉備の台頭[編集]

徐州の陶謙曹操に攻められると、公孫瓚に援軍要請した。公孫瓚はこれに応じて、武将の単経田楷(田豫の親族?)の両将を援軍とし、劉備は田楷の副将として駆けつけた。慣れない土地であったために様子を窺っていたところ、曹操の大事なお菓子をあずけた友達張邈陳宮呂布と一緒にお菓子を食べてしまったとの情報が入った。それを聞いた曹操は呂布に立ち向かってはならないことも忘れきびすを返して呂布に突撃。当然即死、とまではいかないものの大打撃を喰らった。当の劉備はよくわからないうちに徐州に留まる事になる。その間に旧師の盧植の兄弟子の鄭玄の生徒の北海郡の人の孫乾を自分の外交官として、部下にした。

やがて、陶謙が喉にを詰まらせてこの世を去ると、孔融孔子の後裔)をはじめ、陳珪陳登父子、麋竺麋芳兄弟ら有力者らの推薦で劉備が徐州を治めるようになる。その決定方法について、本人は「みんなにしてやられた。竜ちゃんしちゃったよ」とダチョウ倶楽部ネタを仄めかしている。やがて麋兄弟の姉の麋夫人(未亡人)を正室に、幕僚に加えたばかりの魯の人の劉琰の勧めで、側室に迎えた沛の甘夫人(同じく未亡人。劉禅劉永の生母)を側室にした。しかし、劉備は元来が未亡人マニアの女たらしなので、好き放題に麋夫人・甘夫人たちとチョメチョメしたという。

曹操に追い払われた呂布が逃げ込んでくると、劉備はこれを受け入れた。その後袁術との戦いに出陣し、これを見事にボコった劉備だったが、この時すでに徐州の統治に飽きていた。そのため、留守には微妙に信用の出来ない曹豹様々を配置。勝手に寝返ってくれないかなーと思っていたところ、これが大当たり。曹豹様々はすでに袁術と密約を結んだ呂布に城を明け渡したのである。これを聞いた劉備は小躍りして徐州にとんぼ返りし、呂布に徐州を譲って自身は付近の小沛に移った。

その後、よくわかんないけど気付いたら呂布との喧嘩になっており、よくわかんないうちに曹操の元に身を寄せる事となった(曹操は劉備を評価し、豫州牧とした。以降から劉備は「劉豫州」と呼ばれた)。よくわかんないうちに袁術の武将の楊奉韓暹らを広陵郡海西県という所で、ウソだらけの酒宴の席で騙し討ちして、その軍隊を吸収した。よくわかんないうちに曹操も呂布を攻撃する事になり、よくわかんないうちに呂布はフルボッコにされて敗れて捕らえられる。そしてよくわかんないけど呂布は処刑されるのである。刑死寸前の呂布は「この劉備こそ、喰わせ者のタヌキオヤジぞ!決して信用できる人物じゃあない!!」という物凄い最期の言葉を残している。

曹操を裏切る[編集]

翌年になると、宮中では献帝の密書をもらった舅の董承(献帝の祖母の「おい」)が曹操暗殺計画を企てており、劉備は酔った勢いでうっかりこの計画に参加してしまう。翌朝にはこの判断を早くも後悔し「やべ…孟徳(曹操)ちゃんに睨まれたら、俺終わりぢゃん」と焦り、一計を案じた。曹操に「遠足に行きたい」と直訴して、朱霊と路招とともに徐州旅行を許可される。こうして劉備は董承のオッサンが企てた計画からおさらばした。やがて、袁術を餓死させ、勢いあまって徐州の留守居で曹操の家来の車冑をヌッ殺したのである。

劉備の裏切りで、部下の車冑が惨殺された情報を聞いた曹操は激怒し、まず、討伐隊として劉岱と王忠を派遣するが、両人は劉備の小便を引っ掛けられ、逃げ帰った。この報を聞いた曹操は激昂した勢いで、直々に大軍を率いて徐州を攻撃した。丁度トイレで踏ん張っていた劉備は敢え無く敗れ去り、子の劉封孫乾、張飛、趙雲とともにとりあえずは青州刺史の袁譚(袁紹の長男、かつて劉備が茂才に推挙したという)の元へ逃れ、やがて袁紹を頼った。この時、舎弟分の関羽と劉備の家族が曹操に捕らえられている。もちろん、そんな些細な事を気にする劉備ではない。

袁紹は曹操と対立しており、互いに兵を出して睨み合いという状況が続いていた。劉備は曹操の背後を撹乱する作戦を提案し、袁紹に認められる。こうして、いつものようにお世話になった人の元をあっさりと出て行くのである。「袁紹の将顔良を討ち取り、曹操との義理は果たした」と嘘ぶいて、曹操の元から逃げ出した関羽が、具体的に何をしようかなんて事をまったく考えていなかった矢先に偶然にも遭遇し、劉備の家族とともに、再び合流を果たした。

汝南郡の山賊の劉辟と協力して、曹操の背後を撹乱し、夏侯惇らを撃退するなど目覚しいゲリラ式襲撃の総指揮を行った劉備だが、曹操の送り込んできた武将の李典于禁の軍勢によってこてんぱんに叩きのめされる。今更袁紹のもとへ帰るのも面倒なので、遠縁で皇族荊州牧の劉表にも協力を頼んでみるよ」と言い、案の定そのまま劉表のところに居候する事になり、急におとなしくなった。

曹操が討伐させた劉岱・王忠らに小便をひっかけて、撃退させた意気揚々な"タヌキ"劉備。

居候時代[編集]

劉備は平和好きで、学者でもあったお人好しの劉表に表面的には信頼されたが、外戚の蔡瑁らは劉備らを殺害するか荊州から追い出せと進言していた。しかし、『異同記』の著者の孫盛は「劉表と蔡瑁はモンロー主義だが、劉備を暗殺するバカげたことを考えるはずがない!」ときっぱりと否定するコメントをしている。

劉備は、南陽郡新野県に駐留して何回か曹操軍のピクニック隊を追い払った。しかし基本的には平和なので、戦場に出る事は稀であった。そのため太ももに贅肉が付きデブになってしまい、何となく情けない気持ちになった。その事をある日、劉表とを飲んだ時に話したことが『故事成語』の『髀肉之嘆』の起源になったとして今日に伝わっている。

この頃、曹操・劉表のもとで就職活動に惨敗した26歳無職の孔明さんの存在を知った劉備は「この際大学卒の若造でもよい」と判断し、アポイントメント無し凸撃を敢行している。急な訪問を受けたニート書生の諸葛亮はこれに驚き、とりあえず居留守を使って帰ってもらう事にした。

劉備も一度は帰途に着いたが、道中で「あれって……居留守?」と思いなおして再度凸撃。諸葛亮の弟である諸葛均が受付窓口を担当していたが「だから居留守だって言ってるじゃん。帰っとくれ」と劉備を冷たくあしらう。強引に押しても駄目か、と諦めた劉備は再度帰途に着いた。しかしその途中で「あれ、あいつさっき『居留守』って言わなかったか?」と気付いてUターンし、三度目の凸撃を行う。

うっかり者の弟に心底がっかりしつつも、諸葛亮は仕方なく幹部候補の事務官として劉備に仕える事となった。これが世に言う『三顧の礼』である。

その後は何だかんだで曹操の魔の手から逃げる日々が続き、処士の徐庶の母が曹操に庇護されたため劉備と別離し、一時は妻子が敵中に取り残されるというよくある状況にも陥るが、曹操が追撃の手を緩めた事もあり、どうにかこうにか態勢を立て直す事に成功。

孫権が陣中見舞いに送った任侠的な魯粛に「ワシは旧知の蒼梧太守呉巨を頼ろうと思うんだが」と、泣きついた。劉備の「狸親父」の術中に見事にはまった魯粛は「呉巨なんぞ田舎の太守は放置しましょう。拙者が主君に支援を請いましょう。主君が首を縦に振らなくとも。強引に承諾させます。私も曹操が大嫌いですから」と強く発言した。

こうして、魯粛は意気喧々に諸葛亮をつれて帰国した。そして、諸葛亮やアンチ曹操でもある呉の名将周瑜らの口車に乗せられ、優柔不断だった孫権は張昭ら降伏支持者を「周瑜が言うように、曹操と一戦ヤらないならヤっちゃうよ?」と脅迫して静めたうえで、曹操との開戦を決意した。烏林の戦い(赤壁の戦い)では、劉備はほとんど何もしなかったが、とりあえず孫権・劉備連合軍という形で曹操軍を撃退した。

急に運がめぐってきた期[編集]

この後、気付いたら荊州南部を制圧していた劉備は、空を見ながら何となく益州が欲しくなった。丁度この頃、亡父との因縁関係もある益州の劉璋劉焉の末子)は漢中張魯からの攻撃に苦しんでおり、劉備に援軍を要請してきていた。こいつはラッキーとばかりに、子の劉封、魏延黄忠と新参者の法正孟達を従え、いつものようにノリと勢いで益州へ進駐。適当な頃合を見計らって、楊懐、高沛らを斬殺し、劉璋を裏切るものの、あまりにも適当すぎる頃合だったせいか、大苦戦。

関羽、張飛、諸葛亮と趙雲らを荊州の守りに残していたため、この時の軍師は龐統であったが、戦場でつい考え事に夢中になってしまい流れ矢に当たっていつの間にか死んでいるのが発見される。援軍に駆けつけた、諸葛亮、張飛、趙雲らの尽力でどうにかこうにか戦局を好転させ、降伏した李厳李恢らを配下にした。一度勢いに乗ると止められない劉備は曹操に追われた馬超を配下にし、そのまま劉璋を降伏に追い込んだ。

劉備の勢力拡大にバビった曹操は、215年に益州における北の玄関口とでも言うべき漢中へ兵を進めた。ここを抑えられると困る劉備は、217年に法正の進言で、曹操への恐怖心をどうにかこうにか堪えて漢中侵攻を決意し、後にニート軍師から「よく頑張ったねー」と褒められていい気になった。

この頃になるとニート軍師も「ノせてしまえば何とでもなる」という劉備の扱い方を心得たようである。例によって劉備本人は大して働かなかったが、配下が頑張ったので漢中攻略に成功。曹操本人が漢中奪還のために襲来すると、さすがに敵の数に眩暈を起こし籠城。しかしこの籠城作戦が意外と有効打で、対陣の長期化を嫌った曹操が根負けして撤退。赤壁ではほとんど何もしていなかったが、劉備は曹操との直接対決で待望の初勝利を挙げたのである。

その後、一説では脳腫瘍を患っていたとされる曹操が死去。その跡を継いだ三男の曹丕が漢を滅ぼして帝位につき、を建国。曹操の息子に負けちゃいらんねぇとばかりに、劉備も対抗して蜀漢を建国して皇帝を名乗った(烈祖穆帝)。

こんな時に蜀漢お家騒動が起こった。諸葛亮・李厳らがゴマをすって「粗暴な封公子をさっさと殺っちゃいましょうぜ!」と両人の言葉をそのまま信用し、子の劉封を廃嫡の挙句に斬首した。後に劉備は嫡子の劉禅の阿呆ぶりに嘆いて、冷酷な父とは思えない矛盾的な愚痴をこぼした。(蜀漢のお家騒動を参照)

一気に人生下り坂期[編集]

劉備はよく泣く。関羽を失った時は国中に泣き声が聞こえたという。

蜀漢を建国する前年、呉が荊州に侵攻して関羽を殺害していた。その際に復讐を心に誓った劉備であるが、脊髄反射で弔い合戦に挑むような事はしなかった。2年掛けて準備を整えるという念の入りようで、少なくとも4万、多くて10万の軍勢を動員して荊州に攻め込んだ。一説では80万人を動員したとも言われているが「益州の人口ってご存知? 100万人足らずだよ。80万なんて数字ぶちあげたのはどこの馬鹿だ?」と、劉備本人はこの説を否定している(さすがのタヌキ劉備も耄碌したもんだ…)。

緒戦は順調に勝ち続けた劉備だが、ふと気付いたら陣地が妙に長くなっていた。何か気になるなあと思いつつも放置しておいたのだが、これが大失敗。呉の指揮官陸遜は武将の朱然に命じて、夜襲&火攻めのダブルパンチをお見舞いし、劉備軍は大敗北を喫してしまった。世に言う夷陵の戦いである。

派手に炎上してしまった劉備は、ほうほうの体で白帝城(魚復県/永安県)へ逃げ帰る。未だ嘗てないやらかしてしまった感に苛まれ、病を発症。自分でも嫡子劉禅が無能っぽい事を察していたのか「公嗣または阿呆(劉禅)が国を治める器量がなければ君が国を取れ」と泣かせる台詞を諸葛亮に向けて残し、この世を去った。ちなみにこの泣かせる台詞、実は李厳ら諸葛亮以外の家臣に対して「諸葛亮がわが漢の帝位を奪うかもしれんから警戒せいよ!」と言い遺した「狸親爺」劉備の狡猾なメッセージであったとも言われる。

人物評価(感情論的行動)[編集]

この狸こそが劉備の真の姿である。
  • もともと、戦上手で「幽州の北斗七星」、「渤海一の弓取り」と謳われたほどで、曹操も劉備の軍事統率力を高く評価していた。
  • 実は曹操と義兄弟の契りを結んだ(親友の孔融はそれが面白くなかったらしい)。
  • 実は関羽より年下(義兄弟の契りは年齢は無関係だった)・・・らしいが関羽がいつ生まれたか分からんのでホントのところはよう分からん。
  • もともとの経緯は大した事なかったが、ニート書生くずれの諸葛亮をわざわざ三回も会いに行って味方に付けるほど、人材活用には優れた…らしい。
  • 実は諸葛亮の亡き伯父(父の兄)の諸葛玄が劉表の筆頭参謀の蒯越がともに何進に仕えた時以来の親友だったため、要するに諸葛亮は蒯越のコネをダシにした。
  • 戦のプロの劉備が「諸葛亮は噂のゲーマボーイと同じように戦のゲームは巧いが、現場での指揮はヘタレ。俺のほうが断然巧い!」と台詞を言ったことがある。
  • 実は荊州牧の劉表を秘かに尊敬していた。だからこそ、劉表の長男・劉琪(劉琦)が父に嫌われた挙句に廃嫡されたことを真似て、自分の長男劉封を廃嫡したのである。そこまで劉表の二番煎じにならなくてもいいのに(家康信玄を尊敬し二番煎じしたように…)。
  • 曹操が彼の分析を頼んだ時、中央にいてはだめな人間で、辺境に行くと覇者となると出た。すなわち田舎好きであったため、結局覇権は取れなかった。
  • 儒教的視点で見ると「旧王朝の復興」という名目があるため、最も好まれた人間であったが、実際には感情に任せて戦争をし、法正・諸葛亮に呆れられることが幾度かあった。現在では政治家としては駄目人間の象徴となっている。
  • その駄目さは、後継者の劉禅がどんな人物だったかということに象徴される。
  • しかし生き馬の目を抜くような後漢末を結果的に生き延びた事から、少なくとも高度のサバイバル技術と処世術は有ったと思われる。
  • さらに世間からは自称ご先祖様で女たらしで酒と博打が大好きで運だけがやたら強い劉邦と同じと思われてた。
  • 現在では演義の影響か、仁君と言う風評が立っているが、正史を読むとかなりの無茶をやっていた事が分かる。
  • 今世紀になって、劉備は徳川家康とかなり似ている人物というかむしろ家康が劉備の生まれ変わりであることが判明した(どちらも短気で、ヤクザの親分みたいな人だもんなあ…)。
  • 長耳長手と評される。つまり、劉備は釈迦の生まれ変わりだったんだよ!息子に理不尽に冷たかったことからもわかるだろう。
  • 劉璋の使者として劉備と面会した際、最大のコンプレックス(むしろ逆鱗とか地雷)である劉備の「みすぼらしいヒゲ」を笑いネタとして痛烈におちょくった発言をした張裕を執念深く怨み、ついに皇帝即位後にこの件を理由に処刑した(ホントの話)。
  • 邢道栄を捕縛した際に速攻で「斬れっ!」と叫んだのはあまりにも有名な話。諸葛亮に宥められてようやく撤回。ところで劉備のカンは正しかった。
  • 中国人の劉さんの先祖は劉備(マジ)。嘘だろと指摘してはならない(殺される)。
  • モブ(笑)
  • 民に混じって肉まんを食べるのが大好き。で、何の肉だ。

こうして正史三国ヲタの槍玉に挙げられる[編集]

  • 初の学者・王夫之は自著の『読通鑑論』で、劉備の遺言は君主あるまじき「乱命」と評している(翻訳:「そんな危ない遺言をすると、有能な家臣の手足を縛って国を傾ける結果になるから、やめたほうがいい!」と言っている)。
  • 後世の王夫之が千年以上も後になって、今さらそんな事言ってもどうしようもないと思う。
  • 東晋裴松之は「先主(劉備)が仮に中山靖王の血筋としても、その設定は無理がある。臣下が先主を補佐し、蜀漢の出来事を記録する史官がいながら、蜀漢の制度の明確な記録が欠如しているのは残念だと思う」…と珍しく陳寿を批判している。
  • 相当の演義嫌いに食い荒らされた最強の拠点兵長はユーモア欠乏症に陥った一般士大夫層(笑)によって、アンサイクロペディアで彼らの非難の自慰行為を存分に受ける羽目になってしまった。結構頑張ってるのに可哀想なホンタイである。

上記のように劉備は「演義という夢から覚めた正史三国志ヲタが攻撃対象とする人物」の代表格である。の面々とは正反対である。(もっとも正史ヲタでも蜀および劉備を敵視しない者もいるのだが)

つか、劉備が主人公の三国志ものは曹操の方がカッチョ良くて、曹操が主人公の三国志ものは劉備の方が面白いという、メビウスの輪を形成している。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「劉備」の項目を執筆しています。
Quqpacmanlogo3.png
劉備が放った発言は、後世の物好きのために、有志たちによって「Unquotable/武将」へ収録されています。
  • 偽善者 - 一説によると正史三国志ヲタが劉備を誹謗するために作った言葉であるといわれる。
  • - 双方とも劉備の容貌に特徴を持っている。


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