前田慶次

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前田慶次(まえだ けいじ。生没不明)は、天下無双の傾奇者である。

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血族[編集]

某少年誌より。この絵では完全な世紀末である。

前田利久の義理の息子、前田利家の義理の甥。滝川一族の出身で知られており、あまりに資料が少ないため、架空の人物ではないか、とさえ言われている。 米沢側の資料から上杉に仕官した後米沢で没したという説が一般であるが、なぜか前田利家の息子に隠棲させられ没したという記録も残っている。

概要[編集]

最終的に織田信長が前田利家に家督を譲れと命令した所為で、あちこちを転々としながら生きていくことになり、結果自由な暮らしが好きな南斗の雲の人のようになってしまった、大変ちょっとかわいそうな人である。特に前田利家を水風呂に入れて出奔した事は前田家最大の失態として主に利家ファンからバッシングされている。二次創作「花の慶次」においては真田幸村直江兼続佐々成正石田三成伊達政宗上杉景勝など、最も惚れられた人物が複数いることで有名。すでに人々から愛されているな。 「身の丈六尺五寸(197cm)の大柄の武士」と言われているが、これは花の慶次に影響されたファンによって、「実際の慶次もそうに違いない」という思い込みが発端であり、実際はそんなに大きくは無く、身長は156cm程度と推測されている。

慶次を代表する言葉に「だがそれがいい」というものがあり、幻想郷の住人達は、この言葉を座右の銘に、後先考えずに好き勝手に振舞ってもそれがいい、と傍若無人の限りを尽くしている。フィクションでは無かったことにされているが、いい年して息子達を置いて出奔するなど親としては落第点を押される駄目親父であるが、前田家に養子にやられ、実の肉親に愛されるということが実感できなかったのでしょうがない、かもしれない。

ニート」「脳筋」などと罵られる事もあるが、前田慶次道中日記から和歌や漢詩、伝説に対する個人的な見解がちりばめられるなど、高い教養を持った知識人であると思われる。また槍の使い手であり素手でも人を殺すことが出来た。各地の戦場で生き残ってこれたのもこのためである。

生涯[編集]

泥水を啜る?少年時代[編集]

滝川一族の父に前田家に養子にやられた慶次は、前田利久の愛を受けてすくすくと育ったが、継げるはずだった家督を利家に奪われ、養父と共に荒子城から退去したとされる。その際、利久の奥さんは大変ご立腹だったようで、「この城に住む連中はみんな全身腐って死んでしまえ!」と恨みの言葉をのこしている。

その後、天正9年(1581年)頃に一国を領する大名となった叔父の利家を頼り仕えるまで各戦場を転々とする相良軍曹な青年時代を過ごした、などと言われているが、実際は京都で連歌会に出席したり、結構自由に、放縦に過ごしていた。一説に寄れば、慶次が文化人すぎるので、利家の息子の前田利長が劣等感に苛まれ嫉妬し、上杉に仕官したはずの慶次が大和国刈布というどこにあったか不明な場所で没したという資料が残った原因になったという。

前田家に仕えた時代[編集]

そういうわけで、自由奔放な日々をすごしていた慶次だが、前田家に仕えた後小牧・長久手の役で末森城への救援で傾き、勝手に外に出て戦おうとして利家に怒られたり、前田家に仕える日々に窮屈さを感じることとなる。しかし、戦国時代において「寄らば大樹の陰」は生き残るための常道である。昔の恩義だの友情だの、形式的なことばかり重んじてたら滅亡へと一直線である。養父利久のこともあり、当時は傾くことはあっても出奔する意思はなかった。

当時の利家の慶次に対する扱いを示す例としては、小田原征伐が始まると利家が北陸道軍の総督を命ぜられたのでこれに従い、利家が陸奥地方の検田使を仰付かった事により利益もまたこれに随行するなど、部下と言うよりは半ば親子のような扱いを受けている

盗んだ馬で走り出した傾奇者[編集]

しかし天正18年(1590年)以降、常に周囲を気にせず傾いていたせいで利家によく説教されたため、又は利久の死を契機に前田家との縁がなくなった事によって前田家を出奔する。なお利益の妻子は前もって知人に世話を頼み、出奔には随行させなかった。 この時、慶次は利家に「真人間になる」と嘘をつき利家を水風呂に入れた隙に、松風に乗って出奔したことはあまりにも有名であるが、実際松風は利家の愛馬であり、盗んだ馬で走り出した慶次を見た部下達は、痴れ者を怒り狂ったという。ツンデレな利家は松風より慶次が馬を盗んだことを誤魔化すため「あひゃひょわー」と情けない奇声をだし、さらに注意を逸らすため為部下に素っ裸で抱きついた。ちなみに人の物を盗むのは当然犯罪行為であり、前田慶次は窃盗犯である。これ以降、調子にのって真似をする馬鹿が大勢出た結果「死ぬまで借りていくだけだぜ」という迷言が生まれている。また尾崎豊の某曲の歌詞はこれが元ネタである。

浪人生活から上杉に仕官[編集]

出奔後は京都でニートしながら、里村紹巴・昌叱父子や九条稙通・古田織部ら多数の文人と交流したという。 一説には興味を示した秀吉に呼び出された際、髷を思いっきり片方に寄せて普通に平伏しなかった理由を聞かれた際に、「髷と言うからには曲がってないと」と、とんちのきいた答えを返し、ただの傾奇者ではないと知った秀吉に気に入られ傾奇御免状と褒美の馬を衣服を改めた後、頂戴したと言われている。 慶次については一般的に奇人変人だったとも、餓鬼のまま大きくなった人物だったとも言われており、良く分からない。真偽は不明だが、逸話で慶次に騙された人々が最終的に彼の行いを咎めないでいることから、そこそこ愛嬌のある人物だったこと、史実では伊達を挑発したりと気難しい人物であった直江兼続と仲が良かったことから心が広いことが推察される。

その後、上杉景勝直江兼続に惚れ込んだ慶次は関ヶ原の役が起こった慶長5年1600年ごろに上杉家に仕官し、長谷堂城の戦いで自害しようとした直江を制止し撤退戦にて大活躍をする。その後、西軍敗退により上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、これに従って米沢藩に仕え、「給料はいいから好きに仕えさせてくれ」と要求をして米沢近郊の堂森に隠棲し、兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送って死んだとされ隠居後は一夢庵ひょっとこ斎と名乗ったと言われている。

その他のエピソード[編集]

  • 豊臣秀吉が城に大名を招き盛宴が開いた際、参加していた慶次は突然猿真似をしながら並んでいる大名たちの膝の上に次々と腰掛けてふざけていた。ところが上杉景勝の前へ来ると、ビビッて景勝を避けた。
  • 足を投げ出していた店の店長の足を言い値で買って足を叩き切ろうとした。
  • 知人に熱い飯を喰わされ熱いと訴えると、「漬物を喰え」と言われたので別の日、その知人を熱湯風呂に入れて「熱い」と言ったのを聞くと漬物を差し出した。
  • お尻を吹くヘラを鼻をかむものだと騙されても、問題ないとしれっと答えた。
  • 生意気な和尚に最初はわざと負けてしっぺさせ、次に勝った時に思いっきり殴りつけた。

慶次が最も恐れた人物[編集]

関連項目[編集]

  • 伊達政宗 - 彼にとっては餓鬼
  • 戦国BASARA - 空気。
  • 北斗の拳 - 象さんクラスの足跡を持つ馬がいたり雲な人がいたり。
  • 前田敦子 - 『花ざかりの慶次 ケメン♡パラダイス』 前田家の末裔が主役を演じる。
  • まえだまえだ - 慶次と利家で組むお笑いコンビ。
  • 隆慶一郎 - 柳生物の短編で北斗の拳っぽい話を書いてしまっていることは内緒。