前田利家

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「中途半端な生涯だが、凄絶な覚悟を感じる漢だ」
前田利家 について、長宗我部元親

前田 利家(まえだ としいえ、天文7年12月25日(1539年1月15日) - 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日))は戦国時代武将のまつ(芳春院)と支えあって金沢藩百万石の礎石を据えた藩祖として知られる一方、織田信長柴田勝家の覚えよく、豊臣秀吉とは竹馬の友で、後の天下人徳川家康さえも怖れさせた、股でヤリ左衛門槍の又左衛門と呼ばれるほどの武名高い名将として知られているが、その実態は何から何まで中途半端な「戦国一中途半端な男」である。

中途半端な生涯[編集]

中途半端な生い立ち[編集]

まずその生年についてたが、通説では信長より5歳年下、秀吉より2歳年下の1539年生まれと言う事になっているが、信長の寵童として飽きられるのがあまりに早かった(後述)ことなどからもう少し早く生まれたんじゃないのと疑念が浮上しており、生年については1536年説や1537年説もあったりして判然としない。とりわけ秀吉と唯一無二の親友だったという関係から同い年生まれの1537年説を支持する声が強い。この通り、生まれた年の正確さからして中途半端なのである。しかしこれは他の多くの戦国武将にも言えることなのでこの程度では問題にならない。

では仮に1539年生まれと仮定して、彼と同年生まれの著名人を列挙すると、辛うじて名将の範疇に入るかもしれないが、戦績、知名度ともに中途半端な安東愛季、毛利家を関ヶ原で中途半端な立場に導いた安国寺恵瓊四国を席巻する程度の中途半端な蝙蝠大名長宗我部元親、去就に迷って中途半端な裏切りをやらかしたために信長に処刑され後世に汚名を残した小山田信茂など、中途半端な人物が極めて多いのである。考えてみれば1539年と言う年も、1540年になるかならないかと言う非常に中途半端な年である。もしかすると利家は生まれながらにして中途半端な武将となる宿命を背負わされていたのかもしれない。

源平藤姓がなぜかやたら多い戦国時代武家の中にあって、前田家は本姓を菅原姓としていた。あの菅原道真の家系?武家として中途半端な印象をぬぐい去れない。

中途半端な信長の寵童[編集]

信長と利家が衆道関係にあり、毎日那古耶城清洲城の二の丸にあるハッテン場アッー!していたことは今や小学生さえも知っている有名な事実である。そのため利家は信長相手の枕営業だけで出世した無能であると中傷されることもある。しかしこれは小澤征爾カラヤンバーンスタインにケツの穴を捧げただけで出世できたなどとほざく妄言と同レベルの程度の低い罵詈雑言であり、耳を貸す必要は全く無い。しかし信長に気に入られ、彼相手に枕営業をしたことで利家の出世街道が大きく開けたこともまた事実である。(その点は小澤にもいえることである。[要出典])しかし枕営業だけで名を高める事が出来るほど世間は甘くない。むしろ、利家はケツの穴の締まりが中途半端に悪いと言う理由で信長に早々と飽きられてしまったため、寵童の恩恵を受けていられたのはごく僅かの間だったのである。利家がの又左衛門としてその勇名を轟かせたのは、やはり彼の武勇と実力によるところが大きかった。まだ木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉とはこの頃からの友人であり、秀吉がと呼ばれ、利家の幼名が千代であったという中途半端な理由で、信長を桃太郎に喩えて桃太郎ごっこをやっていた(ちなみに雉役は丹羽長秀

中途半端な逐電と帰参[編集]

利家がケツの穴の締りが中途半端に悪いせいで信長に飽きられてしまったことは前述の通りだが、その後信長は新たに同朋衆の拾阿弥を寵愛し、ハッテン場で熱い行為を交わすようになる。だがこの拾阿弥は信長の父信秀の落胤とも言われる経歴不詳の男であり、この頃利家はおまつ(芳春院)を娶ったが、まだ中途半端に信長のイチモツに対する未練もあったのか、拾阿弥のような中途半端な男を重宝するのは憚るべきと諫言するも、これが拾阿弥の怒りに琴線に触れ、存在自体が中途半端なお前に言われたくないと拾阿弥が反論、そのまま乱闘にもつれ込んでついには利家は刀をもって拾阿弥を斬殺してしまい、これが信長の逆鱗に触れ利家はしばらくの間織田家を逐電する。しかし中途半端な利家は結局織田家に帰参する事となる。桶狭間の戦い、森部の戦いで中途半端な敵将を討ち取ったという中途半端な功績を以って利家は帰参を許されたが、信長としても「まあ中途半端だけどそこそこ使えるから、他家に仕官されるよりは戻ってきて欲しいな」程度の中途半端な心境であった事は想像に難くない。なお前述のおまつ(芳春院)を娶った際、おまつは未だ数え12歳(つまり満年齢だと11歳)であったことからロリコンと推測されるが(ちなみにそのょぅι゛ょ を即孕ませ翌年長子を誕生させたつわものである)、利家の中途半端な経歴のせいかあまり問題にされない。

中途半端に戦歴を重ねる[編集]

利家は前田家の三男であったが、長兄の前田利久が病弱であったことと、「利家は傑出しているわけではない中途半端な男だが、前田家の三男坊で終わらせるには惜しい」という中途半端な理由で利家は前田家の家督を継承する。前田利久は武将としての才覚は乏しかったが人徳は篤かったらしく、かの前田慶次は養父である彼を一生慕ったという。一方、利家の方はと言うと、無論人格面においても中途半端であった。

そんな中途半端な利家だったが、美濃攻め、姉川の戦い長島一向一揆長篠の戦いと、信長の天下統一事業の通過点となる合戦には概ね従軍し、中途半端ながらも武勲を重ねた。ちなみにこの過程で美濃三人衆から名前漏れして自分を含めて西美濃四人衆を自称することで辛うじて体面を保っている中途半端な美濃の武将不破光治と懇意になる。まさに類は友を呼ぶ、この中途半端な武将二人はこの後仲良く北陸方面へ駆り出されることとなる。ただ中途半端な両名にも若干の差異はあり、利家は武勇に、不破光治は外交能力に長けていた。

中途半端な鬼柴田のスパルタ教育[編集]

30後半にもなって相変わらず中途半端な利家だったが、不破光治、金森長近ら利家と同じく中途半端な武将達と共に柴田勝家の与力として北陸方面に転属させられる。北陸方面への転属理由は、利家ら中途半端な武将達なら、足手まといにはならずにそれなりの戦功が見込める、また北陸の冬将軍や勝家のスパルタ指導にも程よく耐えられるだろうと中途半端な理由であった。勝家は初対面でいきなり「俺はお前のような器用貧乏が一番嫌いだ」と面罵して利家を殴り飛ばしたという(ついでにこの時不破光治と金森長近も殴られた)が、器用貧乏と言うのは流石に言いすぎであろう。勝家は利家達を厳しく鍛え上げたが、情に厚く涙脆い勝家は人の扱いに甘い一面があり、利家達への指導もやや中途半端な面があった。この中途半端さが、後の賤ヶ岳の戦いにおいての利家、不破、金森らの中途半端な裏切りの遠因ともなってしまう。

中途半端な前田慶次への対処[編集]

信長に中途半端にとりいって兄貴の前田利久から前田家の家督を奪って安泰だったが、しばらくして利久と一緒に戻ってきた甥の前田慶次の傾きっぷりに振り回され続けることになる。あまりにもうっとおしいので自分の影武者をやらせて他国の連中に殺させようという中途半端な策略を思いつくが「俺は前田利家の影武者じゃないからな!殺すなよ絶対殺すなよ!」とボケをかまされたせいで危うく自分が小手で殺されそうになる。さらに慶次が出奔の際に水風呂を馳走した際にも、徹底的に追跡することもなく寛大なコメントをして大物っぽくみせるわけでもない中途半端な対処のせいで後の漫画『花の慶次』でもしょうもない人物に描かれることになった。

中途半端な一向宗への仕置[編集]

利家は勝家に従軍して越前、加賀の一向一揆を鎮定したが、凄まじい抵抗を見せる一向宗を相手に利家は釜茹でや磔などの苛烈な残虐刑を以って抑止しようとした。利家がこれらの蛮行に及んだのには、日ごろ中途半端で思い切ったことが出来ないといわれている周囲からの偏見を払拭したい一念もあった。しかし妻であるまつに非難され夫婦仲が冷却すると途端に怯え腰になってしまい、それまで弾圧していた一向宗徒を逆に隠れて保護するという中途半端な行動を見せるようになる。大河ドラマ利家とまつ」において利家が一向衆徒を庇護する展開があったことに対して「主役美化の為の史実捏造だ」と言う批判が集中したが、実は半分は史実だったのである。無論、利家だけでなく、金森も不破も、人情に厚い勝家も中途半端な仕置きをしてしまったため一向宗徒は増長して尚も抵抗を続け、かれこれ鎮定に10年近くの歳月を費やしてしまった。ちなみに利家は北陸方面攻略軍の一員であった頃、不破光治や佐々成政と並んで府中三人衆と称されたが、この間にも利家は信長の要請で三木城攻めや有岡城攻めに直参の武将として従軍しており、相変わらず織田家の中で中途半端なポジションにいたことが伺える。

中途半端な上杉景勝への完全なる勝利[編集]

1582年、勝家率いる北陸遠征軍は越中まで華麗に席巻し、上杉景勝方の魚津城を完膚なきまでに落城せしめる大功績を挙げた。この時、上杉方の吉江景資山本寺景長中条景泰らの壮絶な最期を垣間見た利家は今までの中途半端な生涯を振り返り、せめて己も死ぬ時はかのごとく華々しく散りたいものだと感慨に耽っていたが、つい言葉に出してしまい、金森、不破らには鼻で笑われ、佐々成政には「絶対無理」と断言されてしまう。

しかし同日、彼らの主信長は本能寺の変で横死を遂げたため、上杉家殲滅は道半ばにして断念せざるを得なかった。

中途半端な賤ヶ岳においての去就[編集]

利家の親友羽柴秀吉が毛利攻めから素早く引き返し山崎の合戦で早々と光秀を討ち取ったのに対し、勝家ら北陸遠征軍は冬の雪と魚津城での必死の抵抗に阻まれ帰参が遅れてしまった。このため、清洲会議での発言権は秀吉に分があるところとなり、信長遺児の織田信雄織田信孝、勝家、滝川一益らは断固秀吉に抗う構えを見せたが、一方で織田家重臣の池田恒興丹羽長秀らは秀吉に迎合する。利家は勝家の与力と言う関係上秀吉と縁を切って雌雄を決するか、さもなくば勝家を裏切り秀吉の元へ走るか二者択一を迫られる立場であったが、利家は勝家への恩義と秀吉との友情に板挟みになって葛藤し、去就を決めかねた…と言えば聞こえは美しいが、要するにここでも利家は中途半端な態度を取ってしまったのである。そして利家の中途半端な心境は勝家と秀吉が雌雄を決する賤ヶ岳の合戦において突然の戦線離脱という形で現れる。利家はもっとも中途半端な状況下で去就を決めてしまったのである。合戦後、落ち延びる勝家が利家の居城に立ち寄り、湯漬けを食したというエピソードがある。この時利家の家臣達はこの期に乗じて勝家を討ち取るべきと進言したところ、「俺は中途半端といえどももののふだ、そんな卑劣漢じみた行為が出来るか」と一蹴したと伝わっているが、これによってかえって利家は男を上げるどころかその中途半端ぶりを鮮明にしてしまったと言える。

中途半端な佐々成政との凄まじいライバル関係[編集]

佐々成政と利家は、利家が信長の巨大な肉棒に掘られてアンアン喘いでいた頃からの友人であり、ライバルでもあった。しかし戦以外もそれなりに卒なくこなす利家とは対照的に、成政は武辺一辺倒の男であり、性格も直情的で、早い話が権謀術数渦巻く戦国の世を生き残れる器量ではなかった。しかし一本気な性格ゆえ、決意すればどんなことでもしてのけ、それは時に常人を仰天させる行動となって現れる。そして人々はむしろそういった人間に好意を寄せるのは、アンサイクロペディアで整備士型の管理者より気違いのふりして雑居房を掻き乱す陽狂な管理者のほうが人気が高いことからも分かる。

土壇場で寝返った利家だが、結果として羽柴方の勝利を決定付けたため大いに秀吉から賛美され、柴田側の佐久間盛政の旧領を与えられ、金沢城に移るが、成政から裏切り者として敵視され、小牧・長久手の戦いにおいて、成政は前方に前田利家、後方に上杉景勝と前後から敵に挟撃される事を承知で徳川家康に呼応し、末森城へと攻め寄せる。利家家臣の奥村家福が良く防いだため成政は敗れ、さらに家康が秀吉と講和を結んだ事で成政は孤立し窮地に立たされるが、その切迫した状況下、成政は家康を促すべく厳冬の北アルプスを越えて家康の居城浜松まで山越えを敢行する。名高いさらさら越えである。この時利家は進退極まった成政は戦国武将を廃業し登山家として余生を過ごすものだと勘違いし、成政に応援のエールを電報で送ったが、成政はこれを利家の挑発と勘違いして激怒し(無理もない)、何が何でも山を越えて浜松まで辿り着かんと執念を見せた。結果として意図せず利家が挑発したおかげで成政はアルプス越えを完遂することに成功したのである。結果として家康を促すことは出来なかったが、成政の勇名は一気に伝播し、成政の男としての株が鰻登りに上昇した。

だが利家はこの成政の偉業に嫉妬したとも言われており、後に成政が肥後に転封された後失政を咎められて切腹させられたのには利家が策謀を巡らしたとの説もあるが、辛うじて武勇が長けている他は中途半端な利家がそこまで策謀を巡らせられるはずもなく、また人格的にも中途半端な利家は成政の偉業を妬みこそすれ命奪うまで陥れようとはしない、と史家の見解は概ね一致しており、利家が成政の凋落に一枚絡んだという説の信憑性は低い。

中途半端な末森城の合戦[編集]

上記にあるように、この合戦で勝てたのは利家家臣の奥村家福が頑張っていたことが大きく、さらに中途半端にしか兵を用意していなかったため、いつまでも出陣しないことに腹を立てた嫁の前田まつに「日ごろから家臣より金ばっか貯めてるから追い詰められるんでしょ!さっさと救援に向かいなさい!」と散々に言われて仕方なく出て行ったりと武将としても夫としてもかなり中途半端な存在であった。漫画『花の慶次』のような感じだったのだろう。

中途半端な大大名[編集]

その後、秀吉の九州征伐小田原征伐奥州平定などに同行し、諸大名の取次役などとなる。秀吉の晩年には徳川家康らと共に五大老に任命されたうえ、豊臣秀頼の後見役に任じられ、高い人望で事実上、家康と並び秀吉没後の豊臣政権の双頭となる。しかし領土が能登、加賀、越中と北陸地方にあり、天下に睨みを利かすには中途半端な地理的位置にあったため、まとまった兵を大坂に詰め続けざる得なかった模様。


中途半端な家康との対決[編集]

利家は秀吉の死後、福島正則加藤清正ら武断派と石田三成ら能吏との対立の仲介を務めた。秀吉の遺言を無視しまくって冗長する家康と対決姿勢を見せ、家康の在勤する伏見と利家の在勤する大坂でそれぞれ兵が集まり一触即発の状態・・・となるも、しばらくして有耶無耶になり、家康が利家を訪れ和解して解散となった。結局秀吉の死後間もなく後を追う様に他界することとなり、家康の台頭を許す羽目になる。それまでの中途半端さもさることながら、あまりに中途半端な時期に死去してしまったことが、利家の戦国武将としての評価を曖昧で中途半端なものにしている。

尚、利家が生きていたら家康に抗しえたか否かを論ずると非常に不毛な議論になるので、どうしても議論したい暇人はウィキペディアか戦国関係サイトで思う存分やれば良い。

中途半端な加賀100万石[編集]

後を継いだ前田利長は、家康に因縁つけられると大人しく屈服。毛利家、上杉家が関ヶ原の戦いの後領地を四分の一に減封された一方で、分家合わせて120万石の超外様大名として江戸時代存続するが、江戸時代を通じて、幕末までもパッとしない。利家の中途半端の精神は前田家の家風として保たれ続けたのだった。

中途半端なゲームでの扱い[編集]

中途半端な男のくせに人気があったのか、はたまたスタッフから愛されてたのか、BASARAにも無双にも登場する快挙を成し遂げた。しかしBASARAでは一部戦闘モーションが使いまわしな上、無双では槍の達人の癖に刀も使うというこれまた中途半端なキャラにされてしまった。無双3では猛将主役張ってたのにオリキャラくのいち差し置いて模擬専になってしまった、これまた中途半端。

無双OROCHIシリーズにも出演するが、初出『魔王再臨』で雑賀孫市と一緒にピンチを迎え、夏候淵に助けてもらう中途半端っぷり。さらに『2』も、平清盛が得意とする傀儡の術で洗脳にかかるなど、中途半端でイイとこなし。

中途半端な人物像[編集]

その人物像は

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