別所長治
「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」
- (誕生の際、父別所安治からかけられた最初の言葉)
別所長治(べっしょ ながはる、永禄元年(1558年) - 天正8年1月17日 (1580年2月2日))は戦国時代の人物で、播磨国の戦国大名。といっても実際領有していたのは播磨国の東半分のみであり、だいいち大名と名乗るのもおこがましい弱小勢力。存在自体よく端折られる。織田、毛利の2大勢力に囲まれ、かなり危うい立場にあったが右側の髪の毛はもっと危うかった。そんな母性本能くすぐりぶりでマゾ界(マ界)ではカルト的な人気を獲得。マゾなので犬属性をもち、某サルとは犬と猿なだけに犬猿の仲。でも実は部下の命を救うため自らが犠牲になったナイスガイである。
来歴[編集]
三木城(現·兵庫県 三木市)城主。東播磨半国守護。ポジションはDF。主に右サイドバックで、小柄ながら豊富な運動量とクロスボールの精度には定評がある。 はじめ毛利軍に属していたが出場機会を求めて織田軍へ移籍。だが織田信長が攻撃的な3-4-3システムを採用したためチームの戦術に馴染まず、古巣毛利軍に電撃復帰した。

その後、信長の命を受けたニホンザルの群れに襲われ三木城に籠もる。(※追記 通説ではこれまで三木城を襲った猿は日光猿軍団とされてきたが、近年の研究で日光猿軍団ではなく日本モンキーパーク(愛知県犬山市)の猿であることがわかった。また余談であるがこの三木城攻めに参加した日本モンキーパーク飼育のアライグマの一部が逃亡し現地に土着。山賊化し現在でも三木市山間部を根城にしきりに劫略を行っており地域社会に深刻な問題を及ぼしている)
頼みの毛利の援軍も来ず、約2年にわたる猿軍団(アライグマ含む)の執拗な粘着凌辱プレイの末、長治は城兵の助命を条件に切腹して果てた。 その高潔な死を嘆じた後世の詩に
「今 ひとつの伝説が終わる・・・ それは まばゆいばかりに光り輝く まさに黄金の瞬間だった・・・ ありがとう そして さよなら・・・ 別所長治よ永遠に きみたちの心から 消えることなく・・・・・・」
享年23歳。ハムが大好物だったと伝えられ、別所公と書いて「べっしょはむ」と読ませるほどであったという。
この1年後には吉川経家が長治と似たような死に方をするが、経家が長治に影響を受けたことは創造に難くない。
弔辞[編集]
長治の死に際し、各界の著名人から数多くのコメントが寄せられている。
- 「・・・・すごい漢だ」(不破刃)
- 「長治の魂よ、宇宙に飛んで、永遠の歓びの中に漂いたまえ」(ガイア)
- 「朕も朋友と呼んでみたかった」(愛新覚羅溥儀)
- 「お前の魂はこのダイゼンガーと参式斬艦刀が受け継ごう」(ゼンガー・ゾンボルト)
- 「国立の神様がついていてくれるので、次は必ず勝つと信じている」(ラモス瑠偉)
- 「フリードリッヒ大王は言っとる。大胆、大胆、常に大胆だ」(ジョージ・S・パットン)
- 「おービールが無えじゃねぇか!何でビール無えんだ!ビールがねぇよバカヤロー!・・・何だこの2本は!?」(後藤達俊&小原道由)
- 「首と胴を切りはなし、手足をバラバラにしてくれるわーっ!!」(織田信長)
後世の評価[編集]
初期の信長の野望では六角義賢とともに最弱大名として脚光をあびる。多くのマゾプレイヤーから愛玩され、別所マゾと呼ばれるマゾヒズムの一類型を生み出した。史実でも1年10ヶ月間にも及ぶ籠城戦は恐らく日本史上最長の籠城記録であり、彼がマ界のプリンスと呼ばれる由縁となった。また三木の干殺しと言われたこの凄惨な籠城戦のコンセプトは、後の『ザ・ガマン』(フジテレビ系列)、『お笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系列)等のバラエティー番組にも多大な影響を与えている。
人物[編集]
現代のマゾプレイヤーから多大な支持を受ける長治だが、彼自身も重度のマゾヒストとされてきた。しかし近年の研究により真性ではなくキャラであったことが判明した。
司馬遼太郎は長治とその妻·照子はかなりの美男美女カップルであり、美しい夫妻のカリスマ性でのみ三木城内の人心を掌握していたとする。後世描かれた長治の数々の肖像画を見ればその美貌の程は瞭然であろう。
雑記[編集]
- 兵庫県三木市では長治を顕彰し、「別所公春まつり(べっしょはむはるまつり)」が毎年5月に開催されている。別所公春まつりの武者行列では、大将クラスを含め全員徒歩、足軽隊がジャージ、ジーパン履きである等、史実に基づき忠実に再現された別所軍団の勇壮な姿を見ることができる。
- 現在三木城址には長治の騎馬武者像が三木の町を見守るかのように鎮座している。この像は地域住民たちから自由の長治像と呼ばれ親しまれている。また長治の胴塚がある法界寺にもなぜかこれとまったく同型の自由の長治像が安置されており、三木城内にあるのがTYPE-R、法界寺のものはTYPE-Lと呼称されている。
- また三木城址には長治夫妻の首塚が祀られており、地元高校生の間でこの首塚の前で告白したカップルは永遠に二人仲良くいられる、と信じられている。(伝説の首塚の伝説)ただし末路は二人仲良く自害である。
- 往年の巨人軍名投手·別所毅彦は長治の生まれかわりで、「別所SUN」の愛称で親しまれた。
獲得タイトル歴[編集]
- 東播磨バンタム級王座
- ベストマゾヒスト賞(1580年)
- いじめたい戦国大名10年連続1位(殿堂入り)
- GAYアナル級選手権
- 兵庫県夏休み読書感想コンクール小学生の部 佳作
- ジオン十字勲章
- 沢村賞(別所毅彦名義で)
関連項目[編集]
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