内藤昌豊

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内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、武田信玄に仕えた戦国武将の一人。馬場信春山県昌景高坂昌信と共に「武田の四名臣」と呼ばれている。

「内藤さんいたんだ」
内藤昌豊 について、高坂昌信
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人物[編集]

…とまあ、馬場や山県と肩を並べるほどの武将だと評されているくせして、存在感が極めて希薄な武将である。その空気っぷりたるや、武田家の躍進に大きく貢献したにもかかわらず、存在感が薄すぎるので信玄から存在を認識されず、おかげで一枚の感状も貰えなかったほどである。後年、この事を問いただされた信玄は「内藤修理亮ほどの名将であればこれぐらいの仕事はこなしてしかるべきであり、感状をいちいち与えるほどの事でもない」と苦しい弁解をしている。

内藤昌豊という名前で有名だが、内藤の姓を名乗ったのは死ぬまでの5~6年ぐらいで、それまでは本来の姓である工藤を名乗っていたのだが、存在感が薄いので誰も気にしない。また名前についても昌豊であるという説と実は昌秀だったという説が混在しており、実名すら定かではないことが地味っぷりに拍車をかけているが、中世の人間は別名10個以上あったりするのが普通であり、同じ武田の四名臣の馬場信春も信房という別名があったりする。別に影が薄いから昌豊だけ名前が定かではないわけではないのだ。

経歴[編集]

そんな地味な内藤さんだが、その経歴は壮絶である。武田家家臣、工藤虎豊の息子として誕生するも、昌豊が10代の頃、発狂した信玄の親父武田信虎によって虎豊が手打ちにされてしまい、工藤家は改易となる。若き昌豊は甲斐を出ることを強いられ10年近くに渡る長い放浪を送ることになる。存在感が薄いキャラは薄幸でもあることが多いが、御多分にもれず内藤さんも幸が薄かったのだ。

信虎が信玄によって追放されると、昌豊も甲斐国に戻る事を許され、以後、信玄として仕えることになるのだが、この時信玄は、板垣信方から話を聞かされるまで、工藤虎豊のことを忘れていたし、息子がいて放浪生活に身を落としているなんてことを、全く知らなかった。しかし、調子の良い事に、昌豊を呼び戻した時、信玄はドヤ顔で、前々から昌豊のことが心配でいつか呼び戻そうと思っていたなどと吹聴したという。

昌豊は使える人材であり、兵糧や物資を輸送する荷駄隊など、地味だが緻密な作業と見識、手腕を要求される仕事をこなした。貢献で言えば武田家の中でもトップ5に入るほどであり、山県昌景からも「武田信繁亡き後の武田の副将」と呼ばれるほどの活躍だったが、欠かせない仕事とはいってもやはり荷駄隊の指揮などは地味だったので、多くの人々からは存在を認知されなかったのである。そんな地味な扱いに本人も嫌気がさしたことがあり、一度信玄に「荷駄隊みたいな地味な仕事ばっかりもう嫌だ。」と抗議したことがあるが、信玄に「何を言ってるんだ、荷駄隊ってすごく大事な仕事なんだぞ。出来ることなら俺がやりたいくらいだ。」とうまく言いくるめられてしまった。勿論それ以前もその後も信玄が荷駄隊をやった記録はない。

1573年に主武田信玄はこの世を去るが、その前後から、昌豊は史料に一切姿を見せなくなる。無論、裏で地道な仕事をして武田の屋台骨を支えていたわけだが、歴史学者達からは「史料に出なくなったから死んだんじゃないのか」と死亡認定されてしまっている。2年後に長篠の戦いで戦死しているわけだが、こう主張する歴史学者達は、長篠の戦いに出たというのは、地味なまま死んでいった昌豊に対して最期の死に場所だけでも華々しく飾ってやりたいという同情から生まれた創作だと主張している。

1575年、昌豊は長篠の戦いに出陣し、馬場や山県ら他の武田の名将らと共に討ち死にを遂げた。しかし、やはり地味な人間の宿命か、鉄砲で蜂の巣にされて壮絶な最期を遂げた山県や、勝頼を逃がすため劣りとなって果てた馬場と違い、死に様も漠然としていて、気がついたら戦死していたという有様であった。

なお、勝頼と古参の家臣との間には齟齬があり、馬場、山県、内藤らは、勝頼に無謀な戦いを避けるよう進言したが、勝頼は黙殺した、という粗末な作り話がある。馬場山県はともかくとして、内藤は存在感がなさすぎて勝頼から認知すらされていなかったのだから、この話が創作であることは明白である。

その地味さについて[編集]

何度もしつこいが、内藤は馬場や山県、高坂と共に四名臣と呼ばれたとは思えないほど地味であり、「三人しかいないのになんで武田四名臣って言われてるんですか」という質問を本気でもらったと柴辻俊六氏などは語っている。

その地味さは二時創作物にも反映されており、大河ドラマにおいては武田信玄(1988年)でも風林火山(2007)でも存在を完全にスルーされるという仕打ちを受け、信長の野望においても一人だけ普通の顔グラに控えめな能力値を設定されている。

こうした扱いから「忘れられた名将」として毛利勝永らと共にコアな人気を博している。

「内藤」という苗字について[編集]

「内藤」という苗字は、信玄が勝手に作ったものである。前述の通り、昌豊かかつては工藤という苗字を名乗っていた。しかし、大車輪の働きをする昌豊を称えて、工藤から内藤にクラスチェンジするが良いと、信玄が内藤姓に改名させた。

工藤の「工」は木工助、つまり大工の工である。一方で内藤の「内」は内記の内をあらわす。内記とは官僚のようなものである。改名の背景には、昌豊をオールマイティ土方として酷使して申し訳ないという信玄の配慮があり、せめて苗字だけでもセレブなものに変えてやろうと思い、内藤と改めさせたのであった。しかし改名したせいで以後500年以上に渡り「存在感がない藤」と揶揄されることになってしまった。