共和制

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共和制(きょうわせい)とは、世襲によらず選出された1人の人間に権力が集中する専制的政治体制の一種である。君主制の対義語に当たる。

由来[編集]

中国の西周時代、10代目の王である厲王は暴政の限りを尽くし、民衆は物を言うことすら憚って視線で意思を伝え合うという有り様であった。やがて人々の不満は頂点に達し、反乱が勃発、王宮に人々が乱入して厲王は殺される寸前だったが、なんとか王宮を脱出して国外に逃げ延びたのである。はるか彼方のローマルキウス・タルクィニウス・スペルブスが追放される300年以上前の出来事であった。

これによって周では王が不在となったが、人々は周王朝を廃止しようとはせず、次の王が建つまでの当面の間、王に代わる人物に政務を任せることになった。『竹書紀年』『呂氏春秋』を始めとするの多くの書物によれば、それは共伯の和という人物であったという。

『竹書紀年』では、この出来事について次のように述べられている。

共伯和、王位を干(かん)す。

干すとは簒奪するという意味であるから(唐の司馬貞の説)、共伯和が王位を簒奪し、周王朝を滅ぼしたと考えてもあながち間違いではない。簒奪したと書かれるくらいなので、共伯和は周王が持っていた政治の大権をおおかた掌握していたのであろう。なので、この時代を新君主共伯和による王朝の時代と捉えることも可能である。しかし、後世の人々はそうは考えず、あくまで君主不在期間と考えたらしい。だからこそ、この故事から生まれた共和制という言葉は遙か後に君主制の対義語として使われるようになったのである。

意味[編集]

すでに述べたように共和制は君主制(厳密には専制君主制)の対義語である。君主制が「君主による専制的政治体制」を指すのに対し、共和制は「君主以外の者による専制的政治体制」を指す。君主以外とは、非世襲的な方法で選出され、かつ将来の世襲を想定していない人物と捉えて良いだろう(選挙君主制のような例外もあるが…)。あくまで君主制の対義語であり、君主国で特定の家臣が政治を牛耳っている場合などは共和制とは呼ばないのが普通である。

代表的な共和制[編集]

イングランド共和国[編集]

清教徒革命により成立。終身護国卿オリバー・クロムウェルの下で、近代共和制時代の幕がアイルランド人の首と共に切って落とされた。その最初の時代に相応しいほど、共和制が忠実に施行されていたと言われる。しかし息子に世襲したがために結局君主制でいいじゃんと人々は思い始めて…。

フランス共和国(第一共和制)[編集]

革命後のフランスでは恐怖政治家ロベスピエールが台頭し反対者は次々と断頭台に送られた。その後失脚して自分自身がギロチンにかけられる。フランス革命下で最も輝かしいと言われる時代である。

ワイマール共和国(ナチス・ドイツ)[編集]

アドルフ・ヒトラー率いるナチスよる政権掌握。共和制の最も典型的な例として知られている。ヴィルヘルム2世ヒンデンブルグ元大統領らは上記の故事を知っていたらしく、ヒトラーが共伯和のようにいつか王権を返してくれると期待していたらしいが当然のように裏切られた。

ソビエト連邦[編集]

歴史を通して書記長の権限が強く、名前に恥じない共和国であったが特にスターリンの時代が最も共和制を体現していたと言えるだろう。

中華人民共和国[編集]

本家共和制の国、中国で共和制が復活。毛沢東独裁下では反右派闘争などにより数十万人が投獄された。また大躍進政策を実行し、増えすぎた人口を少しでも減らすために尽力した。

開発独裁の国々[編集]

とりあえずクーデター。そして大統領が独裁。またクーデター。南米とアフリカに多い。昔の韓国台湾も。

その他[編集]

北朝鮮金日成の時代には共和制国家とみなされていたがその後世襲により君主国(金氏朝鮮)に移行した。

関連項目[編集]