六角義治

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六角 義治(ろっかく よしはる)とは、織田信長の天下取りにおける最大の功労者と言われている戦国大名。弓とゲリラ戦と夜逃げの達人でもある名将にして、最終的には天下人豊臣秀吉の子秀頼の弓の先生として余生を全うした勝ち組である。

人物[編集]

義治は南近江の名門六角家の当主、六角義賢の子として生まれた。母は能登国のこれまた名門畠山義総の娘であり、義治は名門の家系から生まれたサラブレッドということになる。そうした良い血筋のおかげか義治の武将としての能力は傑出しており、他の戦国大名が成し遂げない偉業を成し遂げた。

六角氏式目[編集]

その偉業は二つある。まず一つは、分国法によって自分を拘束したという点である。こう書くととても偉業には見えないが、本来であれば家臣の好き勝手を制限することが趣旨であるはずの分国法で、義治は自分自身を制限の対象にしてしまうというウルトラCを成し遂げたのだ。義治以外にこのウルトラCを成し遂げた大名は一人もいない。

分国法とは、戦国大名達が領内の統治を円滑にするために制定した法規であり、今川氏親の今川仮名目録や、武田信玄の甲州法度が有名である。

六角義治が制定した分国法は「六角氏式目」と呼ばれるものだが、この式目、成立の経緯から内容まできわめて奇抜なものであった。その内容は端的に説明すれば、当主六角義治の権限を大幅に制約するものであった。例えるなら、義治は自分で自分を亀甲縛りにしてしまったのである。

こうなった原因は数年前に遡る。六角家には後藤賢豊という、有能だけど口うるさい家臣がいて、義治にいちいち諫言した。腹が立ったので、義治は後藤を粛清した。すると後藤の息子をはじめ、六角家の有力家臣が理不尽だと騒ぎ立て、義治は親父の義賢ともども一時期領国を追われてしまうほどの反発を受けた。義治は家臣らと折衝を行い、和解の過程で生まれたのがこの式目であった。

と、一見義治がとんでもない馬鹿大名のように見えてしまう経緯だが、実は義治は後藤の息子達が反発を起こすことを承知しており、和解の過程としてこの式目が制定されることを見越して後藤賢豊を粛清したのである。なぜそのような回りくどいことをしたのかというと、義治は束縛されるのが大好きなマゾヒストだったからである。

実は、六角氏は度重なる軍事行動で経済的に疲弊している貧乏大名であった。そして、後藤賢豊は、実は六角家の軍資金を着服していたのである。とはいえこれは他の家臣もみんなやっていることであった。にも拘わらず何故後藤だけを殺したのか。それは後藤の財産が目当てであった。しかし、結果は後藤家の財産を奪うことは出来ず、義治が自分の身体を拘束される結果に終わった。だがマゾヒストの義治はまあこれでいいやと考えていた。

何はともあれ、六角氏式目成立は瞬く間に日本各地に広まった。各地の戦国大名は大名の行動を制限するというあまりに斬新な分国法に驚嘆し、そのような分国法を制定させた義治を侮りがたしと再認識した。この偉業によって義治は1567年度イグノーベル賞を受賞した。

信長の天下取りのお膳立て[編集]

もう一つの偉業は、信長の天下取りのお膳立てをしてやったことである。この時期、尾張の織田信長は美濃を征服し、まさに上京しようとしている段階であった。そして京都への道の途上には六角の領国である南近江があり、信長との激突は必然となっていた。

信長の軍勢が進行してくると、義治は父義賢と共に抵抗したが、後藤賢豊を粛清した事件のせいで家臣の人心が離れており、六角家はまとまりを欠きただの烏合の衆になっていた。案の定惨敗し、あっという間に居城観音寺城を落とされてしまった。信長が嫌いな連中は、信長が強かったんじゃなくて六角義治が自爆しただけと口を揃えて吹聴したが、その通りである。

半端な戦国武将では信長に最期まで抵抗して玉砕しようとするところだが、視野の広い義治はそんなつまらん武将としての矜持などに捕らわれずに、スタコラサッサと夜逃げした。この辺が最期まで意地を張って死んだ北近江の浅井長政との決定的な器の違いである。

馬鹿なボンクラ大名が馬鹿な所行で家中を乱してそのせいで信長にボロ負けしただけのように見えるが、信長の天下統一事業を壮観すれば義治ほど信長の覇道に貢献した人物はいないだろう。なぜなら京都への道の途中にいる義治が自爆してくれたおかげで、信長は易々と京都に入ることができたからである。もし南近江に毛利元就のような一筋縄ではいかない大名がいたら、信長の天下統一にはもっと時間がかかっただろう。義治の自爆による貢献は瓶割り柴田米五郎左など足元にも及ばぬ活躍である。信長の覇道に貢献したという点では一番信長を妨害できる立場にありながらひきこもりを続けた朝倉義景もいい勝負だが、やはり自爆というインパクトが強いせいで義治に軍配が上がることが多い。引きこもることはたやすいが、自爆することはそう簡単ではない。戦国時代においても、自爆した人物など松永久秀など数えるほどの傑物しかいないのである。

その後もしつこい義治[編集]

潔く(笑)あっさりと死んでしまった浅井長政(笑)などと違い、義治は転んでもただでは起きない男であった。各地に潜伏しながら反信長勢力と結託してゲリラ戦を展開、捕らえようとしてもその度に夜逃げするので捕まえようがなかった。また義治は弓の達人であり、藪の中から弓を放って信長の兵を大量に射殺したり、信長本人を狙撃しようとしたこともあった。信長を狙撃した杉谷善住坊は簡単に捕まって見せしめにのこぎりで首を斬りおとされたが、義治は夜逃げの達人だったので捕まるわけがなかった。

信長が死ぬ直前には武田勝頼に協力し、かの快川紹喜の元に潜伏しており、武田が滅ぼされた際、義治をかくまっていたせいで快川紹喜が火あぶりにされて殺されたのは有名な話である。この時織田の軍勢は快川紹喜に六角義治の身柄を引き渡せば命の保障をしてやると迫ったが、義治は織田の追っ手が来る前に既に夜逃げしていたので、快川紹喜は焼き殺される以外の選択肢がないというどうあがいても絶望な状況であった。そんな義治だがなんと本能寺の変の黒幕候補にまで挙がっている。他の黒幕候補と言えば足利義昭長宗我部元親、そして朝廷といずれも傑物ばかりであり、それらと共に黒幕候補になる時点でいかに義治が名将であるかを物語っている。

晩年[編集]

波乱の生涯を送った義治だが、晩年には豊臣秀吉に仕え、息子の豊臣秀頼の弓の師範になっている。そして1612年に死去。大阪の陣が始まる3年前であった。最期は厄介事に巻き込まれる前にこの世から夜逃げした義治であった。

なお、徳川家康が是が非でも豊臣秀頼を滅ぼそうと躍起になった理由の一つとして、義治から弓術を教わった秀頼は恐ろしい猛将になっているに違いないと危惧したからだというものもある。巷に伝わる伝承では、義治直伝の弓術を用いて秀頼は大坂城の天主から雨のように弓を飛ばし、多くの徳川兵を討ち取り、家康の本陣にまで矢が飛んできたと言い伝えられる。義治は家康をも戦慄させるほどの名将だったのだ。

結論[編集]

人間万事塞翁が馬。六角義治は運に恵まれた男である。