六歌仙

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六歌仙(ろっかせん)は、9世紀に活躍したアイドルグループ。メンバー全員が当時の日本を代表するシンガーソングライターであり、まさにドリームチームであった。

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概要[編集]

842年、歌の嫌いな嵯峨天皇が死んじゃった記念に、良岑宗貞(後の僧正遍昭)の呼びかけにより、6人の天才シンガーソングライターたちが集まった。これが六歌仙である。瞬く間に人気となったが、その人気はとりわけ、当代随一のイケメン歌手在原業平と、絶世の美女小野小町に集中した。しかし、結成から5年も経つと、小野小町が加齢による容姿の衰えを訴えて引きこもりがちになり、在原業平はソロ活動に没頭するようになったため、活動は衰退した。そして、850年にリーダーの宗貞が出家したことにより、正式に解散した。

しばらくこのグループの存在は忘れられていたが、約半世紀後、人気ネカマ歌手、紀貫之によって彼らの活動は再評価される。以下、六歌仙の活動については、主に紀貫之の証言により記す。

メンバー[編集]

良岑宗貞(僧正遍昭)[編集]

実は桓武天皇の孫。グループ最年長で、結成時の年齢は26歳。二次元ヲタクであったことが知られており、例えば紀貫之は、遍昭が「絵にかける女を見て徒に心を動かす」(絵に書かれた女をみて、いたずらに恋心を抱く)という性質を持っていたことを証言している(『古今和歌集』の序)。現在では二次元ヲタクは一般的であるが、アニメーションの発達が乏しかった当時において二次元に萌えるというのは、並大抵の想像力ではないことを示している。

出家した理由も、もはや三次元の女性には興味がわかないから、というものであったとされている。しかし、寺に小野小町が尋ねてきた時には、少々性欲を抑えきることができなかったようである。「寒いから衣を貸してくださいません?」と誘う小町に対し、「法衣なんかじゃ寒いから、二人で寝よう」と答えたことはよく知られている(『小町集』『遍昭集』)。出家したことなどすっかり忘れてしまっていたようだ。

在原業平[編集]

こちらは平城天皇の孫。父親は阿呆親王。グループ最年少で、結成時17歳。イケメンであったというだけではなく、匂いでも女性を魅了したようで、例えば紀貫之は、業平が「しぼめる花の色なくて、にほひ残れるが如し」(花がしぼんでしまって色あせてしまっても、まだ匂いが残っているような感じ)であったと証言している(『古今和歌集』の序)。

ソロ活動開始後は、ひたすらスキャンダラスな日々を送った。藤原基経の妹で将来の皇后候補であった藤原高子に手をつけ、伊勢神宮の巫女さんをやっていた恬子内親王(文徳天皇の娘)との間に子どもを作るなど、危ない女性にばかり手をだしたようである。しかし、恬子内親王の弟であるちんこない親王とまで関係を持ったかどうかについては現在議論になっている。

文屋康秀[編集]

あまり出世できなかった官僚。紀貫之によると「ことばたくみ」だったとのことで、言葉巧みにいろいろな悪さをしていたようである(『古今和歌集』の序)。

また、現代のネットスラングでは、例えば「神」を「ネ申」と書いたりすることがあるが、その先駆けとなったのが、この康秀である。「嵐」を「山風」と分解し、なんとそれを歌詞にしてしまったのだから、天才的である(「むべ山風をあらしと言ふらむ」意味:なるほど、山風を嵐と言うのだな)。

解散後の動向はあまりよくわかっていないが、どうも三河国(現在の愛知県)に赴任することになった際に、小野小町を連れていこうと誘ったらしい。さすがに悪い奴である。小野小町は、「ついて行こうかしら〜」と思わせぶりな態度を取るのみであったようだが(『小町集』)。

喜撰法師[編集]

六歌仙活動時の唯一の僧侶。メンバーの中で最も影がうすく、よく見えない。紀貫之などは、「いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし」(まるで、秋の月を見ようとしたら暁の雲が出てきてしまったかのようだ)と感想を述べている(『古今和歌集』の序)。実際のところ、雲に乗ることも出来たと言われる(『元亨釈書』)。不思議な魅力で、一部の熱狂的な女性ファンを惑わしていたようだ。

小野小町[編集]

六歌仙メンバー唯一の女性。紀貫之も憧れていたようで、美女だ、良い女だ、と絶賛している(『古今和歌集』の序)。最も熱烈なファンは深草少将であり、小町が「私のところに百日間通い続けたら、結婚してあげるわ」と言ったところ、それを実行に移したが、九十九日目の雪の夜に凍死したという(「通小町」)。一方、歌で雨乞いをするなど、シャーマン的なことも実行している(「雨乞い小町」)。

年老いてから、小町は乞食になったが、様々な伝説を作った。ある日、仏様のお体であると信じられていた卒塔婆に腰掛けるというトンデモな行為をしていた小町は、高僧に説教されることとなるが、むしろ反論して、論破してしまったという(「卒塔婆小町」)。また、陽成天皇から哀れみの歌を授かった際には、一文字だけ変えて返歌するというふざけたことをして、「これは歌の作法、鸚鵡返しであるぞ!」などと言った(「鸚鵡小町」)。このように、乞食とはいえなかなか粋な老女になったようである。

大友黒主[編集]

六歌仙随一の癒し系キャラ。紀貫之などは、「大友黒主はそのさまいやし」と断言している(『古今和歌集』の序)。キャラクターとしては、奈良時代の猿丸という癒し系シンガーソングライターを継ぐものである、と貫之は評している。

六歌仙解散後もソロ活動をしていたようだが、人気はイマイチで、他のメンバー、とりわけ小野小町の人気には嫉妬していたようだ。ある時、小町の新曲に対して「古い歌のパクリじゃないか」と難癖をつけたこともある。しかし、実はその「古い歌」とは、小町の新曲を聞いた黒主が作り上げたものだ、ということが露見し、自殺未遂をする(「草子洗小町」)。六歌仙メンバーの中では、もっとも冴えない人生を送ったのが、この黒主であったといえよう。

後世に与えた影響[編集]

ネカマの紀貫之によって9世紀末から再び歌ブームとなるが、貫之たちはグループで活動することはなかった。個々の才能としては、六歌仙メンバーを越える人材は次々に現れたが、このような魅力あふれるグループを結成するのは不可能だったのである。951年には、村上天皇の命により、「梨壺の五人」というグループが結成された(メンバー:大中臣能宣・源順・清原元輔・坂上望城・紀時文)が、あまりに地味過ぎて1年も経たないうちに解散している。

1962年はジャニーズ(初代)が結成され、それ以降現代に至るまで、男女問わず様々なアイドルグループが日本を賑わせている。美男美女はもちろんのこと、個性あふれるメンバーを要するグループも見られた。しかし、全員が質の高いシンガーソングライターでもある、というグループは未だにない。六歌仙は今なお至高の存在として歌の歴史の中に輝いているのである。

関連項目[編集]