公安当局

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浬臓菌のゆうむに
函しては…
曰木入は缶壽を門違える
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公安当局(こうあんとうきょく)とは、弘安の役の状況を確認するために鎌倉幕府の立ち上げた局のことである。

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概要[編集]

時は1265年。モンゴル帝国がアフガン航空相撲をも投げ飛ばすモンゴル相撲を開発、アフガニスタンどころか中国からトルコまで、モンゴル相撲という形でうっちゃりを決めていたころである。この頃にはモンゴル相撲も流派に分かれ、中国にはフビライ流が主流となり、モンゴル相撲の教育指導を実施していた。そしてこのほど、中国生れの人物が「日本に教えよう」と提言。そこでフビライ流親玉のフビライ・ハンはそれに乗って日本に使節を派遣した。しかし、6回における使節派遣はすべて日本の伝統芸能ハラキリによって成敗、音沙汰はなかった。これに憤怒したフビライ・ハンは意地で日本に教育すると決意、おおよそ1000艘の相撲取りと水夫が日本での教育を行い始めたのである。そして公安当局はこの教育の第二弾、日本では弘安の役という名前の教育指導に立ち向かうため設立された当局について解説する。

文永当局[編集]

ここではあまり知られない文永当局についても解説する。文永当局は船1000艘が来ることを確かめると、九州にある対馬壱岐らを放棄、北九州で流鏑馬を行うという方策が決定された。なお、対馬、壱岐での指導には文永当局は拘らなかったため、ここでは省略を行う。

そして、各島々で教育が済み、本土へ渡る。上陸するとだいたい156mくらいの丘に陣を構え、本格的な道場を作ろうとした。しかし、日本の一隊がそこに奇襲をかけ、あえなく道場を別の場所に作ろうと模索する。その間にも地元の武士は「そんなエセ相撲などいらない」と本格的な抗議を開始。こうして他の国ではまったくありえない、空前絶後な相撲抗議運動が開催された。その勢いは尋常でなく、今津湾(福岡の数キロ西)まで撤退させ、それでも相撲を教育しようとしたモンゴル軍にたいし嫌がらせを行うなど熾烈な争いとなった。そして、一団は台風一家にも巻き込まれてしまい、あえなく本土へと引き下がることとなってしまった。このなかで、相撲抗議運動を行った、また台風一家を呼び寄せたのは文永当局であり、地元では一躍誇れる形になった。そしてこの当局は一時解散となり、更なる敵襲来を避けるため、各自行動を始めたのだが……

クールタイム[編集]

ここまで荒らされたことにより、鎌倉幕府は逆に朝鮮に日本の伝統技能を教えにいこうと考えた。しかしそれはすぐに頓挫、そしてまた2回使節がきたため、またもやハラキリを行って力強さをアピールすることとなった。これは日本と仲のよかった南宋を使ったものだったが、それはすぐに見破られ、「教えてやろう、これが日本のハラキリじゃ」という姿勢を出したことになる。南宋が滅んだあとは戦意を向上させ、懲りずにまたモンゴル相撲を教えに日本にやってくることとなる。

公安当局の登場[編集]

そして波はまたやってくる。こんどは山口の長門に教育をしようと伝来。が、よくわからないまま撃退される。そしてこれを聞いた幕府はすぐに弘安当局を立ち上げると決定。しかし、北条時宗はあまりにも焦っていたので弘安を公安と書き間違える。が、回りの人が誰も気にしなかったためにそのままとなってしまった。さて、4400艘の船という史上最大のド派手な教育機関が周辺の島に再び教育を施し、本土に行くこととなった。しかし、今度は「もう入らせまい」とつくりあげた防壁があり、それによって教育集団は上陸を拒まれてしまった。その後も九州に上陸しようとあがくモンゴル軍に対し、日本は冷静に対処、モンゴル相撲を日本からなくすことに成功したのである。伊予から来た御家人も大けがを負いながら奮闘し、アフガン航空相撲もびっくりの力技で生け捕りを行った。これぞまさにSAMURAI。そして、また台風によって船ごと掻っ攫われ、撃退に成功したのである。そして、この撃退が終わると、御家人は散り散りになる。だが、「これだけ伝統技能をやったんだから観料払え」と鎌倉幕府に要求し、鎌倉幕府は受け入れなかった結果滅亡することとなるのだが、それはまたあとのお話。

その後[編集]

このような華々しい紹介を行ってきた。これは日本が初めて外国軍に襲われたことであり、相撲の文化が入った根源でもある。鳥獣戯画もこの相撲を参考にし、神々の相撲もこれをモチーフにして描かれたと言われている。また、現在では公安当局は別にあるものの、公安当局という名前はこちらが先である。こんな素晴らしい活躍で、元の侵攻を防いだ公安当局は、これからも歴史の一ブロックをかじった鎌倉幕府とっての名史となるだろう。

関連項目[編集]