ヤマトタケル

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畏クモ天皇陛下ハ御自ラ全臣民ノ爲ニ
本項ノ全内容ヲ天覽遊ハサレタリ
Naval Ensign of Japan.svg 大本營認可
本項ノ全文章及全内容ハ完全ニ正シキ事實トシテ大本營ニ依リ認可セラレタリ
全臣民ノ爲ニ畏クモ現人神タル天皇陛下ハ御自ラ本項ニ御目ヲ通サレ給ヘリ
此ノ項目ノ内容ヲ疑フハ現人神タル天皇陛下ヲ疑フト同義ニシテ
誤リタル思想ヲ持ツトセラルヽ場合ハ政治犯思想犯トシテ内亂罪ノ對象トス
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倭武天皇(やまとたける の すめらみこと)は日本古墳時代天皇日本最古女装子。諱は小碓(おうす)。日本武尊倭建命とも。景行天皇の第二皇子。

武烈天皇以上に残虐非道な暴君で人心が寄りつかず、歴史から即位の事実を抹消されてしまった。現在では『風土記』などの文献から即位の事実が確認されているが、あまりの非道さに歴代天皇への追加をためらわれている。各地に倭武天皇の伝説があり、人民に膨大な負担をかけ豪遊していた事実が残っている。サウロンの指輪の持ち主としても有名。

戊辰戦争で旧江戸幕府側についた公現法親王は国民からヤマトタケルのようだと後ろ指を指された。なお、ワカタケル大王については現在は雄略天皇と見る説が有力。

略歴[編集]

とある1コマ。旅の途中で出会ったスサノオとオト・タチバナと共に戯れるヤマトタケル。

小碓尊の生い立ち[編集]

景行天皇と皇后・播磨稲日大郎女の間に生まれる。しかし大碓皇子との双子であったことから不吉とされ、弟である小碓尊は殺せと命じられた。恐らくは命令を受けた臣下が情に流され逃がしたのであろう。京に帰ってくるまでの間、小碓尊がどう暮らしていたかは謎である。

しばらく後に景行天皇が崩御し、大碓皇子の皇位継承が間近となった日に小碓尊は帰ってきた。大碓皇子は生き別れの弟を不憫に思っており、手厚くもてなしたという。


しかし大碓皇子が厠に入ったとき、小碓尊はその四肢を素手で引き裂き五臓六腑を引き出して殺した。


その残忍な様に刃向かえる者は一人もいなかった。こうして小碓尊は即位し、大碓皇子の皇妃をみな自分のものにした。

熊襲討伐[編集]

干ばつが続き貢ぎ物を送られなかった熊襲を、倭武天皇は反逆と解釈し討伐を企てた。それぞれ他の国の長である神夏磯媛、速津媛は倭武天皇に取り入り、倭武天皇はまずその敵対勢力である土蜘蛛に刃を向けた。土蜘蛛は激しく抵抗したが最後は投降した。しかし倭武天皇は「お前は生きていてはいけないんだ!」と言って許さず、逃げ場を失った土蜘蛛は次々と谷から飛び降りてその命を空しく散らした。

倭武天皇はついに熊襲への本格的な侵攻を決意した。しかし熊襲の戦士は強くなかなか征服することができなかった。そこで倭武天皇は和睦を申し入れ、叔母の倭姫から服を借りて熊襲の長・熊襲梟帥を討つ作戦に出た。思惑通り熊襲梟帥は倭武天皇の色香に引っかかったが、男の中の男・九州隼人の国だけあってなんと男だと見破っても行為に及んだ。しかし倭武天皇も反撃に出てバックからXXXXXし、その娘である市乾鹿文・市鹿文をも陵辱して親子丼を味わった。

その後、熊襲梟帥は男の味を覚えた倭武天皇の男妾となり、倭武天皇に日本武尊の名を奉った。しかし姉の市乾鹿文は親よりも先に達した不孝者として殺され、妹の市鹿文は火国造に売られた。

出雲征伐[編集]

倭武天皇は出雲との親交を推進していたが、それは出雲を油断させるためのものであった。倭武天皇は剣技大会を開くと言って出雲の長・出雲建を招いた。出雲建は警戒して金属製の剣を持参していったが、スポーツだからという理由で木刀と取り替えさせてしまった。倭武天皇は武器を失った出雲建を八つ裂きにし、「お前の頭は木刀のように軽い頭だな」と言って冷笑したという。

弟橘姫の愛[編集]

倭武天皇は自身の辛い幼少期を思い出すためか子供が嫌いであり、犯した娘が妊娠するたび殺していった。しかし弟橘姫だけは別格の存在であり、決して殺さないでいいように、なるべく月の出る夜を選んで愛をはぐくんでいた。

その弟橘姫が妊娠した。しかし倭武天皇は何かが変わったように徳政を行うようになり、次の戦が終わったらしばらくは人民を安らげることにしようと言ったという。その子供こそ次代の仲哀天皇である。

東征[編集]

熊襲、出雲と西方の目障りなものが潰え、倭武天皇は東国で臣民を苦しめている悪神や蝦夷の討伐に出動した。倭姫は倭武天皇に神剣・草薙剣を授け、そのさいに決して油断をしないようにと言ったという。草薙剣はもとは天叢雲剣といったが、倭武天皇が「抵抗すると無駄死にをするだけだって、 何で分からないんだ!」と叫びながらまるで草でも刈るかのように殺戮の限りを尽くしたことからその異名がついた。皇軍は大量の血の雨を降らせ神領を侵略しながら東へと進撃した。

Engrand戦争[編集]

突如として戦争は始まった。

倭武天皇軍とEngrand軍の争いをEngrand人の立場から描いたタペストリー

Engrand王国は、元々弥生人が西日本に上陸したのと同じ頃に遥か北ヨーロッパから温暖な土地を求めて日本に移住してきたゲルマン人の一派、Engro民族が立てた国家である。彼らの言語にLの概念は無く、発音どおりに文字を表記するというヨーロッパ系の言語としては極めて珍しい傾向を持っている。彼らも農耕や牧畜、漁業や製鉄を生業とした、当時の大和人と肩を並べられるほどのレベル(中世ヨーロッパ並み)の文明を持っていた。しかし、大和人の代表である邪馬台国や大和朝廷が東方に勢力を伸ばし始めて、多くのEngrand人が大和人との同化を迫られ、従わない者は虐殺されたり、身分を奴隷とされ貶められた。

朝廷の暴政に立ち向かったEngrand人の反乱軍。

避難を余儀なくされたEngrand人が北日本に勢力を移して数十年たった時に、倭武天皇がやって来たのである。

最初、進撃する倭武天皇は誇り高き名君、Engrandの王アーサーに傲慢にも勅書を叩きつけた。それは現代語訳すると次のような内容である。

Engrand大乱の指導者アーサー王の像

『おい蛮族共。てめえらを俺たちが今から文明化してやるから有難く思えよ。その為にはとっとと早く王、民共々俺たちの前にひれ伏すす事だな。さもないと貴様ら蛆虫を俺たち皇軍が皆殺しにしてやるから覚悟しとけよ。』

当然、この国書の通りに大和朝廷に降伏しても結局Engrand人は大和軍に攻め滅ぼされてしまうことは火を見るより明らかであった。ここにアーサー王は円卓の騎士たちを召集し、あまりにも卑怯で傲慢な倭武天皇に対して義軍を挙げ、宣戦を布告した。Orr yuar Japan aar birong tu assの合言葉の元にEngrand人は一致団結して戦いに望んだのである。また、この戦争は天津国(アースガルド)ではEngrand人の信仰する北欧の神々と大和の神々の間の戦争でもあった。しかし、多くのEngrandの神々(オーディンロキフレイヤ等)は天照大皇神扮する狼に喰われてしまった。これをもってラグナロクと後の人は称する。中つ国(ミッドガルド)での緒戦はEngrand軍の連戦連勝。アーサー王自身も聖剣エクスカリバーを携えて陣頭に立った。伝説によれば草薙の剣を携える倭武天皇と一騎討ち(その時は引き分けに終わった)をしたとも伝えられている。しかし、ここでEngrand軍に裏切り者が出た。円卓の騎士達の中で随一の豪傑ランスロット卿である。彼はアーサー王の妃、美女グィネヴィアに劣情を抱いていた。そこを倭武天皇に利用され、アーサー王とEngrandを裏切り、朝廷軍に寝返ったのである。

その裏切りによりEngrand軍は総崩れになって敗走。アーサー王はどこかの沼で一人寂しく自害したといわれている。だが、ランスロットは倭武天皇の命により終戦後暗殺された。なお、グヴィネヴィアは倭武天皇の妾になったと伝えられている。また、この事件がイギリスに伝えられ、後にアーサー王伝説になったと伝えられる。 Engrandは戦いに敗れた後どんどん規模を縮小していき、最後は北海道のアイヌに吸収されてしまったとされる。(このあたりの詳しい顛末はEngrishの項を参照)だが、彼らの使用していた言葉は今も日本人によって話される英語もどきとしてかろうじて往時の姿を偲ばせてくれる。

これにて倭武天皇の蛮族征伐は終了した。

倭武天皇の最期[編集]

皇軍が京へと帰還する途中、伊吹山で光り輝くように美しい巫女・宮簀媛を見た倭武天皇はその娘を召した。群臣は神妻を犯せば天罰が下ると言って倭武天皇をいさめたが、天皇は聞き入れなかった。その次の日、皇軍は深い毒霧にはばまれた。群臣は次々と倒れていったが、そんな臣下を倭武天皇は体力不足とあざ笑ったという。しかし倭武天皇は妄想にとりつかれ、奇声を発しながら自らの手で自らを刺し、死んだ。ざまぁwwwwww

倭武天皇の死を聞いた弟橘姫はひどく悲しみ、海へ身を投げた。

また、真日本書紀に描かれている彼の末路は記紀の記述とは少し異なる。

彼は都に凱旋し、遠征先で捕らえてきた男達は皆殺しにして、娘たちを後宮に囲って酒池肉林の生活をしていた。無論娘達は子を産み、倭武天皇の子は500人以上になってしまった。彼は酒色に溺れ、各国から大量の年貢を取り立てて多くの民衆を餓死させた。また度々遷都を繰り返し、より大きくて豪華な宮殿をいくつも建てた。当然国庫は疲弊、各地の豪族も疲弊を募らせていった。これを苦々しく思っていたのは正妻の子、足仲彦である。彼は父を酒に酔わせた後、民を煽動して父を虐殺させた。民衆は彼の首を切り、宮殿の前にその首を晒した。倭武の臍に民衆は松明を刺し、火をつけて豚の丸焼きと罵った。彼の脂肪で火は一週間も赤々と燃え続けた。しかし、彼の一物は何度焼いても焼け残り、叩いても折れず斬っても斬れず、結局一物塚に彼の一物は埋められた。長さは2尺、太さは3寸程在ったとされる。(ギネス級)尚、足仲彦以外の子もその混乱で殺された。彼の最愛の妾である弟橘姫と宮簀媛は民衆にレイプされた挙句、陰部や尻に槍や剣を突き刺され、臓物を掴み出されて死んだと記されている。

異説[編集]

倭武天皇が九州王朝の王だとか言う異説を古田武彦が言っているが、実際には逆で前述の通り息子の足仲彦に殺された倭武天皇だが、足仲彦も成務天皇に負けて九州に亡命、そこで九州王朝を作ったのだった。もっとも足仲彦はタイムトラベラーにより殺されたのであり、筑紫国造磐井の乱で九州王朝は完全に滅びたのである。

関連項目[編集]

先代
景行天皇
天皇
倭武天皇
次代
成務天皇