作文

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作文とは拷問の一種。肉体的に人を痛めつけることがないので、誰も痛めつけない素晴らしい拷問などと言われて正当化されている。

概要[編集]

そもそも文章どころか何か文字を書くこと自体が拷問である。手は痛めるし、ゲシュタルト崩壊も起こす。聴覚障碍者であれば仕方がないが、聴覚に障害を持たない人間の場合、普通に口頭だけでコミュニケーションが可能だからである。にもかかわらず、何故人は文章を書くのか、まったく理解に苦しむ奇行である。文章を作る、あるいは人に文章を作ることを推奨・強要するのは人間とかいう狂った猿ぐらいであり、他の動物はそんなことはしていない。イルカコウモリは超音波で会話するし、は群れないのでコミュニケーションの必要がない。人間だけがする作文という行為が、如何に狂っているかが、相対的にも絶対的にも証明されている。

文章を作ること、それが作文の定義である。「文を作る」なのに文作とは言わず、作文である。これは、倒置法を用いることで、「作る」ことを強調しているからである。しかし、文章を作れるからと言って、そんなに自慢できることでもないし、所詮文章なんか作っても人間とかいう汚らわしく悪辣な猿としかコミュニケーションはとれないのである。大自然と意思疎通が出来れば、作文なんかできなくてもいいのだ。

しかし、人間社会において、作文は生きる為に要求される当たり前の技術になっている。この技術がないと「非人」の烙印を押されて、ゴキブリと同類の下等生物と見做され殺される。偉い人達は要求してくる。殺されたくなかったら、作文という拷問に耐えろ、と。

かくして世の中の少年少女達は作文という拷問を学校で強要され、大人になってからも報告書始末書という形で強要される。拷問に疲れ果てた少年少女達は、最後に遺書という作文を残して、自殺する。

作文をしなければならない時[編集]

いくつかの質問が、作文を要求してくる。そういう質問に限って点数が高い。
大体書かれていることは妄想によるテロ未遂セックスなどしょうもないことばかりである。拷問を受けすぎて精神が壊れてしまっていることは明白である。文豪達は率先して我が身を拷問に奉げている。生粋のマゾヒストである。
口頭で謝罪してもすぐ忘れる馬鹿上司の為にわざわざ作文という拷問に従事させられ部下はこれらの書類を作る。何度も何度も、馬から落馬するほど重複して、何度も何度も。
サイバー世界の住人になると、なんと聴覚障碍者でもないにもかかわらず耳が聞こえなくなってしまう。そのため、作文という拷問に従事しないと意思疎通が全く出来ない。

作文による利益・不利益[編集]

他人の書いた文章の文法や語法の間違い、文章の拙さにケチをつけて笑い者、晒し者にすることが出来る、これぐらいしかない。これは、「作文を誰かにさせる」ことによって生じるメリットである。

自分が作文をする場合、自分が必死扱いて作った文章は、誰かに笑い者にされ、文法や語法の間違いを嘲笑と共に指摘され、抗議すれば「逆切れですかw」などと草を生やして挑発される。百害あって一利なしである。

それどころか、他人の書いた文章と少しでも類似性があった場合、なんと著作権侵害で訴訟を起こされてしまう。拷問を受けた挙句に法的措置まで受けるなど、踏んだり蹴ったりである。

作文により書かれた文書はシュレッダーにかけるか焼却しない限り保存される。殺人事件が起こった場合、犯人と、なぜか犠牲者の、学生時代の卒業文集などが公開される。一種のセカンドレイプである。

聴覚障碍者・失語症者であれば、耳が不自由なので意思疎通の為に作文に依存せざるを得ない側面もあるが、彼らの為には手話という専用コミュニケーション手段が設けられている。つまり聴覚障碍者でも作文をする必要など全くない。

結論[編集]

作文なんてしない方がいい。

関連項目[編集]