何晏
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何晏(かあん 190年? - 249年)は、中国の後漢末期から三国時代の魏において登場した現人神の一種。厄をつかさどる。字は平叔。中国史においては廃帝弁を生んだ何太后の兄・大将軍何進の孫(『魏書』「曹爽伝」)。父は何咸、子は何魏とされている。
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[編集] 経歴・人物
[編集] 生涯
何晏が現人神であるということは、彼の経歴をたどれば説明がつく。まず彼の幼少期は波乱で幕を開けた。祖父、父らが後漢末期に力を持っていた十常侍と呼ばれる宦官グループによって謀殺されたのである。これにより一族は権力を失い没落の危機となる。しかし、彼はその没落の「厄」を吸い取った。これにより、生母の尹氏が曹操の妾となり、後ろ盾を得ることに成功したのである。当時の女性は人権などほとんど認められていなかった(特に華北では顕著)。そんな中で、没落した家柄の女性が生き残ることは難しいのは当然である。これを成功に導いたのは、何晏の特殊能力のおかげであったといっても過言ではない。保護者となった曹操もこのことに気づいており、彼の厄を吸い取る能力に期待していた。そのため彼の下で成長することとなり、最終的には曹操にはその特殊能力を認められ、その娘・金郷公主を妻に娶るなど極めて厚遇された。その厚意に何晏も報いた。その結果、曹操は中華の9割を統一することに成功し、戦場を駆け巡る生活を送ったのにも関わらず65歳という当時としてはかなりの長寿を得ることに成功し、彼の才能以上の人生を送ることに成功したのである。
だが、何晏はその後継者文帝、明帝には疎まれた。この親子は「厄神なんざえんがちょだ。」と臣下にもらしていたという。その結果、曹丕は父から受け継いだ地盤を固めることができず短命な人生を送った挙句、自分の息子かどうかよくわからん男を後継者に任命せざるをおえず、曹叡にいたっては臣下一人ひとりに一回は怒られ、財政危機を引き起こしたうえ曹丕より短命であった。このように何晏を立てなかったために厄を避けることができなかったことがよくわかる。
明帝の死後、養子で年少の曹芳が即位すると、その後見役として曹爽が政権を握る。曹爽は何晏を立て自らの厄を吸い取ることに期待する。その結果、司馬一族より一時期優位に立ち、才能以上の官職を手に入れることに成功する。
しかし249年、曹爽と対立関係にあり、既に隠居していたと思われた司馬懿が曹爽不在の隙にクーデターを起こす。曹爽派の主だった人物は捕らえられ、処刑された。何晏もこれに巻き込まれたが、もとより神である彼は人間の攻撃など効かず、このことより人間に興味がなくなって崑崙山に隠居した。
司馬一族はこの後、晋という国家を築くことに成功する。魏をのっとったも同然のこの国家は、国家制度や生産体制は安定軌道に乗っていたのにも関わらず、あっさり滅びることとなる。これは厄神に手を出した報いである。
[編集] エピソード
- 当時、メタボリック気味だった宮廷高官の身を案じ、よく歩くことを提案した。いわゆる「散歩」をの創始者は彼である。
- 人の厄を吸い取ることに対し極度の依存があった。曹操が生きているときは十分な厄を吸い取ることができたためか、各地で歌い歩き、酩酊し多幸感あふるる言動をして上機嫌であったようだが、不遇の時代においては極度の鬱状態となり幻覚・錯乱状態となっていたのがしばしばであった。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『世悦新語』
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