佐竹義宣

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佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は常陸水戸の戦国武将。秋田藩初代藩主。父佐竹義重の後を引き継いで常陸一円に勢力を拡充し、常陸佐竹氏の全盛期を築いたが、関ヶ原の合戦ボーンヘッドをやらかし出羽の山奥に飛ばされたが、例えボーンヘッドをやらかさなくても、多分家康から難癖付けられて僻地に飛ばされただろう。

僻地に左遷されたことの腹いせに、水戸から美人ハタハタを全て持ち去って行き、常盤国から美人とうまい魚が消えてしまった、という話があるが、これは幕末期、開明派から、「頑迷な水戸人はブサイクばかり」と指摘されて憤激した攘夷派の水戸人(主に天狗党)がフレームアップした作り話である。

徳川家康曰く(ここ重要)、今の世にまれに見る律義者。家康の言葉通り、「律儀」な逸話がいくつも伝わっている。

生涯[編集]

出生と両親[編集]

1570年、佐竹義重の子として誕生。親父の義重は「鬼義重」の異名で呼ばれ、股間の肉棒を振るわせながら全裸で北条氏の敵陣に突撃したなどという逸話が伝わるほど勇猛で過激なな人物である。母親は伊達輝宗の妹で、こちらも義重に劣らぬ烈女、ついでに兄輝宗が大好きなブラコンであったらしく、後年義宣はこの母親の為散々悩まされ、母の実家伊達氏に煮え湯を飲まされる事となる。

義宣という男の輪郭[編集]

さて、そんな両親の元に生まれた義宣も、さぞや頭のネジがぶっ飛んだキチガイだったのだろうと思われるだろうが、義宣自身はとても冷静で用心深く、沈毅な人物であった。寝る時は常に脇差を枕元に置き、不測の椿事に備えた、という逸話が伝わっているほどである。[1]

伊達と北条の狭間で[編集]

当時、佐竹氏は南の北条氏政から圧迫されており、さらに親父の義重が蘆名氏の家督継承問題に介入、候補であった伊達輝宗の子小次郎(伊達政宗の弟)を退け、自分の次男、義宣にとっては弟にあたる義広をゴリ押しして当主に捻じ込んだせいで縁組によって一応円満化していた伊達家との関係も悪化。伊達と北条という二大勢力に南北から挟まれていた。

しかも、蘆名氏の養子問題で伊達家との関係が悪化したことで、義重と伊達家を実家に持つ義重夫人の関係も悪化。夫婦喧嘩が絶えず、ある日義宣は調停しようとしたところとばっちりを喰らい、顔面に熱湯をぶっ掛けられて大火傷を負い、これ以降、両親への当てつけのつもりも兼ねて顔を覆面で隠すようになった。肖像画などに見られる義宣が漆黒の覆面を付けているのはこのためである。

迷惑なおふくろ[編集]

義宣は父義重と共に度々伊達政宗相手に応戦したが、政宗の叔母でもある義宣の母が足を引っ張った。人をたらし込むのが上手い政宗は、甘言、泣き脅しを用いて叔母を懐柔し、義宣が伊達家に攻め入ることのないよう、義宣を説得、妨害させた。伊達が蘆名を討ち破った摺上原の合戦では、義宣は弟である蘆名義広の救援に向かおうと兵を率いて軍勢を北進させたが、籠に乗った母親に進路を妨害され救援に向かえなかった。おかげで蘆名軍は惨敗、義広はほうほうのていで常陸まで落ち延びた。この時ばかりは流石の義宣も憤激し、「息子と実家、どっちが大事なのか」と母親をしかりつけたらしい。ちなみに、妨害した伊達政宗も数年前、最上義光との合戦を義光の妹である母親に妨害されている。政宗としてはこの時の苦い経験を生かし、実家を思う女子の心情を巧妙に操って佐竹氏の行動を掣肘したつもりだったのだろう。そしてそれは見事に成功した。

伊達への逆襲[編集]

蘆名氏も滅び、北条と伊達の挟撃を受けいよいよ剣ヶ峯に立たされた義宣であったが、豊臣秀吉が重い腰を上げて関東出兵に進発、義宣もこれに随従して小田原に参陣し、秀吉から領土を安堵され、ついでに北条氏も滅んだことで何とか命脈を保つ、どころか状況が一気に好転した。

伊達とのパワーバランスも逆転する。既にこれに先立つこと数年前、秀吉は大名同士の私闘を禁ずる「惣無事令」を発布しており、蘆名氏攻略など、政宗の行状はこれにモロ抵触していた。義宣は法令違反を口実に政宗の行状を秀吉に訴えた。遅ればせながらも小田原に参陣し、秀吉に臣従の意を示した政宗だが、厳罰は免れそうに無かった。

が、ここでまた邪魔が入った。政宗の叔母である義宣の母が、政宗の命乞いをしてくれと義宣に懇願してきたのである。多分、また政宗が裏から煽動したのだろう。またか、と思いながらも、律儀な義宣は母親の頼みとあれば断れず、ついには先程まで訴え厳罰を要求していた態度を翻し、秀吉に政宗の命乞いをし、政宗はまんまと助命される。

トンビに会津をさらわれる[編集]

しかし義宣もただで引き下がる男ではない。惣無事令に違反して奪い取った会津の地を没収し、弟蘆名義広に返還するよう秀吉に請願した。義宣は賄賂と弁舌を用いて石田三成蒲生氏郷に渡りをつけて知己となり、彼らの協力を得て政宗から政治的手段を以ってして会津の地を奪い返そうとした。義宣の尽力が通じ、見事政宗は会津の領土を没収された。そして没収された会津領は氏郷に与えられた。「この野郎、はじめから会津を得るために俺を利用しやがったな」と義宣は憤慨し、以後氏郷と絶交した。しかし三成とは秀吉の側近だし、仲良くしとけば色々恩典に浴すことができるからという腹積もりから、以降も蜜月の関係を保った。

この後義宣は、三成の援助を受けて常陸内に燻る小豪族らを糾合、併呑し、常陸を統一した。統一直後、義宣は常陸統一記念と称して酒宴を催し、その席に屈服させた豪族・小領主達を招いて酒と肴を存分に振るまい、彼らが酔い潰れて寝たところで首を片っ端から撥ね飛ばして不穏分子を根絶やしにした。義宣の「律儀」さが遺憾なく発揮された事例の一つである。

豊臣政権下の佐竹氏[編集]

豊臣政権下での佐竹氏は、三成の知遇を得た利益もあって、徳川、島津、上杉、毛利、前田と並び、豊臣政権期の六大名と称されるほど栄達した。一度宇都宮国綱が行跡不備で改易された際、ソックパペットの疑義を掛けられてピンチに陥ったことがあったが、友人である三成に救われ事なきを得た。

1595年、義宣から会津領を掠め取った憎き蒲生氏郷が41歳で病没。氏郷の死には毒殺説があり、家康、秀吉、三成、政宗など、下手人については諸説錯綜しているが、何故か氏郷に相当怨恨を抱いているであろう義宣の名前が挙がることはない。律儀な義宣はそんなことしないと戦国オタからは思われているのか、それとも義宣が如き小物は陰謀論のオカズにしてもつまらないと思われているのかは定かではない。

秀吉の庇護の下で常陸一国の主として繁栄し、臣従することを享受していた義宣だが、秀吉が没し、世情が乱れてくると、義宣の胸中にも、この混乱に乗じて勢力拡大を計り、あわよくば天下に佐竹の名を轟かせようとする乱世の雄の野心がわきあがってくる。

関ヶ原における動向[編集]

秀吉の死後間もなく、福島正則、加藤清正ら武官と、石田三成ら文官の対立が顕在化、徳川家康が清正達に加担してこれを煽動したことで対立は先鋭化し、清正、正則ら七将による三成襲撃事件に発展する。この時義宣が三成を自身の屋敷に匿ったという逸話は有名で、常陸の田舎大名が関ヶ原という歴史のターニングポイントの中で目だった数少ない一場面なのだが、小説や大河ドラマなどの創作物では、大抵義宣の役割はその物語の主人公に横取りされる。義宣は登場すらしない。[2]

義宣は三成を匿った理由について、「治部少輔(三成のこと)が死ぬと世の面白みがなくなる」と言ったらしい。要するに、三成が死ぬと大勢力である家康に掣肘を加える対抗馬がいなくなり、家康の天下を許してしまう。そうなれば佐竹氏が天下を取る機会が永遠に巡ってこなくなってしまうので、家康の頭を抑えるための功利から三成を助けた、と言っているのだが、三成は義宣が友情から自分を助けてくれたと勘違いし、感涙していた。馬鹿としか言いようがない。

三成が同志を集めて家康に対して挙兵すると、義宣は「必ず三成方に味方する」とおべんちゃらを言っておきながら、いざ関ヶ原の合戦が始まると完全に中立を決め込んだ。常陸の豪族を一網打尽に騙し討ちにしたことといい、こんな奴のどこが律儀なの?と思うかもしれないが、戦乱の世であれば空手形を渡したり、約束を反故にするのは日常茶飯事である。むしろ相手に気付かれないよう空手形を渡せるからこそ義宣は「律義者」であると言えるかもしれない。この点、家康も同様である。

義宣は合戦の推移を静観しながら、かつて蒲生氏郷がまんまと会津を掠め取ったように、各大名の疲弊を見計らって漁夫の利を得ようとした。が、関ヶ原の合戦はたった1日で終わってしまった。

「おい、馬鹿やめろ。佐竹家は早くも終了ですね。」
関ヶ原合戦の顛末 について、ブロントさん

戦後、案の定佐竹家は去就を定めなかった事を咎められ、常陸水戸から出羽秋田の僻地へ大幅に石高を減らされて国替えさせられた。義宣は大層落胆したが、藩政を地道に立て直し、久保田に城を新築して居城とし、政務に力を注いで秋田藩の礎石を築いた。ちなみに、秋田への転封後、昔からの老臣が「常陸に帰りたい」とホームシックを起こし、義宣に反抗的な態度を取るようになった。義宣は彼らを宥めるふりして皆殺しにし、ついでに渋江政光や梅津憲忠、政景兄弟を登用するなどして人事を刷新した。流石は律義者である。さらには隠居していた父親・佐竹義重も、こっそりと暗殺している。ものすごい律義者である!

徳川の狗としての余生[編集]

家康による天下泰平がなった後は、かつての宿敵伊達政宗と一緒に家康のイヌとなり、大阪の陣に参戦して昔の親友石田三成の主家である豊臣家滅亡に加担したり、三代将軍徳川家光に政宗と一緒に昔話を聞かせたりして余生を過ごした。

ちなみに、政宗とは仲直りしたらしく、互いに脇差をちらつかせながら昔話をして談笑したりしていたらしい。一方、直江兼続は「すいません俺あんたの逃げる姿しか見てなかったもので」などと言って露骨に政宗を挑発した。無粋である。

注釈[編集]

  1. ^ …もっとも、この逸話自体は後世の脚色に加えてアリストテレスのエピソードのパクリなのだが。
  2. ^ 多分2009年の大河「天地人」でもそうなるだろう。
Wikipedia
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