今川義元

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今川義元の真の姿。戦いに備えて刀を振り回している。
桶狭間でのリベンジを行うためにデフォルメされた義元公(右) 左は宿敵・織田信長
義元公の姿については諸説あるが、これは若き日の頃の物と言い伝えられている。なお、海道一の弓取りという異名は、後に徳川家康へと受け継がれていく。

今川 義元(いまがわ よしもと 永正16年(1519年) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代に東海(駿河・遠江・三河)を席巻した武将である。

足利氏一門で、今川氏親の五男。生母は中御門氏の娘寿桂尼で、太源雪斎は譜代重臣の子に当たる。妻は武田信玄で、その間に氏真らの子供を利けた。信玄の嗣子・武田義信は女婿(氏真の姉婿)。醜い隻眼の山本勘助を義弟の信玄の隠密として紹介し、体よく追い出したことで有名らしい。

概要[編集]

彼は日本史上最初か2番目ぐらいかひょっとしたら3番目かもしれないサッカー選手であり、かつ茶人でもあった。第1回FIFAワールドカップにも出場したとか。時代劇や漫画なんかだとボンクラの貴族風に描かれる事が多いが、実際の彼は容姿端麗、その上とてもいい人で、家臣が謀反の気を起こしても許す寛容ぶりは、北条氏康も賛嘆した程。人質となった徳川家康の身柄も厚遇し、家康からは生涯の恩人と呼ばれている。

しかし、いい人過ぎたのが災して、徳川家康に資金援助をし過ぎて独立の土壌を作ったり、親類で同盟者でありながら家臣を内応させようとちょっかい出してくる義弟の武田信玄を放置したりして、桶狭間では織田信長の犬である地元農民を信じて饗応を受け、終いには信長の凶刃に倒れた。だが、その死に際も、自分より部下達の戦線離脱を優先させるいい人ぶりを見せた。いい人義元の死には、全米が泣いたという。地元の子供達を愉しませるべく遊園地も経営し、また自らもマスコットの着ぐるみを着て駿河の子供達と握手したりサッカーを愉しんだ。通称「ハニーキング」とよばれる。

生涯[編集]

氏親の五男として生まれるが、男子が多いと家督争いの火種になるからという方便で寺にぶち込まれる。要するに育児放棄である。彼の生母である寿桂尼(庵原氏)が、なんだか品のなさそうな顔だからと育てるのを嫌がったのが真相である。出家し梅岳承芳と名乗った彼は京都五山に登り、母方の叔父・太原雪斎という怪しい坊主に育てられるが、駿河への郷愁と親に捨てられた憤りと雪斎という得体の知れない坊主に対する恐怖感と不信感からストレスが堆積し、育ての親雪斎に対して家庭内暴力を振るうようになる。だが雪斎の剥げ頭を蹴り飛ばしている間に丸いものを蹴る事の快感に目覚め、サッカー少年となる。この頃、足利将軍の権威が形骸化し治安も悪化した京都は悪党共が跳梁跋扈するリアル北斗の拳的な世界となっていたが、義元はゴロツキ相手にサッカーボールを蹴飛ばして退治し、京都の治安を救った。だが雪斎からは人に向かってボールを蹴ってはいけないと叱責される。

山科言継の元でサッカーの鍛練に励み、プロの選手を目指していた義元だが、国許駿府で兄であり当主の今川氏輝、その弟彦五郎が相次いで死に、福島越前守玄広恵探を担いで謀反を起こす御家騒動が発生する。彼の周囲の人間は皆、自分を捨てた実家のことなんか放って置けばよいといったが、いい人義元は実家の危機を放っておけず、雪斎と共に帰国。玄広恵探と福島一族を雪斎とのツープラトンで瞬殺し、今川家の当主となる。


又、この頃は、岡崎の弱小豪族であった松平家の当主松平広忠の息子竹千代を庇護している。人質として今川家に取られたと言われているが、実際はダメ親父である広忠が、「自分のようなダメ人間になってほしくない、人徳優れた義元殿の下で立派な人間に育てて欲しい」と懇願したため、義元が育てる事となったのである。義元の薫陶を受けて育った竹千代は、後に天下人にまで登りつめた。竹千代は、一度織田家の野蛮人どもに誘拐されるが、いい人義元は総力を挙げて誘拐された彼を奪還した。

義元は、それまで弾圧され、甲府の武田氏(信虎信玄)に誘拐され奴隷として酷使されたりしていた駿河の先住民族であるハニワ族を積極的に庇護し、義元の本拠地である駿府は、人間とハニワが共存する夢の都となった。ハニワ族は恩返しの為に義元に自分達の伝統文化である今川焼の作り方を教授し、義元は三日でこれをマスターし、全国規模でチェーン店を経営、これが大繁盛となり、今川家の貯蓄は一気に潤う。いい人義元は、その金を軍資金よりも子供やハニワの為の遊園地の開発費、交通の整備費や、幼い当主竹千代を匿っていた松平家への資金援助の為に惜しみなく使った。この今川焼を欲しがった武田信玄と北条氏康が、今までのことはチャラにして仲良くしないかと擦り寄ってきたため、義元は三国同盟を締結。今川焼が平和の架け橋となったのである。

無念の戦死[編集]

今川焼きの美味さは京都まで到き、時の将軍足利義輝から「早く上洛して俺に今川焼きを食わせろ!」と上意が下る。無論、好い人義元は二つ返事で承諾して京都へ向かう、その途中の桶狭間で、織田信長の凶刃に倒れた。講談などによって流布されている「油断して酒盛りをしていた所を、信長に奇襲されて斬り殺された」マヌケな死に際では断じてなかった。事の真相はこうである。

上洛の途中、義元は迷子の子供を発見する。子供は脚を負傷しており、一人では帰れなくなっているという。優しい義元は、何と自ら子供をおぶって村まで送り到けようとする。子供の案内に応じて村へと脚を歩める義元。しかし、この子供、実は信長が放った間諜であり、密に義元を信長の本陣へと誘導したのだ。義元が村に到着したと思った瞬間、目前から一斉に槍衾を作った足軽が襲い掛かり、更におぶっていた負傷してるはずの子供がいきなり隠し持っていた刀を抜いて襲い掛かった。義元は近習数名しかつれておらず、無念にも凶刃に倒れたが、最期にこう言い残したという。

「よかった。脚を負傷した迷子の子供などいなかったのだな。」
自分を騙いた子供 について、今川義元

最期まで他者を気遣った義元の博愛主義に対して、騙いた織田軍も自責の念に駆られ、深く默祷したという。負傷した迷子を装って義元を騙いた少年は久太郎といい、後に堀秀政と名乗って織田政権の中枢で活躍する。彼は30代半ばの若さで病死するが、一説に義元の祟りだとも言われている

義元の討死の報を聞いた松平元康(後の徳川家康)は泣き喚いたが、義元の恩を裏切って織田家への寝返りを決意したという。

今日への影響[編集]

今川義元の本拠地であった駿府(戊辰戦争後の静岡)は、義元の死後は武田信玄徳川家康の領土となった。静岡や水戸は徳川家のイメージが強い都市だと言われているが、実際は逆で、静岡は今川時代の、水戸は佐竹時代の余燼を引き摺っている。静岡は現在でも、織田信長の本拠地であった清須とは、西暦1560年の桶狭間以来453年が経っても和解しておらず、静岡と清須のみならず、静岡県(駿河国)と愛知県(尾張国+西三河)は未だに「義元を伐ち取った信長」以来の敵対関係が続いている。浜松県(遠江国+東三河)も似たり寄ったりで、「今川武田組のおみゃーらは京都圏じゃないがや!!」って、愛知県から愚にされている。

同じく、水戸は佐竹義宣の本拠地であったが、佐竹家は関ヶ原で敗けて水戸を追い出されて秋田へ飛ばされ、この時に、美人を根こそぎ秋田に連れて行かれた影響で、水戸など茨城県にはブスばかりが残された。そして、1858年の戊午の大獄以来、水戸と彦根は長らく敵対して来たが、110年後の1970年に、敦賀の仲裁で水戸と彦根は和解した。

水戸と同じく、徳川時代に徳川御三家が入った名古屋和歌山も同様である。名古屋は織田信長や豊臣秀吉の領土であったが、名古屋出身の秀吉など、愛知県出身の武将はこぞって滋賀県(近江国+若狭国)に転居し、京都で死んだ。この影響で、安土長浜など滋賀県には、八方美人な賢者が多く残された。一方の清須や名古屋など愛知県には、京都に頭が上がらないくせに、中華思想とエゴイズムを振りかざす愚者だけが残された。そして、和歌山は雑賀衆という本願寺の傭兵の本拠地であったが、秀吉に皆殺しされてしまった。それ以後の和歌山は、傭兵の自立心は消え失せて、大阪ベッタリの依存心だけが残された。

このように、徳川時代に敵対した都市は和解した所も現れているのに対して、戦国時代に敵対した都市は未だに和解に至っていないのである。

関連項目[編集]