京極高次

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京極 高次(きょうごく たかつぐ)とは、女の尻に敷かれていると思わせて、実はなかなかやり手であった戦国大名。蛍のような一生を送り、また蛍のように美しく光り輝くケツの持ち主であったことから「蛍大名」と呼ばれた。「嫁さんの尻に敷かれていた」とか「嫁さんのお陰で栄達した」など、情けない人物像が浸透しているが、武将としての器量は相当に卓越しており、関ヶ原の合戦では本多忠勝と並び称された立花宗茂の軍勢を足止めして、結果として東軍の勝利に貢献した影の功労者である。室町時代以来の名家である一色、山名、赤松などが次々零落、滅亡してゆく中、京極家が再興を果たし近世大名として家名を残せたのはひとえに高次の功績に依拠するところが大きい。

京極氏は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏の分家であることから、高次の異名である「蛍大名」のホタルとはゲンジボタルであると推測されている。

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蛍の幼虫[編集]

幼少期は織田信長の人質として過ごし、信長の下で彼の薫陶を受けて育った。信長の気質を受け継いだ幼少期の高次は凶暴で血の気の多い性格で、戦場では敵兵の肉体が原型をとどめないほどまでミンチにし、暇つぶしに辻斬りをするなど信長譲りの蛮勇を大いに振るって人々を戦慄させた。そんな高次を見て、信長は将来が楽しみだと言ったとか。幼少期の高次の凶暴さは、蛍の幼虫に通じるところがある。蛍の幼虫は非常に凶暴なことで知られ、主食とするカワニナに頭からかじりつき、消化液を分泌して溶かしながら貪婪に捕食する。信長の影響を受けた血の気の多い高次は、蛍の幼虫瓜二つであった。

必殺ケツフラッシュ[編集]

信長が本能寺の変で横死すると、妹の京極竜子が嫁いでいた武田元明が光秀に加担したため、彼も光秀の側に与したが、光秀が山崎の合戦で討ち取られ、高次は窮地に陥る。まもなく元明も討たれ、進退窮まった高次は若狭の旧武田領に潜伏した。一方、未亡人となった妹の京極竜子は、女好きの秀吉に早速手を付けられ、側室となっていた。竜子は「桃源郷の桃」と称されるほど美尻の持ち主で、秀吉は一目で彼女を気に入ったという。妹が成り上がり者の猿にアンアン喘がされているとも知らず、高次は潜伏を続けていた。高次は妹以上の美尻の持ち主であり、ケツを露出させると七色の光を発したという嘘か誠か分からない伝説が伝わっており、ケツからまばゆい光を放つ必殺技「ケツフラッシュ」によって目晦ましをさせることで、追手の追跡から逃れていたといわれる。これもまた高次が蛍大名と呼ばれる所以であった。妹の竜子も発光能力はあったそうだが、兄ほどまばゆい光は発しなかった。ゲンジボタルはオスが尻の6,7節目が発光するのに対してメスは6節しか発光せず、「メスよりよく光る」という点でも蛍に酷似していた。

何故高次がケツが発光するような体質になっていたのかは定かではない。ただ、高次の両親である京極高吉京極マリアは共にキリスト教徒に帰依しており、厚い信仰から神の恩寵を授かったためにケツが光るようになったと同時代の宣教師達(フロイス、ヴァリニャーノ等)は口を揃えている。

その発光能力によって追手から逃れていた高次だが、攻撃の度にケツを露出させる事を逆手に取られ、ケツフラッシュの為にケツを出したところに吹き矢を放たれて悶絶、ついに捕縛されてしまった。

ケツのおかげで命拾い[編集]

追手に捕まってしまった高次だが、結果として命を救われた。竜子が秀吉に高次の助命を嘆願したことで助命されたとよく言われているが、たしかにそれもあるだろう。しかし命拾いの決め手となったのはその妹以上の美尻である。高次はまるで蛍のように光るケツを持っているという話を前から聞いていた秀吉は面白がり、殺すのは惜しいと考えていた。捕らわれた高次が秀吉の前につれてこられると、早速秀吉はケツを出すように命じた。実物で高次のケツを見た秀吉は、そのあまりのケツの美しさに恍惚としてしまった。男のカマを掘ることに全く興味のないノンケの秀吉でさえ、高次の宝石の如く輝くケツを見て、思わず「叩いてみたい」という衝動にかられてしまうほどであった。結果として、高次はケツ叩き1000回で許されることとなった。この時高次のケツ叩きを担当した石田三成は、「下手な職人が作った太鼓よりよほど良い音色を奏でる」と述べている。

蛍の交尾[編集]

浅井長政と信長の妹、お市の方の娘達、所謂浅井三姉妹の次女であるお初(常高院)を正室に娶ったことは有名である。高次とお初の婚姻はこの時代には珍しい恋愛結婚であった。お初に一目ぼれした高次は積極的に彼女にプロポーズを繰り返した。高次の求愛行動は発光しながらメスに求愛する蛍のオスそのものであり、ここにも彼が蛍大名と呼ばれる片鱗が伺える。高次のひたむきな努力は結実し、お初は高次の正室として京極家に嫁ぐこととなった。不思議な事に、高次と結婚してまもなく、お初も尻が発光するようになったと言う。

大津城のケツ戦[編集]

高次は豊臣政権下において、大して武功を挙げていないにも拘らず度重なる加増を受け、最終的に大津6万石を得、同僚達からは「妹と妻の尻の七光りで出世した」と陰口を叩かれていた。見返してやろうにも武功を上げる機会に恵まれず燻っていた高次だが、1600年の関ヶ原の戦いでの華々しい活躍により武将としての雄飛を果たす。高次は当初は西軍に属していたが突如東軍に鞍替えし、居城の大津城に篭城する。動機は今尚不明だが、事実上西軍の総指揮を取る石田三成にケツを千回叩かれた恨みを忘れていなかったという説が有力視されている。大津城には西国無双を称される勇将立花宗茂を筆頭とする大軍が攻めかかり、高次は篭城戦を展開する。ここで高次の伝家の宝刀であるケツフラッシュが十数年ぶりに炸裂した。西軍が打ち込んだ大筒の弾が、高次のケツに弾き返されたと言うとんでもないエピソードも伝わっている。宗茂らは散々に翻弄され、関ヶ原の本戦に間に合わなかった。

晩年[編集]

戦後、徳川家康は敵の戦力を削いだ高次の功績を高く評価し、小浜8万5000石を与えた。それから9年後の1609年、高次は47歳で逝去する。家臣領民は皆「何で蛍すぐ死んでしまうん?」と嘆き悲しみに暮れたという。死に際し、高次のケツを模った木魚が作られ、その木魚はその後京極家の移封に伴って讃岐丸亀に移り、今尚丸亀城に保管されている。

備考[編集]

実は高次はケツのみならず、股間にも発光能力を備えていた。しかし名家の御曹司であり、父から高等教育を受けていた高次は「男が息子を晒していいのは愛する女に対してだけ」という教えを墨守し、妻のお初以外の誰にもその光り輝くレイン棒を晒す事はなかった。